第35話 真莉の心へ

 武部家の一室は静かだった。灯護だけがいる和室にはただ雨の音だけが響いている。


 唯花が黒幕であったことを告げたあと、新井も恭佳も五分と立たずにどこかへ行ってしまった。『ここにいろ』という指示だけを残して。


 蛍光灯に白く照らされた部屋の中で、彼は膝を抱えて震えていた。


 何に、と問われれば、これまでの全てのことにだ。墓地で襲われたことにはじまり、博物館の一件、そして肉体が乗っ取られかけたことも。何度も命を脅かされた経験という名の傷が心に刻まれている。それが今恐怖と言う形でその激痛をあらわにしている。


 自分でも不思議に思う。


 いままですっとなんともなかった。どうして今さらこんなに怖いと思うのかわからなかった。


 いや、理由など明白ではないか。


(ずっと……真莉さんが近くにいた)


 学校やバイト先など、灯護が多くの人に囲まれるときを除けば、決まって彼女は灯護の隣にいた。


 不思議に思ったことはあった。


 魔術を駆使すれば、護衛の方法はいくらでもあったはずだ。なのに彼女は傍にいる方法を選んだ。灯護のことをあまり好いていないというのに。


 なぜそうしたか。その意味が今わかった。


 灯護の心も守るため。


 膝を抱える指に力が入る。


 守っていたのだ。気丈な自分が近くに居続けることで、その心に共鳴する灯護から恐怖を遠ざけていてくれていたのだ。


 真莉の無事を願う。灯護の報告を受けてすぐに新井が電話をかけたが、応答はなかった。あのときにはもう手遅れだったのだろうかと思うと、胸が締め付けられる。


 これだけ心が痛むのに、あれだけ助けてもらったというのに、もはや自分にできることは無い。それだけの力が自分にはない。あまつさえここで恐怖に駆られているという情けなさに、灯護は強く唇を噛んだ。


『……あの子は助からないだろうな』


 突然部屋に低い声が響いた。


 ビクリとして音源の方へ振り返る。


 そこは西洋風の水盆が置かれた床の間だった。ここに来た時からずっと何者かのディザルマ意志を感じていた場所だ。


 灯護は水盆へとにじり寄る。


「あなたは……?いや、そんなことより、あの子って真莉さんですか?助からないってどういうことですか?」


「そのままの意味だ。真莉が唯花に勝てる道理がない。唯花には協力者の魔術をもってしか真莉を害す手段がないだろうが、それを差し引いても、今の真莉では勝ち目はない。もとより半人前の魔術師。それに……君に半分も力を分けてしまっている」


 ハッと右腕のブレスレッドに視線を落とす。


 そうだった。今の真莉は万全とはほど遠い。ならば今彼女は灯護のせいで危機に陥っているということではないか。


 灯護の全身に落雷でも落ちたかのような衝撃が走る。


「湖月の魔術を完全に防御へ回せば一時間ほどは抵抗できるだろうが。それで終わりだ。あの子は捕まり、そして新しい人柱とされるだろう」


 一時間。ここからあの洞窟まで歩いて三十分程度。今は真莉が出て行ったのが三五分前ほどだったそうだから、彼女あと半刻もせずに唯花に負けてしまうということではないか。


「この魔術、解除する方法はないんですかっ?」


『ない。その魔術は、かけた本人が触れることでしか解除できない』


「そんな……」


 拳を強く握りしめて俯く。


 自分のせいで真莉が苦しんでいるというのに、何もできないというのか。


『あの子を助けたいか』


「助けたい!助けたいです!」


 飛び出た言葉には迷いはなかった。しかし、それは決して思考を捨てた末ではない。水盆に向ける瞳の光が決意の強さを物語っている。


 今ここに、誰も人はいない。彼は誰にも流されていない。純粋な、ただ彼だけの本当の意志がここにある。


『ならば、やるべきことはもうわかっているな?』


 少しだけ声が詰まる。様々な逡巡と、自分の命への執着で編まれた縄が足を引っ張っていた。


 だが、


「……はい」


 真莉の姿を思ったとき、それも自然に断ち切れていた。


 自身の頭で並べられたどんな言葉も、結局は一つの言葉に塗りつぶされた。


 もう、だれにも死んでほしくない。


 知っている誰かが死ぬなんてもう耐えられない。それと比べたら自分の死などいくらでも抑え込めた。


『お前とあの子二人なら、変えられるかもしれぬ。運命を、お前の望むように』


「僕の……」


 望むように。


 灯護は立ち上がる。彼はもう震えていなかった。


『あの子を……頼むぞ』


「はい!」


 枕もとの兄のナイフを掴むと、彼は部屋から飛び出していった。


 足音は遠ざかり、部屋にはまた雨音だけが残される。


 静かに水盆の水が震えた。


『愚かな子供だ』


 真莉が一時間も抵抗できるなど嘘。唯花なら一瞬で無力化できるよう準備しているだろう。


 実を言うと、彼はかなり早い段階で唯花が黒幕であることに気付いていた。そのうえで静観した。彼にとって重要なのは、湖月の魔術の継続。継承者が真莉であろうと唯花であろうとどちらでもいいことなのだ。


 灯護が行けば真莉が助かるかもしれないというのも嘘。少し超能力が使える一般人が行ったところで変わるものなど何もない。


 灯護をそそのかしたのは、ただ邪魔だったからだ。彼は湖月の魔術を見ている。魔術存続のためのリスクでしかない。少しでも早く死んでくれたほうがいい。


 『その愚かさに助けられたよ。さらばだ』


 水盆に張った水の波紋も凪ぎ、やがて部屋で動くものはなくなった。


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