第5章 第3話 だから僕らは踏み出す その3
「続きはあとにして貰えます?」
すっかり二人の世界に入り込んでしまった龍二とくのりは、呆れたようなその声にハッとした。
同時に視線を向けた先には、あからさまに不機嫌な顔をしたうてながいる。
ドアの横に身を隠し、廊下を警戒しているようだ。
「感動の再会中に悪いけど、時間、ないんで」
腕時計を指し示しながら、うてなはため息を吐く。
二人の気持ちもわからなくはないが、あのまま放っておいたらキスでもし始めそうな雰囲気だった。
したければ勝手にしろと言いたくもあったが、生憎とのんびりしている時間的余裕はない。
当然、二人もそれはわかっていた。
わかっていたが、つい良い雰囲気になってしまった。
「ごめん。急がないとだよね」
龍二はうてなに謝罪しつつ、くのりと共に身を隠す。
まだ憮然としているうてなは、くのりの左手に視線を向けた。
「調子はどう?」
「見た目ほど悪くはないの。銃を撃つくらいなら平気よ」
幸いにも利き腕は問題ないと、くのりは頷いて見せる。
先ほどまでの甘い空気は、もう僅かにも感じさせない。エージェントとしての冷静な表情で、うてなとは反対側の壁に身を寄せる。
「監視カメラは?」
「ダミーの映像を流してるけど、そろそろ気づかれると思う。こいつを助け出して十分経過してるし」
「確かに頃合いね。なら早く移動しましょう」
最もな意見を口にするくのりだが、お前が言うのかと言いたげに、うてなは唇を曲げた。
「とりあえずこれ」
うてなが放り投げた端末を受け取ったくのりは、すぐに中のデータを確認する。
「外にいくつか車を用意しておいた。逃げる時にどれかは使えるでしょ」
「複数の逃走手段を用意しておくのは正解ね」
素直に感心して頷きつつ、ざっと情報に目を通し、自身の記憶にある本部の図面と照らし合わせる。
うてなが想定している内部の移動ルートも、悪くない。十分に考えている事が窺えた。
「端末同士で連絡は取れるみたいだけど、このままじゃダメね」
「やっぱり傍受される?」
「なにもしなければ、ね」
くのりは不敵に笑みを浮かべ、手早く端末を操作する。およそ三十秒ほどで、納得したように顔を上げた。
「これで大丈夫。この端末同士でなら、そうそう傍受されることはないわ。とは言え、使いすぎたらさすがにバレるけど」
「最低限にってことね。わかった」
くのりの話を疑う事なく、うてなは頷く。
こういう状況では、やはり逢沢くのりは頼りになる。
「先行する」
くのりはそう言って、ドアから先に出た。
武器もなしに無謀ではあるが、エージェントとしての能力を鑑みれば妥当な判断だった。
ドアから出て最初にあるのは、監視室だ。常に二人体制で警備員がモニターしているが、そのどちらも気絶していた。
うてなの手に装着されていたスタングローブによるものだろうと、くのりは判断する。
倒れた警備員の横に屈み、使えそうな装備を拝借する。
伸縮式の警棒と電気銃の他に、上着を脱がせてそのまま着込む。小物を入れるためのポケットとして役に立つ。
実弾装備の自動小銃でもあれば一番だが、ただの警備員から調達する事は不可能だろうと諦める。
内部で実銃を装備するのは、もっと非常事態になってからだ。
「ついて来て」
電気銃を構えたまま先行するくのりに、うてなと龍二が続く。
廊下には更に二人の警備員が倒れていた。
彼らが持つ二つのキーカードを同時に使用する事で、この隔離された部屋に立ち入る事ができる。
くのりを助け出すのなら、龍二も連れて来なくてはならなかった理由の一つだ。
真っ直ぐな廊下を進み、角から鏡を使ってその先を警戒する。鏡はもちろん、警備員から奪った物の一つだ。
「ちなみにだけど、かく乱とかそういう計画は?」
「ない。見つかったら、強行突破するのみ」
「だと思った」
さすがの無鉄砲だと苦笑しつつも、同じ条件でもっと良い案が出せたかというと、くのりでも厳しいものがあるのは確かだった。
戦力も装備も限られているうえ、龍二を連れて移動しなければならないのだ。
神無城うてなの特異性をもってしても、それはどうにもならない要因だった。
普通に考えれば、まず行動に移そうとは思わない。それくらいに無茶な事なのだ。
だが、無鉄砲な神無城うてなだからこそ、こんな事にも付き合ってしまうのだろうと思う。
「ここからは、二手に分かれましょう」
くのりの決断は早かった。
決定事項として告げるように、二人を見る。
「もういつ気づかれてもおかしくない。私は単独で逃げるから、あなたは龍二をお願い」
うてなは反論せず、くのりの言葉に頷く。そうするべきだと、彼女も思っていたのだ。
あの部屋から出る事さえできれば、逢沢くのりは一人でもなんとかする。それはある種の信頼だ。
敵として戦い、その実力を認めているからこその。
「――――っ」
ただ一人、そんな簡単に納得はできない龍二の唇を、くのりは人差し指で黙らせる。
優しく目を細め、くのりは囁くように話す。
「こうするのが、一番いいの。私は陽動しつつ自力で脱出するから、あなたは彼女と逃げて」
「でも――」
「危険なのは一緒。だったら、少しでも助かる可能性の高い手段を取る。そういうものでしょ?」
くのりの言う通りだというのは、龍二にもなんとなくわかる。
追手を分散させるのも、くのりが単独で行動した方がいいのも。
だがそれは同時に、あの夜を連想してしまう。
「また君を、残していくようなのは……イヤだ」
助けに来たのに、一緒に逃げようと言ったのに、と龍二は唇を噛む。
我がままを言っている場合じゃないとわかっていても、どうして頷けると言うのか。
こんな時、逢沢くのりは平気で無茶をする。
どんな絶望的な状況であろうとも、龍二を守るためなら、なんだってする。
それがわかるからこそ、悔しさに拳を握り締める。
「大丈夫。絶対に、会いに行くから」
その手をそっと包み、くのりは龍二を見つめる。
「私を、信じて」
真っ直ぐな瞳を、龍二は綺麗だと思った。
そして同時に、卑怯だと思う。
信じるという言葉が、龍二の心臓を締め付けた。
「……なら、せめてこれを」
頷く代わりに、龍二はポケットからそれを取り出し、くのりの手のひらに乗せる。
「…………これって」
小さく、シンプルなそれを見たくのりは、僅かに目を見開く。
まさかという想いが、ドクンと心臓を跳ねさせた。
「くのりにって、買ってたんだ……夏のときから……でも、ずっと……ずっと、渡せなくて」
ようやく渡せたという想いと、喜んで貰えるのかという不安に龍二の声が揺れる。
奏に誕生日プレゼントを渡した時とは、また違う緊張感があった。
「私に……プレゼントってこと?」
「……うん。ずっと渡しそびれてて……こんな状況でなにしてるんだって感じだけど」
だが、今渡さなければいけないと思ってしまった。
なにか予感があったわけではないが、どうしてもよぎる不安に、渡さずにはいられなかったのだ。
くのりはその手のひらに収まる髪留めを眺め、表情を和らげる。
龍二の言葉と、照れくさそうな表情から、どんな感情が込められているのかを理解する。
「プレゼントを貰うのって、初めてだ。龍二に、貰っちゃった」
そう言ったくのりも、照れくささに頬が赤くなっていた。
平静を装う事などできるわけがない。
全てを忘れて、今すぐにでも龍二を抱きしめたい衝動を抑えるのがやっとだ。
「お、お守りだとでも思ってくれると、いいかな……」
「お守り、か……うん、ありがとう。すっごく嬉しい」
「そ、そう言ってくれると……」
それほど高価な物ではなく、どこにでも売っているような髪留めだ。
オシャレな小物とも言い難く、どちらかと言えば機能性を重視したようなシンプルな造り。
けれどくのりにとっては、まさに何物にも代えがたい宝物のように思えた。
初めて貰う、初めて好きになった人からの、プレゼント。
逢沢くのりにしかわからない、世界にたった一つの価値あるものだ。
先ほど必死に堪えた涙が、すぐそこまで込み上げていた。
あとほんのひと押しで、それは決壊する。
「……でも、今は受け取れない」
だからくのりは、それを防ぐために、宝物を龍二の手に戻した。
「どう、して?」
龍二の手に乗せた髪留めを包むように、くのりがその手を握る。
「せっかくだから、もっとムードのある時にやり直して」
大切な初めての想い出だから、とおどけるように笑う。
「我がままでごめん。でも、ちゃんと受け取りに行く。必ず、行くから」
それはくのりにとって、強さを手放さないための、唯一の手段だった。
先ほどの言葉だけで満ち足りてしまいそうだった。
そこに加えてプレゼントまで受け取ってしまったら、幸せすぎて溺れてしまいそうになる。
この上なく嬉しく、大切に想えるからこそ、くのりは一度それを手放す。
「あの場所で……初めてキスしたあの場所で、待ってて」
そこで落ち合おうと、くのりは龍二からうてなへ視線を向ける。
彼をそこまで無事に連れて行って欲しいと、その目が語っていた。
純粋すぎる双眸に、うてなは頷く。揺るぎない信頼に応えるように、その目を見つめ返し。
うてなに頷き返したくのりは、龍二に視線を戻して、微笑む。
「もう一度、あの場所で……今度はもっと、雰囲気を大事にして、ね?」
「…………わかった。だから、くのり……」
絶対に逃げ切って欲しいと、龍二はプレゼントを握り締める。
「うん。約束」
小さく頷いたくのりは、一瞬だけ迷い、結局はなにもせずに龍二から離れた。
なにかを言おうと龍二も口を開くが、踏み止まる。
「じゃあ、またあとで。彼をよろしくね、神無城うてな」
「わかってる。あんまり遅くなるなよ?」
不敵に笑ううてなに、くのりはお互い様にね、と笑い返した。
そのまま龍二の背中を叩いたうてなは、予定していた逃走ルートを目指して走り出す。
龍二は一度だけくのりを見た。
くのりは学校で見せるような笑みを浮かべ、『またね』と唇を動かし、小さく手を振った。
その日常を感じさせるくのりの仕草に頷き、龍二はうてなの背中を追った。
二人を見送りながら、くのりは息を吐く。
「……本当に、困るなぁ」
プレゼントを貰える事も予想外なら、こんなタイミングだというのも予想外だ。
プロポーズじみた言葉だけでも十分すぎるくらいだったのに、あれはもはや必殺と言っても過言ではない一撃だった。
逃げる事すら、どうでもよくなりそうなほどに。
あのまま受け取ってしまえば、悔いがなくなってしまうとすら思い、怖くもあった。
それではダメだと、彼を愛おしく想うのなら、まだ満ち足りてはダメなのだと自制した。
正直、あのまま彼を押し倒してしまいたいと本気で思った。
彼の全てを欲し、彼に全てを捧げたい。
そんな欲望を抑えられたのは、奇跡そのものだ。
「次は……もう我慢、できないだろうなぁ」
無事に逃げ出し、あの場所で会えたのなら。
そしてそこで、彼が改めてプレゼントしてくれたなら。
「絶対に、死ねないじゃん」
生き延びるという強固な意志が、くのりの全身に広がっていく。
残された時間がどれくらいなのかなんて、今更考えない。
たとえそれが一分でも、一秒でも。
「龍二と、生きるんだ」
くのりはそう呟いて、顔を上げる。
またね、と祈るように、もう一度唇の中で呟く。
それはどこか、おまじないのようでもあった。
警報が鳴り響いたのは、まさにその瞬間だった。
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