第33話 雨夜に咲く花の色

 朝はまだこない。


 夜の雨は森を覆い、この湖を朝日からずっと遠ざけている。


 だが、そこにあるのは完全な闇ではなかった。


 湖面がぼんやり青く光っている。その光は湖周囲の風景を青く浮き上がらせていた。木々や岩のあちこちには、木でできた人型や幾何学模様の描かれた旗など、魔術の匂いのするものが置かれている。それらは雨に打たれながら、ただ静かに己の役割を果たしている。


 湖畔にて真莉は、波打つ水面に手を触れていた。傘を差しているものの、長時間外にいるせいでほとんど濡れ鼠だ。


 雨の隙間に彼女のため息が小さく挟まる。


「……異常なし、か」


 立ち上がって手についた水を払う仕草をする。ずぶ濡れの今、その行為はほとんど意味を成さないのだが、その動きに連動するかのように湖面の光が収まっていく。


 唯花では把握の難しい結界を構成する魔具の物理的な異常を調べていたが、徒労だった。


 彼女はポケットから携帯端末を取り出す。ノアリーから支給された防水式の端末が、無機質に時間を表示している。


(だいぶ時間食ったな……)


 そのまま懐中電灯アプリを起動し、足元を照らしながら湖畔に沿って足を進める。


 視線の先には湖に張り出した崖にある洞窟がある。あの中に唯花と、そして湖月の結界の中枢がある。


 洞窟の中に入ってから傘をたたみ奥へと踏み入っていく。


 ここはいつも静かだ。


 森を越え、湖畔の先にある洞窟。中に入って進んでいけば唯一聞こえていた雨音も消え、代わりに岩盤と真莉自身から滴る水滴の音だけが聞こえるようになる。


 携帯端末の光をたよりに洞窟の奥へと足を進めていく。やがて奥から漏れてくる青い光が空間を覆い、その光もいらなくなる。


 真莉の表情は固い。


 この場所に来るときはいつもそうだ。


 本来なら、結界に捧げられた生け贄は一切の意思を奪われ、結界の一部となる。だが真莉が父親に頼み込み、唯花の意識だけは残してもらったのだ。未熟な真莉では結界の管理は十分にできないので、それを唯花に任せたほうがいいという考えももちろんあっただろう。


 いずれにしても、こうしてここに来れば意思を持つ唯花と会うことができるのは、真莉にとって嬉しいことだ。だが、一方で唯花に今の未熟な自分を見せることが後ろめたくもあった。姉の命の上に立っているというのに、それに見あうだけの自分を作れていない。そんな自分では姉の前に立つことさえ恥ずかしく感じる。とりわけ失態をおかした時は強くそう思う。


 今回の件だってそうだ。


(姉さんならこんな失敗しない……)


 祠の奥にたどり着く。


 相変わらず幻想的な青い空間。足元に分厚く張った氷や岩壁に刻まれた魔方陣は淡く輝き、各部に魔術的な意味を持って配置されている宝石やナイフなどの魔具たちは、ただ時を眺めている。


 いつもと変わらない光景がある……はずだった。


「姉さん。……っ⁉」


 祠に足を踏み入れたとたん真莉は異変に気付く。最初に感じたのは中の光景への違和感だけ。だが、変わるはずのないこの場所で違和感を覚えると言うのはそれだけで異常だ。もとより結界への干渉は予想していた。彼女の警戒度が瞬時に最大値まで上がるのと、違和感の正体に気づいたのは同時。


 以前来たときにはなかった魔具や魔方陣が増えている。


 これは一体、と思う間もなく周囲から複数のディザルマを感知する。即座に真莉は右腕から流月を引き抜く。しかし、何が起きたか認識する前に、壁面の魔方陣から真っ黒な氷でできた人形が飛びかかって来た。


 間一髪で反応し、降り下ろされた腕を流月で受ける。黒氷の人形は四肢が刃のよおうになっており、細い体だというのにとんでもない膂力だった。一瞬で真莉は力負けし剣を弾かれる。


 真莉はこの黒い人形から「救済」感じていた威圧感と同じものを感じていた。きっとこいつも特別製。対して真莉は灯護に力を分けたままで、不意打ちにより犠牲の衣すら纏えていない。


 黒氷の人形の速さと力強さを兼ね備えた攻撃に圧倒され、わずか数秒で真莉は地面に組み伏せられた。青い短剣が宙を舞い、近くの岩に突き刺さる。黒氷の人形はうつ伏せに倒れた真莉に乗り、自らの四肢を真莉の四肢に突き刺して彼女を地面に釘付けにする。


「がっ……ぐぅ……」


 必死に抵抗するが、今の真莉の力では振り抜けない。魔術でなんとかしようとも人形から流れ込んできた黒い水が、瞬時に真莉の全身を縛り上げ、彼女は一切の身じろぎもできなくなる。


 動けない真莉の目の前で、別の魔方陣から流れ出た黒い水が一点に集まっていく。それはやはり人型を成していったが、彼女を組み伏せている人形と違い、細部まで形が作り込まれていく。


 背は高く、髪は長く、体型は女性的。そして作り出されたその顔は……、


「姉……さん……?」


 真っ黒に形どられた唯花の各部位に色が現れ、やがて質感以外はほとんど人間と遜色ない姿となる。


 彼女は新しい器の調子を確かめるように手を閉じたり開いたりしたあと、氷の体であるにも関わらず、髪をかき分ける仕草をする。そこには肉体を懐かしむ色がにじんでいた。彼女は憂鬱そうにため息をついた。


「はぁ……。やっぱりこっちが先になっちゃったか。できればちゃんとした肉体を手に入れてから返してもらいたかったんだけど」


 唯花が真莉を見下ろす。その視線は氷のように冷たく、留めきれない憎悪が溢れている。


 その瞳を見たとたん真莉は全てを理解した。


「そう……そういうことだったの……」


 視線を氷の床に落とし、彼女の抵抗が止まる。


「ええ。侵入者なんて嘘。全部私の自作自演よ。私がここから出るための、ね」


 唯花が黒幕だったと考えるなら、これまで不可解だったことにすべて簡単に説明がつく。いない侵入者をいるように見せかけることも、真莉を結界から切断することも、灯護や真莉の位置を完全に把握することも、結界の管理人である唯花なら容易に実現可能だ。


「どうして……」


 真莉の口からその言葉が漏れたとたん、唯花の表情が一変した。眉は吊り上がり、ギラリと怒りに目が光る。彼女の中で吹き荒れていた憎悪の吹雪が堰を切って吹き荒れる。


「どうして……⁉ わからないっ?私をあんな姿にしておいて!」


 息荒く牙を剥きだしにして唯花は真莉の頭を踏みつけた。


「意識を保ったまま結界の一部でいる苦しみがわかるっ?生き地獄だったわ!なんの刺激も感じない!意識だけのままただ同じ空間に居させられ続けて!それだけじゃない!私の代わりにのうのうと生きているあなたと会うのも我慢ならなかった!」


 言葉の一言一言が深く真莉に突き刺さる。その痛みは踏みつけられている頭に感じているものよりもずっと痛い。


「私をあんなふうに半端に生かしたのはあなたのエゴよ。あなたは、私の人生の全てを乗っ取る罪悪感を和らげたかっただけよ」


 それはずっと真莉が恐れていた言葉であった。恐れていて、ずっと訊くこともできなかった言葉。いつかこう言われるかもしれないと、唯花はそう思っているかもしれないと、真莉はずっと思っていたのだ。


 だから、そうじゃない。彼女がさっき漏らした言葉の意味は……。


「そうじゃないの……。さっきのはそういう意味じゃない。……私は、姉さんが言ってくれれば……その方法があるってわかっていたのなら……いつだって姉さんと代わったのに……。こんなことをしなくても……」


 言葉の通り真莉に一切の抵抗の意志はない。この先には自分の死が待っているとわかっているのに……。


 唯花がこの結界から出るということは、代わりに結界を維持するための人柱がいるということ。それが誰かなど考えるまでもない。


 真莉と違って充分に能力のある唯花は、結界の管理も自分でできる。自分が起こしたような反乱を防ぐという意味でも、真莉の自意識すら残さず完全に結界の一部とするだろう。


 唯花の姿を見て、全てを察したそのときから、真莉を生かしていた全ての支えは砕け散っていた。唯花の代わりに伸ばされた人生。少しでも、あるはずだった唯花の人生をたどるために生きてきた。だが、それももう終わり。唯花が蘇るというのなら、真莉が生きたいと思う理由は何もない。


 ただ……、


(悠斗さん……)


 悠斗。灯護の兄の顔が脳裏にチラついた。心のどこかから声がする。自分は悠斗の人生も背負ったのではなかったのか、と。この死は彼の死に報いているだろうか、と。


 無意識に真莉は拳を握りこんでいた。


 だが、


「……本当かしら?」


「……。ええ……。本当よ姉さん」


 彼女は僅かに動いた心に冷たい蓋をする。


「……そう」


 真莉の言葉に唯花はただ目を細めただけだった。ふと目を閉じて再び開けた彼女の顔に先ほどまでの憎悪の色はなく、いつもの底知れない表情が張り付いていた。


 つならなそうに肩を竦めて言葉を吐く


「まあ、あなたならそう言うかもと思っていたけど。でも、湖月の人たちはそうはいかないでしょう?あの人たちリスクはとらないんだから。私のときだって――」


 と、彼女が言葉を続けようとしたとき、洞窟全体を照らす光が赤色に数度点滅した。唯花が形のいい眉を顰める。


「新井さんたち……。思ったより早かったわね……」

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