第5章 第1話 おかえりなさいを言えなくて その4

「最悪だ」

 基地を飛び出したうてなは、悪態を吐きながら肩を怒らせて足早に歩く。

 あのまま深月と話を続けていたら、取り返しのつかない事をしてしまいそうだった。

 沸騰する頭の片隅でそう思ったからこそ、基地を出たのだ。

「なんなのよっ、久良屋のやつっ」

 当てもなくただ歩きながら、痒くもない頭を掻きむしる。が、そうしたところで深月への怒りは収まらない。

「久良屋のやつ!」

 今度は少し強めに声を出し、手のひらに拳を打ち付けた。

 ここ数日の間に溜め込んでいた不満が、一気に噴き出していた。

 そのほとんどが、深月に対するものだった。

 組織としてのやり方にも当然怒っているが、どうしても深月に対する個人的な苛立ちの方が強くなる。

 うてな自身、そんな自分に僅かながらの戸惑いもある。

 だが、許せないものは許せない。それは変わらない事実だった。

「……なんでよ、久良屋」

 その怒りと苛立ちには、悔しさも混じっていた。

 うてながそこまで深月に怒っているのは、パートナーとして信じていたからに他ならない。

 信じていたからこそ、あの裏切りとしか言えない行為を許せない。

 うてなだってわかってはいたのだ。

 無事に龍二を救出できたとしても、以前と同じ生活に戻れない事は。

 安藤奏が巻き込まれたという事実は、それくらいに決定的なものだった。

 組織が龍二を保護する事そのものには、うてなだって理解を示せた。

 思うところはもちろんあるが、仕方のない事だと思える。

 だが、そのために深月が取った行動は別だ。

 なに一つ説明もせず、あまつさえ不意打ちで麻酔銃を使うとは、想像もしていなかった。

 おそらくは博士の指示だったのだろう。あの女なら、躊躇なくそういう指示を出す。

 仮にそれを実行したのが別の人間であったのなら、うてなだってここまで憤りを感じたりはしなかっただろう。

「よりにもよって……クソっ」

 感情に任せて電柱を蹴りつけ、うてなは壁に背中を預ける。

 雲の少ない夜空には、欠けながらも眩しい月が浮かんでいた。

「楽しそうにしてたくせに……」

 そう思うからこそ、深月が龍二を撃った事を許せない。

 かつて、同じように深月が麻酔銃を撃った事はある。

 安藤龍二が初めて誘拐された夜、救出した彼に向けて、深月は一度撃っている。

 とは言え、あの時とはなにもかもが違っていた。

 あの時はまだ正体も事情も明かすわけにはいかなかった。

 そのまま護衛をする予定はなかったのだから、ああするのが最善だったと、うてなも思っている。

 だが、今回は違う。納得などできるわけがない。

 任務とは言え、うてなと深月、そして龍二は一緒に過ごした確かな時間がある。

 信じて欲しいという言葉に、信じると答えてくれた。

 積み重ねた感情や時間があるのだ。

 にも関わらず、深月は撃った。

 立場の違いはあれど、気持ちは同じだとうてなは思っていた。

 あの平凡で、見ているほうが恥ずかしくなるような恋をしている少年を、どうにか守ってやりたいと。

 ――願わくは、そのまま笑っていて欲しいと。

「違ってたのかな……久良屋は」

 空に浮かぶ月の眩しさから目を逸らすように、うてなは壁から離れて歩き出す。

 沸騰していた頭が、夜風に冷まされていく。

「……くそっ、寒い」

 着の身着のままで飛び出してきた事に、今更ながらに気づいて後悔する。コートくらいは持ってくるべきだった。

 とは言え、今すぐ基地に戻る気にはなれない。

 せめて温かい飲み物でも購入しようとポケットを探るが、生憎と携帯も財布も置いて来てしまっていた。

「……ホント最悪」

 小さく舌打ちをしたうてなは、仕方なく歩いた。

 幸いにも、考えるべき事は他にもある。

 あの夜、最後まで明確な答えを口にしなかった、逢沢くのりを捕えるための切り札。

 そんなものがあるという話は、聞いた事がない。

 ある意味、安藤龍二が切り札と言えなくもないとは思っていたが、あれは違う。

 切り札を乗せた車両とすれ違った時に感じた悪寒。

 そこには、魔力の気配が混じっていた気がする。

 もし魔力を持つなにかだとすれば、うてなにははっきりと感じ取れたはずだ。

 だが、あの時感じたものはそうではなかった。

 魔力と呼べるものではあったが、その在り方は歪すぎる。

 うてなや龍二が持つものとはまるで違っていた。

 近しいとすれば、この世界に存在していた魔力になる。

「でも、そんなはずない」

 この世界にはもう、魔術師と呼べる存在はいない。

 最後の一人は、夏の夜に消えてしまった。

 だからうてなは、確信を持てずにいた。

 そして同時に、深月への個人的な憤りと同じくらい、組織に対する不信感を覚えていたのだ。

「さすがにもう、ダメかな……」

 この世界に放り出されて十年。

 組織に協力する事で生きてきた。

 身分を与えられ、存在を証明され、立場を守られてきた。

 そのために、いくつもの検査や実験にも協力した。

 だが決して無理強いされる事はなく、意思を尊重してくれた。

 その点に関しては、感謝してもしきれない。

 協力に対する報酬も、ちゃんと貰っている。

 組織が裏でなにをしているかは、見ないようにして来た。

 世界に対する負い目だけではない。

 下手に踏み込んだりしてしまえば、知りたくもない事を知ってしまうとわかっていたからだ。

 けれど、もうそう言ってはいられないのかもしれないと、うてなはため息を吐く。

 ずっと曖昧にしてきた事を、はっきりとさせる頃合いなのかもしれない。

 それがなにを意味するのかは、今でもあまり考えたくはない。

「……学校、楽しかったんだけどなぁ」

 任務の終わりは、学生としての生活も終わりという事だ。

 もうじき冬休み。

 今年の年末年始は、どんな風にすごそうかと相談していた。

 そうだ。ほんの数日前までは、楽しい時間が続いていたのだ。

 僅か数ヶ月だが、この十年で得られなかったたくさんの思い出ができた。

 初めて友人と呼べる存在が、二人もできた。

 だからこそ、深月も同じだと思って疑わなかった。

 エージェントであろうとも、龍二を大切に想う気持ちは一緒だと。

 うてなはそう、信じていたかった。

「……あんたは、本当にそれでいいわけ?」

 誰もいない暗闇に向けて、うてなは呟く。

 龍二を撃つ瞬間、深月はどんな気持ちだったのだろうか?

 迷っていたようには、見えない。

 感情が揺らいだようにも、見えなかった。

 けど、見えているものが全てだと、うてなは思わない。

 なぜなら久良屋深月という少女は、優秀なエージェントだからだ。

 うてなとは違い、感情を隠すすべを身に着けている。

「まだ信じてるのかな、私」

 うてなはそう言って苦笑した。

 深月がなにを選び、ああしたのかはわからない。

 うてなが知らないなにかを知っているからこそ、ああしたのかもしれない。

 本人が話してくれないのでは、わかりようもない。

 でももし、深月がエージェントである事を選んだのだとしたら。

「……私は、どうしよう」

 なにが正解かは、わからない。

 が、自分がどうしたいのかは、わかっているつもりだ。

 ただ、迷いはまだある。

 考えなくてはいけない事も多い。

 たとえやりたい事が明確だとしても、行動に移すのは難しい。

 覚悟が必要なのだ。

 望むままに生きるのなら、その熱を燃やし続けるだけの力がいる。

 誰のせいにもできない、自分が自分であるためには。

「…………ぁ」

 ふと、自分がどこを歩いているのかに気づき、うてなは立ち止まった。

 ゆっくりと顔を上げ、その家を見る。

 自然と足が向いてしまったのか、見慣れた家がそこにはあった。

 時刻はすでに深夜を回り、多くの家が寝静まる頃だ。

 にも拘わらず、そこ――安藤家の玄関に、彼女はいた。

 厚手のコートに身を包み、白い息を吐きながら、ぼんやりと空を見上げている。

 見間違いなどではない。

 そこにいるのは、安藤奏だ。

 まるで誰かを待っているかのように、凍えながら佇んでいた。

 こんな時間になにをしているのかという疑問は、すぐにまさかという答えを導き出す。

 胸の奥に燻る熱を感じ、うてなは息を呑む。

 奏はまだ、うてなに気づいていない。

 救出する際、顔を見られている。はっきりと認識もされている以上、彼女に気づかれるのは得策とは言えない。

 すぐに立ち去るべきと、深月なら判断しただろう。

「…………奏、さん」

 しかしうてなは違った。

 迷った末、奏の視界に自ら入り、その名を呼んだ。

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