第42話 月の光が示す先

喧噪の後はいつも静寂が押し寄せる。ここには湖畔に打ち寄せるさざ波の音と、木の葉が風に擦りあう音だけがあるのみで、勝者と敗者の間だけに終戦の鐘の音が響き渡っている。


 空はすでに白み、月も朝日に呑まれつつある。月と日の光が静かな湖を照らし出している。


 揺蕩う波に身を撫でさせるがままに、唯花はその身を力なく横たえていた。魔術によって形どられた体の各所がひび割れており、足は砕けてすでにない。表情はどこか遠くを見つめている。それはきっと己の行く先だろう。


 そんな姉に青い剣を翳す少女が一人。犠牲の衣ももうなく、いつもの青い琉月を姉の首元へ突き付けている。彼女の後ろには、新井を含む駆け付けてきた三人がその光景を見守っている。


 少女の瞳に揺れはない。


「強くなったわね。真莉。でも、まだ自分を斬ることに躊躇いがあるわ。気をつけなさい」


「……」


 賞賛とも皮肉ともとれる言葉。その姉らしい言葉にも、もう心は揺らがない。


 真莉に視線を向けた唯花が、小さくため息を吐いた。


「……本当に変わったわね。真莉。そんな目、見たことないわ」


「おかげさまでね。非情を教えてくれてありがとう」


「フフ……どうかしら。激情に駆られているようにしか見えないけど?」


「……」


 真莉は冷たく目を細めて、その言葉を黙殺した。


「聞かせて、最後の最後でどうして諦めたの?」


「いじわる言うじゃない。単純に出力が足りなかったのよ」


「……。そう……。最期に言いたいことはある?」


「ないわ。未練もなければ、謝罪も反省もね」


「そう……」


 清々しいほどの独善さに、真莉は自分でも気づかず胸をなでおろした。もし唯花が反省や悔恨の類を口にしていたなら、また自分の覚悟が試されることになっていたかもしれないから。


「……あなたこそ、こんなことを訊いてくるなんて、まだ情があるんじゃないの?」


「馬鹿言わないで。常套句を言っただけよ」


 売り言葉に買い言葉。反骨心で言った後に走った痛みは、きっと気の迷い。ここに来て他の選択肢などない。あるわけがない。僅かな時間目を閉じて、彼女は琉月を振り上げる。


「さようなら、姉さん。あなたの命も背負って生きるわ」


 自身の全てではなく、一部として。


 本当の意味で自らの意思で生きるためには、姉の幻影を追う呪縛から逃れるために、この鎖を断ち切らなければいけない。


 今度は、自意識など残しはしない。意識の一片も残さず、完全に結界への生贄とする。


 それが今回の事件の、そして真莉にとってのけじめだ。


 唯花が儚く頬を緩ませたのを最後に、月光に琉月が煌めいた。


 ――が、


 真莉の手が下りない。僅かに上げた手が傾いたのみで、その手は小刻みに震えている。


「……っ!」


 少女は勢いよく顔を上げる。


「なんでよッ!」


 叫びは慟哭に等しく悲痛で……。


 その先にいたのは、恭佳に肩を担がれた一人の少年。彼は真莉に向かって手を翳している。服から覗くその腕は、筋肉質ではあるが細く青白い。いつも覇気を持てないその顔がさらに弱弱しくなっていることも相まって死人のよう。しかし、それでも彼は瞳の光は失わず、情愛の糸アンビバレンキネシスで琉月の動きを止めていた。


 覚悟に水を差されたことで、嫌悪感にも似た怒りが灯護へ向けられる。彼の行為は真莉の覚悟を踏みにじったに等しい。


「あんた、殺されかけたんでしょうがっ!あんなことまでされて、それでなんで止めるのよっ!」


 彼女の表情は険しく、「人が死ぬのが嫌だから」なんて月並みな言葉を言われようものなら、彼を殴り飛ばしそうな形相だ。


 しかし、


「だって……怨めないよ。唯花さんの気持ちがわかるから……。唯花さんのあの苦しみが……」


 まさに、その身に染みて。彼の頬を涙が流れる。


 灯護が一歩足を進める。恭佳の支えを断って、自分の足で姉妹へと歩み寄っていく。


「唯花さん……。こんな……こんな望みの叶え方……間違ってます」


「望み……?」


 灯護の言葉に真莉は眉を潜めて姉へと振り返る。彼女の目は遠く月を眺めていた。


 真莉の脳髄に電撃が走った。


 灯護の言う唯花の苦しみ。唯花が感情を剥き出しにした洞窟内での出来事はなんだったか。そして、灯護が嘆くような望み。そこからある可能性に思い至ってしまったのだ。


 真莉の表情が嫌悪感に歪む。


「まさか……」


 真莉の反応に、唯花はただ深く目を閉じるばかりであった。


(意識を保ったまま結界の一部でいる苦しみがわかるっ?生き地獄だったわ!)


 洞窟内で吐露された悲痛な心色。あのときあの言葉が、彼女の心のすべてであるなら……。


「はじめから、殺されるつもりだったのっ?」


 食いしばった歯の隙間から鋭く言葉を飛ばす。


 真莉の放った言葉に、恭佳は息を呑み。新井達も眉を顰めた。


「ハ……、そんなわけないでしょう。本気で継承権を奪うつもりだったわ。でも……負けてもいいとも、思っていたわ……」


 あの地獄から出られるのなら。


 その声に力はなく、死を望んでいたことの否定もしなかった。


 結界の一部となった唯花。半端な生贄となった彼女は、意識はそのままに人間としての生き方からは外された。腹も減らず、眠くもならず、何も見えず、感じない。肉体的刺激は全て結界としての知覚に変換された半端な生。ただ機械のように結界の管理をするだけ日々。狂おうにも狂えないまさに生き地獄。


 灯護には伝わっている。その苦しみが。辛さが。苦しみに耐えられず、妹を怨むことでしか自我を保てなかったその悲しみが。


 彼は真莉だけを想って洞窟へ駆けた訳ではなかった。真莉と唯花。二人の姉妹の運命を嘆き、彼は命を擲ったのだ。


 唯花が勝っても、真莉が勝っても出来上がるのは悲劇のみ。


 だが、


「なんて残酷なことをしてくれるの……」


 唯花の口から掠れた声が漏れた。


「そんなこと言わなければ……」


 今日の出来事はただの事件で済んだのに。どうして真莉にそれを知らせてしまったのか。


 この場を悲劇したのは、他ならぬ灯護ではないか。


「でも僕は、あのままでいいとは思いません……」


 しかし、


「だから何?関係ないわ」


 真莉はぶれない。剣を握る右手に緩みはなく、今もまさに剣を振り下ろさんとする姿勢は変わっていない。冷徹に、冷酷に。


 灯護を見ないままに彼女は歯をむき出しにして声を荒らげる。


「この人はもう殺す。そうしなきゃいけないし、そう決めたのよっ!」


 もとより情愛の糸の拘束力など微弱。情愛の糸を振り切り、琉月が振り下ろされる。


 だが、そんな真莉と唯花の間に、灯護が割って入ってきた。


 彼の目の前で止まる刃。その瞳は青い刀身など見向きもせずに、真莉の目を真っすぐ見つめている。もう力なく、足は疲弊し震えている。それでも彼は両手を広げ立ちふさがる。


 真莉は歯がみする。


「どきなさいっ!」


「どかない」


「くっ……」


 真っすぐな視線が真莉を射抜く。そこから伝わってくる意志の輝きに思わずたじろぐ。


「なんなのよあんたは!そんなことされたって、私の心は変わらない!」


「そうだね。変わらない。だからなおさら、見過ごせない。だって――」


「人が死ぬのが嫌だから⁉ もうそんなところは過ぎたのよ!半端な気持ちで――」


 


「――君がそれを望んでない」


 


 真莉が言葉に詰まる。突然心に手を触れられて、彼女の頭が一気に冷える。


 彼の濡れた瞳に、頑なな自分の姿が映っていた。その姿はひどく歪んで見えた。


 彼には人の思考まではわからない。わかるのは感情だけ。しかしだからこそ、彼は真莉の心の奥に閉じ込められた悲壮な感情を感じ取っていた。


 怒りという名の鎧で覆おうと、その中身は彼に伝わってしまう。


 この戦いを悲しむ、真莉の本心が。


「だってずっと、こんなにも……お互いに戦うことを悲しんでいるじゃないか……。君も、唯花さんも……」


 灯護の目から涙が零れ、真莉の目が見開かれる。


 唯花を見る。彼女は諦めたように嘆息し、真莉から目をそらす。


 姉妹のどちらも、互いに心の奥底で悲しみながら、殺しあっていたのだ。だから彼は、この悲劇をなんとかしたかった。同じ感情を持っているのに、あらゆるしがらみでそれを表に出せない彼女たちの在り方がどうしても悲しくて……。


「ちがう……。わ、私は本当に……」


「本当に?君が望んでいることは、本当にそんなことなの?」


 繰り返される言葉。彼の姿のどこをとっても頼りなく弱弱しいのに、その目の奥に灯る光だけは爛々と輝いて真莉を捉えている。


 心まで透かされているようなその瞳を見ていられなくて、彼女はついに俯いた。


「私は、私は……」


 肯定で返そうとした声が出ない。吐き出そうとしたどんな言葉も、彼には無意味な虚勢と映ることが自分でもわかるから。


 感情と意志。分けることの難しいその二つ。強い意志を持って生きることを目指す彼女は、感情に意志が流されることなどあってはならないことだと思って生きてきた。事実、感情を思考で極限にまで制御してきた。


 でもわかっていた。


 どれだけ制御しようと、感情を無くしているわけではない。いつでも、何度でも感情は発露する。何も思わなくすることはできない。


 本当は、心の奥底では、やはり姉を殺したくなんてない。


 剣を握っていた手から力が抜け、琉月が力なく地面へ下げられる。


 もはや、彼女の表情から険しさは消え、代わりに悲壮に歪んだ。


「何を迷っているの……」


 苛立ち交じりの唯花の声が真莉を刺す。


「あなたがさっき言った通りじゃない!あなたが何を感じても、やることは変わらないでしょう!だから真莉……。お願い……。お願い……私を殺して……!」


 言葉の最後は消え入るようで。表情は苦悩に満ちている。それを聞いた真莉の表情も同じ色に染まる。


 灯護は何も言わない。彼に結末を変える力はない。ただ悲劇にしかなり得なかったこの事件の終結に、別の可能性を示しただけ。それが彼の精一杯だ。


 だから結局決めるのは真莉。


 真莉が目を閉じる。しばらくの間、さざ波すら息をひそめる時間が流れる。


 そして彼女は瞼を上げる。


 少女が歩を進める。灯護が道を譲り姉妹が再び対面する。


「真莉……お願い……」


 悲しい懇願を漏らす唯花。地獄を恐れ、運命に翻弄された自らを嘆くその表情は痛々しい。


 真莉の表情も負けず劣らず憂いに満ちている。ただ違うのは、その瞳は強い決意の光が現れている。


 過去に縛られた意志でも、激情に流された意志でもない。本心と向き合って出した、彼女の最後の結論。


 灯護の頬からまた一筋涙が流れた。


「姉さん……。ごめんなさい」


 緩やかに琉月が振り下ろされる。


 月光に青い刀身が煌めいたその日、結界の管理権は真莉へと移った。

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