第5章 第1話 おかえりなさいを言えなくて その3

 作戦基地に戻った深月は、地上部分にある自室の荷物を片付けていた。

 それほど私物を持ち込んでいたわけではないが、学生として生活するために揃えたものは、それなりの数と量になっていた。

 これほどの長期間、外で任務を続けたのは初めての事で、今までは必要とする事のなかった私服や部屋着の類が大半を占める。

 とは言え、この程度の量ならば数時間と掛からずに自室の片づけは終わる。

 共用部分や地下施設の主な撤収は、別の班がやってくれる。

 正直、それには助かっていた。

 特に共用部分には、必要以上にうてなが取り揃えた物が多々ある。

 役立つ物もあるにはあったが、なければないで問題のない物がほとんどだ。

「教科書は、どうしようかしら……」

 深月にはもう、必要のない物だった。

 それは、壁にハンガーでかけてある制服も同じだ。

 任務のために買い揃えた私服は、今後も使う場面があるかもしれないが、制服や教科書はそうではない。

 あの学校に深月が通う事は、もうない。

 安藤龍二の護衛という任務は、終了しているのだから。

 数ヶ月に渡って使用したベッドに腰かけ、投げ出してあったペットボトルに口をつけて喉を潤す。

 二度と身に着ける事のない制服を眺め、静かに息を吐いて、数日前の夜を思い出す。


 麻酔で眠った龍二を車に乗せた深月は、唇をわななかせるうてなに向き直った。

「ちょっと、どういうつもり?」

「奏さんを中へ」

「――久良屋」

「議論するつもりはない。あなたはこのまま二人について行って」

「久良屋!」

 うてなが声を荒げる理由はわかっている。が、深月は相手にするつもりも、説明するつもりもなかった。

「私は現場に戻るから。ないとは思うけど、もしもの時は二人をお願い」

「…………」

 まだ何か言おうと口を開いたうてなは、冷え切った深月の目を見て黙り込んだ。

 そこにいるのは、自分が数ヶ月間を共にしてきたパートナーではないと思ったからだ。

 久良屋深月という名を持つ、任務に忠実なだけのエージェント。

 深月の行為は、うてなにとって許しがたい事だった。同時に、理解しがたくもあった。

「おそらく、それが最後の任務よ。だから頼むわね」

「――――っ!」

 すれ違いざま、深月はそう告げた。

 うてなが振り返る気配を感じるが、背中を向けたまま深月は歩き続けた。

 結局、うてなはそれ以上なにも言わず、奏と共に車両へと乗り込んだ。

 深月も同じように、別の車両へと乗り込み、目を閉じた。

 逆方向へと動き始めた車両の中で、深月は大きく息を吐き出し、片手で顔を覆った。

 深月が乗り込んだ車両は、脱出したばかりの施設へと向かう。

 博士の目論見通りであれば、もう少しで逢沢くのりのテストが終わる。

 切り札がなんであるかは知らないし、知りたいとも思っていなかった。

 深月が命じられたのは、事後処理に立ち会い、逢沢くのりの身柄を回収する事だ。

 逢沢くのりがもし生きて試験を切り抜け、抵抗する意思を見せた場合、取り押さえる必要がある。

 その役目を、深月は命じられたのだ。

 博士直々の命令ならば、従う以外の選択肢はない。

 車から降り、博士と二人で話した僅かな時間で、深月は選んだのだ。

 一人の人間ではなく、組織のエージェントである事を。

 身震いを覚えた深月は、現場に向かう車の後部座席で身体を抱き締める。

 この車両には、運転手と深月しかいない。

 運転席と後部座席の間にはしきりがあり、今の深月は一人でいるも同然だ。

 だからようやく、表情を緩める事ができた。

「は、ははっ……んっ、あぁ」

 それは小さな笑い声のようでもあり、哀しい喘ぎのようでもあった。

 博士の命令に従い、麻酔銃で龍二を撃った瞬間からここまで、深月は表情を殺す事に全神経を注いでいた。

 一人になった事で、ようやく感情を解放できたのだ。

 あの――龍二に向けた銃のトリガーを引いた瞬間、深月は絶頂ともいうべき感覚を味わっていた。

 気を緩めれば笑い出してしまいそうなほど、抗いがたい快楽の奔流だった。

 もちろん、自分が撃ったのは麻酔銃であり、殺傷能力などない事はわかっている。

 だがそれでも、安藤龍二を撃つという行為は、絶頂を覚えそうなものだったのだ。

 もはや限界だった。

 あの施設に潜入し、不可解な感覚に侵されていた深月。

 地下室で見た幻影と、死体にナイフを突き立てようとした時の高揚感。

 血塗れで佇む龍二の姿ですら、嫌悪や心配を差し置いて、別の感情が噴き出してしまいそうだった。

 積み重なったいくつもの要因に、これ以上は理性を保てる自信がなかった。

 護衛任務は終わりだ、という博士の言葉は、深月にとって救いだった。

 どうしてそれを拒む事ができると言うのか。

 それに縋らなければ、どうにもならないところまで追いつめられていた。

 ――彼を殺すか、自分が壊れるか。

 龍二に麻酔銃を撃っただけで、あれほどの達成感と高揚を味わえてしまう事実に、深月は嫌悪すら忘れてしまう。

 底知れぬ安堵を覚え、深月はまた笑った。

 小さく、弱々しく、消え入りそうな声で。

 これで悪夢から解放されると、ひとりで笑った。

 そんな都合のいい事があるはずがないとわかっている。

 だがそうとでも思わなければ、やはり正気を保てなかった。


「……バカげた話よね」

 誰にともなく呟き、深月は鼻を鳴らした。

 そして、部屋の入口に気配を感じ、視線を向ける。

「片づけは終わったの?」

「…………まだ」

「できるだけ急いでね。ただでさえあなたは私物が多いのだから」

 数秒前にあった感情を全て隠した深月は、なにも変わらない口調で入口に佇む少女を流し見た。

 聞き慣れた小言に憮然としたまま、神無城うてなは深月を見る。

 小言に憮然とするのはよくある事だが、その沈黙に秘められている感情は、以前とはまるで違う。

 あの夜以来、深月とうてなは最低限の会話しかしていない。

 本部でもほぼ顔を合わせていなかったが、だとしてもこの数ヶ月を思えば少なすぎたと言える。

 それも当然か、と深月は自嘲にも似た気持ちで受け入れていた。

 うてなから見れば、あの夜に深月が取った行動は裏切り以外のなにものでもないのだから。

 それもただの裏切りではない。

 パートナーとして共有した時間や積み重ねた信頼。

 うてなが深月に向けたものと、龍二が深月に向けたもの。

 二人分の時間と感情を、深月は裏切ったのだ。

 痛みは、ある。

 が、言い訳も弁解もするつもりはない。

 深月が取った行動が全てだ。

 元来、普通の人付き合いなどできないのが久良屋深月という少女だった。

 だから、わからない。

 なにも言わない事が、神無城うてなの感情を逆撫でるのだと。

「……あいつ、どうなったの?」

 折り重なるいくつもの感情を握り締め、うてなは深月に尋ねた。

 施設に送り届けた龍二たちがどうなったのかを、うてなは知らない。

 逢沢くのりがどうなったのかも、当然知らされてはいなかった。

「あなたが知る必要はないわ」

「ふざけてんの?」

「今回の任務はもう終わったの。協力には感謝しているわ」

「部外者には教えられませんって?」

 その通りだ、と細められた深月の視線が物語る。

 彼女の言う通り、うてなはあくまで協力者であり、正式なエージェントではない。

 任務が終わった以上、組織が保護した対象の情報を知る権利はない。

 うてなもそれは当然理解している。

 しているが納得できるかと言えば、もちろんできない。

 徹底してエージェントとして振舞う深月の態度に、うてなは苛立ちを募らせる。

 無言で睨むうてなの視線から、深月は僅かも目を逸らさない。

 真っ直ぐに冷ややかなまま、じっと受け止めていた。

「……なら、質問を変える」

 時間の無駄だと自分を納得させたうてなは、爆発しそうな感情を一度鎮めるように深呼吸をする。

「――なんで、撃ったの?」

 それはおそらく、決定的な裏切りの瞬間だった。

 だからこそうてなは、そこを確かめずにはいられない。

 崩れそうになる表情をエージェントの仮面で覆い隠し、深月は鼻を鳴らす。

「必要だったからよ」

「ふざけんな。どこに麻酔を使う必要があった」

 空気を切り裂くような鋭い視線が、深月に突き刺さる。

「彼はあの時、冷静ではなかった。博士を守ることは、なによりも優先される」

「だから? ちゃんと言い聞かせれば良かっただけでしょ。あいつだってバカじゃない。少しくらい頭に血がのぼってても、頭突きの一つや二つですぐ大人しくなる。そのあとで説明すればいいだけじゃん。だから撃つ必要なんてなかった。久良屋だってわかるでしょ、それくらいさ」

「そうね」

「――――っ‼」

 深月が静かに、平然と答えれば答えるほど、それはうてなの激情を掻き立てる。

 うてなは歯を食いしばり、壁に拳を叩きつけた。通常より強固に作られているはずの壁に亀裂が走る。

 つい喉まで出かかった小言を深月は呑み下し、揺らがぬ瞳でうてなを見据える。

 好きなように感情をむき出しにするうてなを、羨ましいとすら思う。

 この世界で、誰よりも孤独な異邦人。

 ゆえに彼女を縛るものはなく、全てを自分で選び、決められる。

 もちろん、彼女にしかわからない苦悩もあるだろう。

 組織に頼らなければ、身分すら証明できない透明人間。

 それでも彼女は、組織の誰よりも人間らしいと深月は思っていた。

 憧れというには、欠点が目につきやすい。

 その自由気ままさには手を焼くし、頭を悩める事も多い。

 だがそんな欠点を補って余りあるほど、彼女の生き方には惹かれてしまう。

 自分もそうなれたら、などとバカげた事を思ってしまうくらいに。

「すぎたことを言っても仕方ないでしょう」

 しかし、深月の口から出た言葉は、正反対ともいうべき事務的で冷めた言葉だった。

「過程がどうであれ、彼は無事助け出され、組織に保護された。もう私たちの出る幕ではないわ」

「監禁の間違いでしょ?」

「あなたがどう思うかは、問題ではないわ」

 思わず踏み出してしまいそうな足を、うてなはありったけの理性で踏み止まらせる。迂闊に近づいてしまえば、そのまま殴ってしまいそうだった。

 当然、深月もそれには気づいている。が、特にどうこうするつもりはなかった。

 それでうてなの気が済むのなら、構わないとすら思っている。

「任務はもう終わり、あなたへの報酬もすでに支払われている。それで納得しなさい」

「……忘れろって言いたいわけ?」

「そうよ。耳も目も口も塞いで、全て忘れなさい。それがあなたのためよ」

「……それ、本気?」

「えぇ。これ以上深入りするのはやめなさい」

「――――っ!」

 深月がそう忠告した瞬間、うてなは駆け寄って彼女の胸倉を掴んだ。

 一切の抵抗はせず、怒りに染まったうてなの顔を、深月は静かに見る。

 何度か口を開いては言葉を呑み込み、うてなは表情を幾度となく変化させた。

 うてな自身もわからないほどに絡み合った感情が、唇を震わせる。

「……深入りさせたのは、そっちでしょうが!」

 結局うてなはそう言い残し、荒々しく足音を立てて部屋を出て行く。

 そして階下から玄関を乱暴に閉める音が響いてきた。

 静寂と共に取り残された深月は、乱れた服を正そうともせず、その場に座り込んで低く声を漏らした。

 それは、掠れるような笑い声。

 苦笑というには苦々しすぎる笑みを浮かべ、鼻を鳴らした。

「えぇ、あなたの言う通りね……」

 安藤龍二の護衛も、学生としての生活も、全ては組織の要請だ。

 その間にうてなは、安藤龍二との交流を深めていった。

 あれはおそらく、初めてできた友人なのだろう。

 任務が終わればリセットされる関係。

 プロフェッショナルでもエージェントでもないうてなには、難しいだろうとわかっていた。

 そうだ。最初から決まっていた事で、わかってもいた事だ。

 想定外だったのは、うてなが馴染みすぎてしまった事だろう。

 保護の対象と信頼関係を築くのは大切だが、必要以上に踏み込むべきではなかったのだ。

 結果として、うてなは必要のない苦しみを背負う羽目になった。

「自業自得……というのは無責任よね」

 いつかこうなるかもしれないと思いながらも、深月はうてなに忠告せず、強く止める事もなかった。

 あそこまで保護の対象に寄り添う事は、自分にはできない。

 彼女が代わりにそれをしてくれるというのなら、任せよう。

 そう思って、押し付けていたのだ。

 羨ましいと思う反面、どこかで安心もしていた。

 自分はただ、龍二とうてなが親しげにしている姿を見守っていればいい。

 それで任務は、遂行できる。

 手に入れなければ、手放す痛みも感じなくて済むのだと。

 深月とうてな、どちらが賢い選択をしたのか、答えは出ないだろう。

 エージェントである事を選ぶかどうかの違いでしかないのだから。

「これで、終わりね」

 肩の荷が下りたように、深く息を吐き出す。

 さっきの会話が、決定的なものとなったはずだ。

 数日前まであったようなやり取りは、きっともうできないだろう。

 視界に入っている制服をぼんやりと眺めながら、深月は小さく笑う。

 任務に居心地の良さを覚えたのは、初めての事だった。

 だがそれも、ずっと昔の事のように思える。幻だと言われたら、信じてしまえるかもしれない。

「気にすることではないわね……」

 どうせもう終わったのだから、と深月は口元を緩める。

 穏やかな表情とは裏腹に、胸の痛みはどんどん強くなっていた。

 鼓動を打つたびに亀裂が入るように、鋭さを増して広がり、心を鈍らせていく。

「――っ、うっ、くっ」

 そして、痛みを押しのけるようにして衝動が溢れ出す。

 深月は床に這いつくばり、喘ぐ。

 まるで罰するような衝動に、深月は犯されていった。

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