第5章 第4話 Sasanqua その6

 一向に止む気配のない雨と遅すぎる時間に、大通りを歩く人影はもうない。

 そんな状態では、傘をさして人混みに紛れる事などできなかった。

 くのりは仕方なく、息を潜めながら人気のない路地を縫うように歩く。

 少しでも目立たないようにするため傘は使わず、冷たい雨にその身を晒していた。

 突き刺すような痛みと寒さに顔を顰めるが、今はその感覚に助けられてもいた。

 そのくらいの刺激がなければ、あっと言う間に意識が途切れてしまいそうな気がしていたのだ。

「遅く、なっちゃったな……」

 そう呟きながら、くのりは壁に手をつく。

 組織に尾行されていない事を確かめながら移動してきたのだから、それも仕方がないとため息をついた。

 それに、途中で着替える必要もあった。

 目立ちすぎる戦闘用スーツは捨て、閉店後の店舗に侵入して着替えを調達した。

 手持ちの資金があればお詫びにいくらか置いておきたいところだったが、生憎と手持ちはなかった。

 いつか機会があれば、利子をつけて返そうと、くのりは朦朧とする意識で考える。

 迷惑をかけた施設は、他にもある。

 本部から脱出する際、包囲している警備隊を突破するのに傷を負ってしまった。

 躊躇なく実弾を撃ち込まれたくのりは、さすがに全てをかわしきる事はできず、数発の銃弾を浴びた。

 スーツのおかげで致命傷は受けずに済んだが、それでもダメージはある。

 中でも、脇腹に受けた一発はスーツを貫通していた。

 その治療をするために、小さな病院にも立ち寄る必要があった。

 くのりが最低限の応急処置を済ませた頃には、すでに日付が変わっていた。

 そこからここまで来るのに、大分時間がかかってしまったのだ。

 だが、血を滲ませたまま龍二に会うわけにはいかない。

 左腕と左足の包帯は今更だが、脱出の際に傷を負ったと悟られたくはなかった。

「気を遣われるのは、正直嬉しいけど……」

 だからと言って、彼に哀しい顔をさせるのは本望ではない。

 見たいのは、彼の笑顔だ。

 せめて遅くなると連絡をしたかったが、脱出の際に運悪く端末を破壊されてしまったため、それもできなかった。

 自分の状態を冷静に見るのなら、まずどこかで一度休むべきだ。

 そうわかっているが、連絡できない以上、それはできない。

 遅くなればなるほど、彼は不安になるだろう。

「本当に、イヤな雨……」

 体力を奪われるだけではない。

 雨に打たれていると、嫌な事ばかり思い出してしまう。

 銃で撃たれて海に落ちたのも、雨の夜だった。

 愛おしい日常を終わらせた、あの日。

 とっておきの素敵な想い出もあるが、撃たれた記憶と痛みを和らげてはくれなかった。

「それに、あの時も、か……」

 嵐の夜より、さらに二年ほど前の雨の日を思い出す。

 潜入任務に就いて間もない頃、まだ龍二と仲良くなっていない、梅雨の夕暮れ。

 その日は、学校を休んだ。

 学生服に身を包み、いつもとは違う道を歩き、何食わぬ顔で標的に近づき、誰にも気付かれる事なく、標的の頸動脈を切断した。

 それまでの殺人を目的とした任務とは、決定的に違う。

 くのりは初めて直接、その手で人を殺したのだ。

 間接的な方法ではなく、相手の息遣いを感じながら、それが途絶える瞬間を最後まで見た。

 ナイフを通じて伝わって来た死の感触が、手のひらに残っていた。

 あとは帰るだけだったが、なぜかその気になれず、大雨の中を傘もささずに歩いた。

 そして気が付けば、学校の近くだった。

「なんで、だったのかな……」

 今でもまだ、理由はわからない。

 どうして学校に足が向いてしまったのか。

 あの頃はまだ、恋を知らなかったはずなのに。

「……気づいてない、だけだったのかもなぁ」

 自覚できなかっただけで、エージェントではない自分が生まれつつあったのかもしれないと、今なら思える。

 なんだか今は、妙に思考が穏やかだ。

 突き刺すような冷たい雨のせいか、それとも血と一緒に不純なモノが流れ出してしまったのか。

 身体の中に残っているのは、ただ純粋な感情ばかりに思える。

「なんて、ねぇ……」

 こんな風に考えられるのは全て、彼のおかげだと、くのりは口元を綻ばせる。

 自分はずっと昔から、迷子だったのだろう。

 それに気づけず、ただ暗闇を歩いていた。

 壁にぶつかっても気づかず、転んでも痛みを覚えず。

 安藤龍二が、気付かせてくれたのだ。

 限られた時間と檻の中で、恋を重ねて。

 気付かされてから、自分が生まれた理由を考えた事もあった。

 でも、途中でどうでもよくなった。

 どんな思惑であれ、生み出されてしまったのだ。

 自然の摂理から外れた、歪な存在として。

 それが、どうしたというのか。

 生まれた理由なんて、どうでもいい。

 彼に恋をして、彼を愛している事に、なんの影響もない。

 自分の気持ちも、なに一つ変わらない。

 なら、やはりどうでもいい。

 だけど、生きる理由だけは譲れない。

 自分が自分である事の、逢沢くのりの意思だけは。

 それは全て、安藤龍二がくれたものだから。

 彼との時間が、教えてくれた。

 ただ漠然と願うだけで叶うものなど、ありはしないと。

 だから彼のために、残された命を使うと決めたのだ。

 どうせ死ぬのなら、彼のために死のうと。

 そのために、生きる事を望んだ。

 彼が見せてくれる笑顔、なにげない一言が、くのりにとっては祝福だったのだ。

 他の誰かが言えば呪いになる言葉でも、彼が言ってくれれば、その姿を変える。

「りゅう、じ……」

 感覚すら薄れていく寒さの中で、くのりは愛しいその名を呟く。

 それだけで、身体は熱を持ち、前に進める。

 コンクリートで塗り固められた世界でも、見渡す限りの雪原であろうとも。

 彼がいるのなら、歩いて行ける。

「待ってて……もう、少しだけ……」

 ようやく港の工場地帯まで辿り着いた。

 雨は微かに、その勢いを弱めている。

 しかし、寒さは増しているように思えた。

 雨から雪に移り変わる気配が、くのりの身体を包み、足に纏わりつく。

「――――っ」

 左足が消えてしまったような感覚に、くのりは倒れ込む。

 壁に手をついて身体を支える事もできず、路地裏に転がった。

「……汚れ、ちゃったか」

 濡れてしまうのは仕方ないとしても、せめて綺麗な格好で会いたかったのにと、くのりはため息を吐く。

 身を起こそうとして、上手く力が入らず突っ伏してしまう。

 苛立つのも勿体ないと、くのりは這うようにして先を目指す事にした。

 幸いにも、目的地はすぐそこだ。

 この路地を抜ければ、あの廃工場が見える。

「デートの待ち合わせ、みたい……」

 早く行かなければという想いが、くのりの胸中を満たしていた。

 遅くはなってしまったが、この調子なら夜明け前には会えるはずだ。

「寝てたら、どうしてやろうかな……」

 遅れているのは自分だが、そこはちゃんと起きて待っていてくれるのが、男子たるものだろうとくのりは思う。

 龍二の事だから、起きているつもりでうっかり寝てしまう可能性もあるが、そこは頑張って欲しいところだった。

「はや、く……さすがに、風邪ひきそう……」

 それはそれでいいかもしれないと、心のどこかで思う。

 看病されるのも、悪くない。

 弱っている自分を見せるのは恥ずかしいが、龍二にならいいかと思える。

 なにより、彼の温もりを今、感じたい。

「……あれは、ノーカウントにしておきたいなぁ」

 龍二に抱き締められた事は、一度だけある。

 夏の誘拐事件の時、二人きりの保健室で、一度だけ。

 爆弾らしきものを投げ込まれた時、龍二はくのりを庇うように抱き締めた。

 あの時の流れは、共犯者によるアドリブに近かった。

 投げ込まれたものが爆弾ではないとくのりは知っていたが、それでも驚いてしまった。

 まさか、龍二に守って貰えるなんて、想像した事もなかったのだ。

 自分にそんな素敵なシチュエーションが訪れるなどと、どうして想像できると言うのか。

「でも、もしあの時、もう少し時間があったら……」

 保健室で見つめ合った瞬間、全てを忘れてしまいそうだった。

 あの時の自分はどこか、おかしかったのだと、くのりは思う。

 全てを知っていたのに、感情がざわついていた。

 深月を看病するため、保健室に龍二が残った事も。

 奏へのプレゼントを買いに行ったのが、自分ではなかった事も。

 だからきっと、共犯者の邪魔が入らなければ、あの場でキスしてしまっていただろう。

 そしてそのまま、告白までしていたに違いない。

 くのり自身、どこからどこまでが演技だったのか、わからない。

 わかるのは、それくらい全力で恋をしていたという事だけだ。

「ちょっとだけでもいい……龍二と、また……」

 博士との会話や、脱出する際の対応ではっきりと理解していた。

 自分にはもう、残された時間などないも同然なのだと。

 春は遠すぎて、待つまでもない。

 いつ死んでもおかしくはないのだ。

 久良屋深月に勝てただけでも、奇跡に近い。

 でもまだ、諦めるつもりはなかった。

 あんな風に、龍二が言ってくれたから。

 一緒に逃げようと、一緒に生きようと。

 それは叶っても、ほんの僅かな時間だけだろう。

 けれどそれでも、構わない。

 彼がそう言ってくれたのだから、自分が応えないわけには、いかない。

 なのに腕も足も、動かない。

 感情だけが、先へ進もうとしている。

「…………ぁ」

 不意に、音が消えてしまう。

 なにも聞こえず、響かない。

 一面を白雪が埋め尽くしたような、耳に痛い静寂。

 そんな世界で、くのりは笑みを浮かべた。

「…………待たせすぎ、だよね」

 駆け寄ってくるその姿に、安堵する。

 間に合って良かったと、全身を温かいなにかが満たしていくようだった。

「――――――――」

 ずぶ濡れで駆け寄ってきた龍二に、くのりは抱き起される。

 なにかを叫んでいるが、声は聞こえなかった。

「風邪、ひくぞ……」

 照れ隠しにそんな冗談を口にしながら、自分の身体に回された龍二の手に触れる。

 その温かさに、忘れかけていた感覚が戻ってきた。

 必死になにかを言っている龍二に対し、くのりはただ微笑む。

 酷い格好だが、仕方がない。

 間に合ってくれただけで十分だと、心配そうにしている龍二の頬に手を伸ばす。

 雨に濡れた冷たい頬を、温かい涙が流れていた。

 綺麗な涙だと思いながら、くのりはごめんねと告げた。

「泣かせたく、なかったんだけど……やっぱり、泣いちゃうよね」

 こうなる事はわかっていたが、いざ涙を見ると、胸が痛む。

 けれど、それ以上に幸せだと満たされているのも、事実だった。

「実はちょっと、憧れてた……」

 どうせ死ぬのなら、好きな人の腕に抱かれて逝きたいと。

 そんな悲劇のヒロインじみた夢を、くのりは抱いていた。

 あまりにも恥ずかしすぎて、決して口にはできなかったけれど。

「やっぱり、王子様だなぁ」

 安藤龍二は間違いなく、逢沢くのりにとっての王子様だったと、穏やかに微笑む。

 幸福が身体を満たすほどに、命が押し出され、こぼれていく。

 逢沢くのりに宿った生命が、静かに冷めていく。

 声を出すのは、もう無理だと思えた。

「…………」

 それでも最後に伝えたいと、くのりは唇を開く。

 なにを言うのが正しいのかは、わからない。

 言い残したい事は、いっぱいあるけれど。

 でもやっぱり私は、どこまでも自分勝手なんだろうなと、くのりは目を細める。

 残された全てを込めるように、龍二を見つめる。

 涙と雨でぐちゃぐちゃになった龍二の顔が、近づく。

 その唇が、今にも触れそうな距離まで迫る。

 彼の吐息を感じながら、くのりは囁くように、喉を震わせた。

「…………すき、だよ」

 そう、自分勝手を貫いて。

 それだけは決して忘れないでいてと、願うように。




 そして逢沢くのりは、眠るように目を閉じる。


 穏やかな表情で、静かに。


 ――無色の雨は、純白の雪へとその姿を変え、彼女に降り積もっていった。

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