第5章 第3話 だから僕らは踏み出す その4

 本部に警報が鳴り響くのは、定期点検を除けばこれが初めての事だった。

 けたたましいというほどではないが、本能的に危機感を煽る音。

 深月はそれを、一人で聞いていた。

 彼女が今いるのは、龍二たちが捕らわれているのとは別の建物の地下室だ。

 射撃訓練を行うためのその場所で、深月は無心で銃を撃ち続けていた。

 そして彼女が今手にしているのは、訓練用のものでも、電気式のものでもなく、実弾を発射する事のできる拳銃だ。

 すでに何発撃ったかわからない。もう何日もこうして、射撃訓練を行っていた。

 イヤーマフとゴーグルを外し、小さく息を吐く。

 まだ鳴り続けている警報は、やはり聞き間違いではなかったのだと理解する。

「……本当に、やったのね」

 これが訓練や点検の類ではないのは、わかっている。

 誰がなにをしたのかも、予想はできてしまう。

 数日前、神無城うてなが残したメッセージが、そのまま答えになる。

 たった数日で手に馴染んだ拳銃をホルスターに戻し、深月は訓練場を後にする。

 荷物を預けているロッカーを開け、ミネラルウォーターで一気に喉を潤した。

 タオルで汗を軽く拭い、静かに深く息を吐き出す。

 その息に吹き消されるように、警報が鳴りやむ。

 それとほぼ同時に、今度はポケットに収めてある携帯端末が鳴動する。

 誰からの連絡かは、見なくともわかった。

『訓練中悪いが、仕事だ』

 電話越しでもわかるほど、博士の声は弾んでいた。

 警報が鳴り響くような事態に高揚しているのが、よくわかる。

『対象が二名、逃亡した。どうやら、手引きした者がいるらしい』

「……安藤龍二と逢沢くのり。それと神無城うてな、ですか」

『その通りだ。あまり驚いていないようだな』

「……彼女なら、やりかねないでしょう」

 数日前に曖昧ではあるが宣言されていた事を、深月は誰にも話してはいない。博士にも、だ。

 悩んだ末、なにもしない事を深月は選んだ。

 先手を打つ事も、備える事もしない。

 事態が起きたのなら、命じられるままに対処する。それだけでいいと。

『こんな事なら、彼女を懐柔しておくべきだったかな』

「無理だったと思います。彼女は、そういう人間です」

『だろうな。まぁいいさ。起きてしまったものは仕方がない』

 僅かも残念に思っていないのは明白だ。

 この事態を歓迎すらしているだろう。

 深月はロッカーを閉め、地上へ続くエレベーターに乗り込む。

「私は、どうすれば?」

『彼らはどうやら、二手に分かれたようだ。それぞれに部隊を派遣しているが、足止めにもならないだろうな』

 そうだろう、と深月は内心頷く。

 警備を担当する部隊はいるが、エージェントと比較した場合、彼らの戦闘能力は遥かに劣る。

 装備こそ充実しているが、本部の施設内では火器の使用も制限されるだろう。

 そんな状態で神無城うてなと逢沢くのりに対抗できるとは、思えない。

 エージェントとは、そういう状況を切り抜けるために訓練されていると言っても過言ではないからだ。

『君には、単独で動いている逢沢くのりの捕縛を命じる』

 だからこそ、この状況で博士が切る手駒は、エージェントしかない。

 博士の言葉に、深月は安堵を覚えた。同時に、疑問も浮かぶ。

「……安藤龍二と神無城うてなは、どうするのですか?」

『そちらには別のエージェントを向かわせる。幸いにも、三名ほどこちらに来ていたのでな』

「わかりました。逢沢くのりは、私が押さえます」

 地上に到着したエレベーターから降り、深月はロビーを見回す。

 警報に慌てて移動している研究員の姿が、まばらにあった。

 避難訓練も定期的に行ってはいたはずだが、いざとなれば混乱するものらしい。

『正確な位置はまだ特定できていない。わかり次第、改めて連絡をいれる。それまでに準備をしておけ』

 行き交う研究員には目もくれず、深月は装備を整えるために建物を出る。

 戦闘用のスーツや武器は、隣の建物にある。

『手負いとは言え、相手は逢沢くのりだ。手が鈍れば、逆に狩られるぞ』

「問題ありません」

 含みのある博士の言葉に、深月は間髪入れず答える。

 まるでそう答えると、予め決めていたかのように、自分でも驚くほど冷静に答えていた。

 電話の向こうで、博士が小さく鼻を鳴らしたような気がしたが、確かめるすべを深月は持たない。

『彼らのことが気になるか?』

「……気にならない、と言えば嘘になりますが。私にはもう、関係ありません」

『そうか。いやなに、君も一枚噛んでいるのではないかと、部下が疑っていてね。率直に聞こう。どうなんだ?』

「私は無関係です」

『ならいい』

 たった一言で納得する博士を、深月は訝しむ事すらなかった。

 彼女が言葉通りに信じたかどうかなど、どうせわからないのだから、考えるだけ無駄だ。

 仮に深月が加担していたとしても、理由を訊いて満足するだけのような気がする。

 深月がそう判断して行動したのならと、笑って流すだろう。

「……一つ、いいでしょうか?」

『なんだ?』

「彼女の……逢沢くのりの生死は?」

『ほう』

 深月の質問は、博士にとって予想外だったのだろう。彼女にしては珍しく、意表を突かれたような声色だった。それでも楽しげなのは、変わらないが。

 だが、それも当然の事だった。

 久良屋深月は、人を殺した経験がなく、それを拒んだエージェントだ。

 そんな彼女が、自らターゲットの生死を確かめる事は、本来あり得ない。

 不慮の事故でそうなる可能性は常にあるが、それでも生きたまま捕えようとするのが彼女にとっては普通だ。

 それがわかっているからこそ、命令する際にわざわざ生死に言及はしない。

 生きたまま捕縛する以外の選択肢は、最初から存在しないはずなのだから。

『必要なデータはすでに十分回収できている。もちろん、まだ得られるデータはあるだろうがね。それはいわば、おまけのようなものだ。得られなくとも、問題はない』

 あれほど執着していた逢沢くのりに対して、博士の興味は大分薄れているように、深月は感じた。

 最後の一片まで調べ尽くそうとするだろうと思えるほど、彼女の生存に拘っていたはずだ。

 回収して半月も経っていないというのに、そこまで変わるものなのか。

 期待したほどのデータが得られないと判断したのか、価値が薄れたのかもしれない。

 あるいは、逢沢くのりがもう、限界なのか……。

『だから気兼ねなく戦って構わない。捕縛するためには、あらゆる手を尽くせ。万が一、逢沢くのりが死んでしまったとしても、咎めはしないよ』

 生死は問わないという博士の言葉に深月は立ち止まり、空を見上げる。

 今にも泣き出しそうな曇天が、視界いっぱいに広がっていた。

 この瞬間にも、雨粒が頬を打ちそうな気配だ。

『だが君は別だ。勝手に死んでくれるなよ、久良屋深月』

「……わかりました」

 君はまだ生きる価値があると言いたげな博士に短く答え、深月は通話を切った。

 今頃博士は、どんな顔をしているだろうかと考え、視線を前に向けて歩き出す。

 思考を限定し、余計な感情が割り込まないように努める。

 が、どうしても二人の顔がチラついてしまう。

 本部施設の中を、今もあの二人は逃げ惑っているのだろう。

 龍二とくのりを解放するまで警報を鳴らされなかったのは、深月にとって意外だった。

 うてなの事だから、もっと力技でどうにかしようとすると思い込んでいたのだ。

「少しは考えられるようになっていた、ということかしら」

 深月は小さく鼻を鳴らしただけで、表情は変えなかった。

 それが自制した結果なのかどうかは、深月自身にもわからない。

 本当に逃げ出した二人に対して、どんな感情を抱いているのかも、わからなかった。

 自分の事が一番わからないと、深月は自嘲する。

 全てを凍てつかせるように感情を殺し、深月は装備を保管してある部屋に入った。

 部屋にはもちろん、誰もいない。

 乱暴に服を脱ぎ捨て、戦闘用のスーツを手に取る。

 感情を押し込めた箱に鍵をかけ、地中深く埋めてしまうように、装備に身を包んでいく。

 ずらりと並んだ多種多様な武器を前に、深月は迷わず手を伸ばす。

 使い慣れたものではなく、つい先ほどまで使用していた拳銃を選んだ。

 弾倉をいくつか確保し、銃をホルスターに収める。

 予備のナイフをブーツに仕込み、ガントレットも両腕に装着する。

 準備は、整った。

「これで、終わりね」

 深月は誰にともなくそう呟き、博士からの連絡を、静かに待った。

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