第5章 第2話 坂を転がるような生き方で その5
自室でシャワーを浴びたうてなは、生乾きの髪をタオルで拭きながらソファに腰かけた。
うてなが自宅として利用しているのは、本部施設から少し離れたマンションの一室だ。
一人で暮らすには十分すぎる広さの部屋で、うてなは興味のないテレビを眺めながらタオルを首にかける。
夏に切った髪は、以前ほどではないがそれなりの長さに戻りつつあった。髪を乾かす手間が増えてきたが、だからと言って簡単にまた切るわけにもいかない。
これからの事を考えれば、なおさらだった。
「明日は、いろいろ試してこないとな……」
安藤聡と相談した結果、大雑把な計画を立てる事ができた。
とは言え、まだ机上の空論でしかない。実際に本部へ出向き、移動ルートや警備状況を調べる必要がある。
情報収集をして、そこから詳細を詰める。
実行に移すのは、まだ先の話だ。
それに、やるべき事は他にもある。
「荷物は、持っていけないか」
作戦基地から持ち帰った荷物は、まだリビングに放り出したままだ。
ゲーム機などの私物もそこにあるが、帰って来てからは一度も使用していない。
毎日のようにプレイしていたゲームも、あの日が最後だ。
それどころでもなかったし、そういう気分にもなれなかった。
龍二と過ごした数ヶ月で自分に訪れた変化と、この数日で変わってしまった状況。
以前の暮らしとはなにもかもが違っていると、改めて思い知る。
「どうしてこうなったかなぁ」
ぐったりとソファに寝転がり、ため息を吐く。
あの二人の逃亡を手助けするという事は、組織に追われる身になるという事だ。
それは同時に、身分を証明する手段を失うという事でもある。
仮にそれがうてなだけならば、いくらでもやりようはあった。
事前に引き出しておいた逃亡資金はいくらかあるが、大半は口座に残したままだ。
うてなが行動を起こせば、すぐにでも口座を凍結されるだろう。
とは言っても、それ自体はあまり問題ではない。他人に認識されないすべを持つうてなは、その気になれば資金や食料の調達に苦労はしない。
もちろん、大なり小なり犯罪に手を染める事になってしまうが、組織から逃亡するというのはそういう事だ。
それをわかった上で、うてなはやると決めた。
今更迷うような気持ちはない。
ただ、先の見えない不安はやはりあるのだ。
「半年前の自分なら、バカげてるって思っただろうけど」
いや、今でもバカな事をやろうとしていると、どこかで思っている。
無謀すぎる計画だし、逃げてどうするのかも決まってなどいない。
「そっちは逢沢くのりがなんとかする、と思っておこう」
伊達に数ヶ月、組織から逃げ続けていたわけではないだろうと、うてなは勝手に期待する事にした。
結局、難しい事を考えるのは向いていないのだと開き直る。
自分はただ、安藤龍二と逢沢くのりの逃亡を手助けする。
それだけでいい。
逃げ出した先に救いがあるかどうかなんて、考えても仕方がない。
この状況で後先ばかり考えていたら、なにもできなくなってしまう。
不安があったとしても、間違っているとは微塵も思わない。
神無城うてなにとって大切なものは、ごくわずかだ。
それを守ると、自分のために決めた。
自分にとっての正解を、うてなは選んだのだ。
「……とは言え、戦力は欲しいんだよなぁ」
逢沢くのりの救出に成功したとして、彼女がどんな状態なのかはわからない。
可能な限り調べておくつもりではあるが、彼女に対する警備は龍二の比ではないだろう。
無害な安藤龍二と違い、逢沢くのりは最上級のエージェントなのだから。
事前に打ち合わせの一つもできればいいが、万が一気づかれた場合、なにもかもがダメになってしまう。
やはり、逢沢くのりとの接触は救出する時の一度にしておくべきだろうと、うてななりに考えていた。
「あと、プレゼントもあったな……」
博士が持っているという話だったが、彼女の部屋に忍び込むのもなかなかに骨が折れる。
本当に無茶を言ってくれたものだと、うてなは苦笑した。
身体を起こし、テーブルに置いてある携帯を手に取る。
戦力が欲しいのなら、残された選択肢は一つだけだ。
数ヶ月、共に安藤龍二を守ってきた初めてのパートナーであり、もう一人の限られた友人――久良屋深月。
携帯端末に表示された彼女の名前を見ながら、うてなは唇を引き結ぶ。
彼女に協力を求めるべきかどうかを、ずっと悩んでいた。
あの日、基地を飛び出して以降、彼女とは話をしていない。
それどころか、顔も合わせていない。
もしかしたらもうどこか違う場所で、別の任務についているのかもしれない。
組織の人間に訊いたとしても、答えてくれはしないだろう。
「……ダメだ」
携帯端末を胸元に伏せ、うてなはソファにまた横たわる。
協力してくれる可能性があるのは、深月しかいない。
だがうてなは、彼女を信じる事ができなくなっていた。
もし計画を話して、協力してくれなかった場合、組織に知られてしまう可能性が高い。
絶対ではないが、今の深月なら報告するのではないかと、どうしても考えてしまう。
「なんだろ、この気持ち……」
少し前までなら、こんな風に嫌な考えは浮かばなかっただろう。
あの夜の事さえなければ、迷わず相談していた。
数ヶ月で積み上げた信頼は、たった一度の引き金で崩れてしまった。
あの瞬間、深月は組織の側に立つ事を選んでいる。
エージェントとして命令に従う事を、受け入れた。
久良屋深月という少女の立場を考えれば、それは当然の事だろう。
「だからってさ……ホント、ないでしょ」
数日前の会話を思い出し、苛立ちを覚える。
同時に蘇ってきた胸の痛みに、顔を歪めた。
知らなければ良かったとは思わないが、できれば知らないままでいたかった感覚だ。
身体を横に向けたうてなは、携帯端末を操作して画像フォルダを開く。
ずっと空だった画像フォルダだが、学生として生活するようになってからは、容量を圧迫するほどになっていた。
事あるごとに写真を撮るクラスメイトたちを真似ていただけだったが、今では当たり前のようにそうしてしまう自分がいた。
何気ない日常の一コマを切り抜いた、数えきれないほどの写真。
食べ物の写真もあれば、クラスメイトたちと一緒に撮ったものもある。
もちろん、龍二や深月を撮影したものも、そこには含まれていた。
「あんなに笑ってたのは、あれっきりだったな」
画像をスライドさせていたうてなは、基地の中で蹲っている深月の写真を見て苦笑する。
去年の文化祭で撮影されたという、龍二の女装写真。
それを見た深月は、呼吸が困難になるほど笑っていた。
後にも先にも、深月があそこまで笑う姿を見せたのは、あの一度きりだ。
何度も思い出し笑いをする場面はあったが、鋼のような自制心で必死に耐えていた。
その度にうてなは、我慢せずに笑えばいいのにと思っていた。
憮然とする龍二に気を遣って、という面もあるだろうが、それだけではなかったのだろう。
ずっとそうだった。
深月は必ず、一線を引こうとしていたのだ。
『これ以上深入りするのはやめなさい』
あの言葉は、だからこそ出てきたものだったのだろう。
いつかはこうなる日が来ると想定し、その時になって迷わないように。
エージェントとしての気構えとは、そういうものなのかもしれない。
「でもさ、楽しそうだったじゃん」
写真を見て確かめるまでもなく、わかる。
久良屋深月は、学生としての生活を楽しんでいた。
どれだけ一線を引こうとしていたとしても、彼女があの生活を好ましく思っていた事は、間違いない。
そう思えるからこそ、うてなは許せないのだ。
裏切られたような気がして、悔しさが込み上げてくる。
「…………やっぱり、しておこう」
決意を固めたうてなは再び身を起こし、深月へ電話を掛ける。
作戦の成功率を少しでも上げたいのなら、するべきではない電話だ。
愚行を承知で、うてなはコール音に耳を澄ます。
だが、深月が電話に出る事はなかった。
掛けなおすべきかどうかを考えるが、そのままメッセージを残す事にした。
「私、決めたよ。やっぱり納得できないから、やりたいようにやる。バカだと思うだろうし、私もそう思う。でも、やるから。久良屋には、言っておきたくて……あと、お願いがある」
緊張に激しくなる鼓動を抑えるため、呼吸を一つ。
「協力してとは言わない。ただ、見逃して欲しい」
それはある意味、宣戦布告でもあった。
なにかしらの行動を起こすと、敵対する側に立つ深月に対しての宣言。
その上で、見逃して欲しいと切実に語る。
「……じゃあね、久良屋」
思わずバイバイと言いそうになるのを堪え、うてなは電話を切る。
今のメッセージを聞いた深月がどうするのかは、もはや賭けだ。
組織に報告されれば、救出は困難になる。
なのに電話で伝えたのは、うてなの我がままとしか言いようがない。
彼女ならわかってくれると期待しているのだろうか、と考えて小さく息を吐く。
違う。
うてなはただ、共に過ごしたあの時間を、信じたいだけなのだ。
だがもし、深月が組織に報告した時には……。
己の愚行に対する責任はこの手で取ると、うてなは手のひらを眩しい照明にかざした。
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