第5章 第4話 Sasanqua その5

 頼りない明かりが灯る部屋で、降りしきる雨の音に耳を澄ませる。

 たった一つのドアがいつ開くのかと待ちながら、背筋を刺すような寒さに身を震わせた。

 外気が入ってこないよう、タオルに包んだ身体を更に縮こまらせる。

「少しは寝たら?」

「……なんか、眠れなくて」

「……まぁ、わかるけどさ」

 龍二と同じようにタオルを纏っているうてなは、そう言って背中を預けていた壁から離れる。

 立ち上がったうてなはそのまま窓際へと移動し、埃まみれのブラインドをずらして外の様子を眺める。

 本格的に降り出してから、すでに数時間が経過していた。

 この季節には珍しい土砂降りに、視界は劣悪としか言いようがなかった。

 二人が身を潜めているのは、港にある廃工場の一室だ。

 かれこれ二時間ほど前に到着し、逢沢くのりが来るのを待っていた。

 日付は少し前に変わってしまったが、彼女が現れる気配はまだない。

「この雨じゃ、わかるわけないか」

 うてなは誰にともなく呟き、ブラインドを戻して龍二の近くに座る。

 部屋を照らしているのは、キャンプなどで使用されるランタン型のライトだ。

 念のために用意しておいたものだが、使う機会がこうも早く来るとは思っていなかった。

「寒い?」

「……少し、ね。でも着替えたからまだマシだよ」

 最終的に徒歩でここまで移動せざるを得なかった二人は、ずぶ濡れの状態で廃工場に到着した。

 途中で回収した荷物には着替えが用意してあったので、二人ともすぐに着替えた。

 着替えがなければ、ここでこんな風に待ってはいられなかっただろう。

「どうせならさ、携帯用の暖房器具とかも開発しておいてくれたら良かったのにね」

「そういうのはないんだ」

「私の知る限りでは、だけど」

 開発部が作るものは偏りすぎていて、こういう時に役立つ物は少ない。

 諜報活動や戦闘行為のために開発されたものが多すぎるのだ。

 その開発力をもっと一般的な生活に向けていればと思うが、あの組織では無理だろうなと、うてなは僅かに唇を歪めた。

「食べる?」

「……ありがとう」

 うてなが鞄から取り出したお菓子を、龍二はお礼を言って受け取る。

 が、すぐに口をつける事はなく、視線をブラインド越しの外へと向けた。

 その様子を横目にしながら、うてなは包装を破って口に放り込む。

 身を潜めている都合上、光源は最小限にとどめておく必要がある。

 この廃工場に、まだ風雨を凌げる部屋があったのは僥倖だった。

 そうでなければ、こうして待つ事も困難だっただろう。

 心細く感じる明かりに視線を落とし、うてなはペットボトルに口をつける。

 僅かな明かりが映し出す龍二の横顔には、はっきりと不安が浮かび上がっていた。

 こんな寒々しい場所にいては、明るい気持ちになどなれるはずがない。

 せめて温かな場所で待つ事ができたらと、思わずにはいられなかった。

「…………」

 そんなうてなの心情に気づけるはずもなく、龍二は暗闇の足音にも思える雨音を聞いていた。

 雨の日を不安と感じるようになったのは、いつからだろう。

 それは、疑問にすらならない。

 いつからなのかは、わかりきっているのだから。

 逢沢くのりに誘拐されたあの日、あの夜からに決まっている。

 あの嵐の夜、この廃工場で、龍二は知りたくない事を知った。

 逢沢くのりが首謀者であり、ただの高校生ではなかった事。

 組織を裏切ったエージェント。

 そして、二人の寿命を。

 くのりは自分があと一年たらずしか生きられないと言った。

 龍二もまた、同じだと。

 今ならそれが嘘ではなかったと思える。

 彼女は残された時間でどうするのかを考え、行動した。

 そうして最後は銃で撃たれ、嵐の海に呑まれてしまった。

 あの光景は、今でもまだ夢に見る。

 以前よりも頻度は下がったが、どうしてもあの光景と感じた痛みを忘れられない。

 だからどうしても、雨は不安になるのだ。

 不吉な足音のように聞こえてしまって、苦しくなる。

 待っているしかない状況が不安だから、余計にそう感じるのかもしれない。

 だが、不安になってばかりいる必要はないと、龍二は目を閉じる。

 忘れられない事なら、もっと他にもある。

 初めてキスをしたのも、ここだ。

 突然すぎるキスだった。

 キスをしてしまったと微笑むくのりの顔は、よく覚えている。

 微かに上気した頬も、照れくさそうな笑みも。

 混乱しながらも、愛おしいと感じたあの瞬間を。

 だからなのだろうか、ここで落ち合おうと言ったのは。

 決して忘れる事のできない想い出があるこの場所で、待っていて欲しいと言った。

 彼女の言葉を信じるのなら、不安に感じる必要などないはずだと、自分に言い聞かせる。

「……いつまで起きてるつもり?」

「眠くなったら眠る。気にしないでいいから、うてなは休んでてよ」

「あんたに見張りを任せて眠れって? 無茶言わないで」

「見張りって……」

 そんな心配はいらないと言おうとして、龍二は言葉を飲み込む。

 その可能性を捨てきる事は許されないのだと、わかっていた。

 うてなが眠らずにいてくれるのは、自分を守るためなのだ。

 万が一なにかあれば対処できるように、今もこうして備えてくれている。

「……でも、無理だよ。眠れない」

 起きていてもなにもできない。体力を無駄に消費するだけだ。

 それは当然、わかっている。

 待つ事しか今はできないのだと、誰よりも龍二は自覚していた。

 それでもやはり、起きていたいのだ。

 くのりがドアを開けてきた瞬間に、出迎えたいと思ってしまう。

「……それに眠ったら、イヤな夢、見そうだから」

 どうしても拭えない苦しさが、胸を締め付けている。

 もし眠って目覚めた時、くのりがまだ来ていなかったら。

 そう考えると、眠れない。

 また不安になっていると、龍二は片手で顔を覆う。

 ここに来てから、もう何度もそんな堂々巡りを繰り返している。

 どれだけ前向きに考えようとしても、纏わりつく不安を振り払えない。

 雨に閉ざされた廃墟は、寒すぎる。

「待つのは、朝までが限界だからね」

 不安に押し潰されそうな龍二を見据え、うてなははっきりとそう告げた。

 弾かれたように顔を上げた龍二の双眸は、揺れていた。

「朝までって、待ってよ。なんでそんな話になるのさ?」

「それ以上は危険すぎるって話」

 追手がいつ来るかわからない状況で、同じ場所に半日以上留まるのはリスクが高い。

 定期的に移動するほうが安全だと、うてなは考えていた。

「危険なのは……わかるけど。でも、そんなに急がなくても……」

「朝までここに来られないなら、相応の理由があるって考えるべきでしょ?」

 それまでここで待つという事は、逢沢くのりから端末に連絡がないという事でもある。

 ならば次に取るべき行動は、龍二の安全を第一にしなければならない。

「……来るよ」

「だから、もしもの話」

「絶対、来る……」

 半ば意地になってそう繰り返す龍二に、うてなは髪を掻き毟る。

 龍二だってわかっているはずなのに、なぜそう意地になるのか。

 うてなもわかってはいるが、だからと言ってこれ以上リスクを冒すわけにはいかない。

「別にあいつを見捨てるとか、そういう話じゃないの。ただ次の場所に移動するだけ」

 言い聞かせるように話しながら、うてなは端末を龍二の足元に滑らせる。

 うてなはそれを見ろと、顎で指し示す。

 端末を拾い上げた龍二も、黙ってそれを見る。

「あいつが一回だけ送ってきたデータ。そこにある部屋に移動するだけだから。逢沢くのりなら、見つけてくれるでしょ」

 龍二はそのデータに目を落としながら、くのりの用意の良さに驚いていた。

 それは彼女が用意しておいた、いくつもの逃走手段や潜伏場所。

 この国に戻ってきてから、龍二の救出に動くまでの僅かな期間で用意した、もしものための備え。

 くのりは常に、先を見据えていたのだとわかる。

 諦めてなど、微塵もいない。

 どこまでも足掻いてやると、そのデータからも伝わってくるようだった。

「あんたが捕まったら、ここまでした意味がなくなる。それくらい、わかるでしょ?」

「……うん」

「なら、朝までしか待てないっていうのも、わかって」

「…………そう、だね」

 諭すようなうてなの言葉に、龍二は再び顔を覆い、小さく答えた。

 嫌な言い方をしてしまったと、うてなも自分に顔をしかめる。

 こういう時、上手に言い聞かせられればと思う。

 ある少女の顔が浮かぶが、すぐに振り払った。

「……ごめん、うてな」

「いいよ。あんたの気持ちはまぁ、わかる……ような気がするから」

 それだけ逢沢くのりが大切なのだろうと、うてなは肩を竦める。

 ごめんの一言で、こうも心が軽くなるものなのかと、うてなは落ち着かない気持ちになっていた。

「ま、もしもの話だから。とりあえず、朝まで待とう」

「……うん」

 結局のところ、逢沢くのりが朝まで来ればいいだけの話だと、うてなは考える事にした。

 今は、それでいい。

 もしもの可能性については考えておかなければいけないが、そればかりを心配していても仕方がない。

 この逃避行は、どこまで行っても出たとこ勝負にしかならないのだから。

 難しい事を考えるのは、自分の担当でもない。

 だから早く来いと、うてなは逢沢くのりの名前を心の中で呟く。

 そして龍二もまた、うてなに貰ったお菓子を口にしながら、彼女の名前を思い浮かべる。

 ますます強くなる雨の音に、心を削られてしまわないように。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る