第5章 第1話 おかえりなさいを言えなくて その1
「……ただいま」
数日ぶりに戻った自宅の玄関を開け、安藤奏は小さくそう呟いた。
静まり、冷えきった空気に溶け込む事なく、その言葉は消えていく。
「おかえりなさい」
安藤静恵はそう言いながら、奏の背中にそっと手を添えて中に入るよう促す。奏は小さく頷いて、足を進めた。
二人の背中を見守っていた安藤聡が、それに続く。
家族揃って戻る事ができたにも関わらず、彼女たちの表情は暗く沈んでいた。
目立った怪我がないとは言え、武装した集団に誘拐されたという事実は、小さくはない傷痕を残した。
奏が誘拐されたと聡たちが知ったのは、救出された後だった。
組織に保護されてから数時間、事情も知らされずに軟禁状態ですごした二人の不安は、経験した事がないほど大きなものだった。
誘拐された事とすでに救出された事を同時に知らされた静恵は、その場で気を失うほどのショックを受けていた。
そこから奏の無事な姿を見るまでの数時間は、事実を知った時と同じかそれ以上の不安を与えるものだった。
なにがあったのかを奏は語らず、憔悴しきった表情だけが、哀しみを伝えてくる。
それから今日まで、三人は組織の施設ですごしていた。
奏のケアを目的としたものだと説明を受けたが、それだけとは思えないというのが、聡の正直な感想だった。
ただ今は、こうして帰って来られた事だけを喜ぼうと、思考を切り替える。
奏はリビングのドアに手を掛けたところで、一瞬だけ止まる。
が、すぐにノブを捻ってドアを開けた。
リビングは、最後に見た時となにも変わってはいない。
それでもなにか、寂しいと感じてしまう。
「暖房、つけましょう」
立ち尽くしている奏の横を通り抜け、静恵がエアコンを稼働させる。
「コーヒーが飲みたいな」
「えぇ、いいですね。すぐに用意しますから。奏はどう?」
二人の柔和な視線が、奏に向く。
両親が気遣ってくれているのが、痛いほどわかる。
優しいのはいつもの事だが、今日のそれは少し違う。
「私は、部屋で少し休むから……」
精一杯いつも通りに答えようとして、奏は失敗する。
上手く笑顔が作れず、胸の痛みが吹き出しそうになった。
悲痛に顔を歪ませる奏の手を、静恵がそっと握る。大丈夫だと、語り掛けるような温もりだった。
奏は目を伏せ、リビングを後にする。
心配する両親の視線を背中に感じながら、二階の自室へと向かった。
そこでまた、足が止まる。
当たり前のように視界に入ってくる、閉ざされたドア。
今の奏にとってそれは、恐怖の象徴に思えた。
震えそうになる唇を噛み締め、目を逸らして自室へと逃げるように駆け込む。
後ろ手に閉めたドアに背中を預け、乱れた呼吸を落ち着かせる。
全力で走った直後のような激しい鼓動は、数分で平常に戻った。
深く息を吐き出した奏は、カーペットの上に鞄を置き、コートを脱いでハンガーにかける。
コートも今着ている服も、全て保護された施設で与えられた物だ。
もともと着ていた服は、目覚めた時にはなくなっていた。
奏の所持品でそのまま返って来たのは、鞄とその中身だけだ。
「……少し、寒いかな」
脳裏を掠めた記憶に頭を振り、悪寒を遠ざけるように暖房をつける。
そんなもので消えるはずがないとわかっていても、なにもせずにはいられなかった。
鞄を手に取り、机の上に置く。
「…………これ」
中から携帯を取り出そうとして、奥底にしまわれていた物に初めて気づいた。
そう言えば、気を失う前まで身に着けていたのだと今更ながら思い出す。
奏は恐る恐るそれを取り出し、またしても痛みを覚えた。
貰った日からずっと、手首につけていたプレゼント。
大切に使っていたはずのシュシュは、ところどころに汚れの痕が残っていた。破れている個所も、いくつかある。
保護してくれた誰かが洗ってくれたのだろうが、その汚れた痕がなんなのか、わかってしまう。
「……うっ、んっ」
吐き気を覚えた奏は咄嗟に口元を押さえる。
その拍子にシュシュは、カーペットの上に落ちてしまった。
否が応でも、あの光景を思い出してしまう。
感覚まで蘇ってきそうなほど、鮮明に焼き付いていた。
その場に座り込んだ奏は、また激しくなり始めた鼓動に喘ぐ。
全身が震えているのは、寒さのせいでは断じてない。
言葉にならないほどの恐怖が、絡みつくように蘇ってくる。
「…………夢じゃ、ないんだ」
そう思い込む事ができたら、楽だったのだろう。
だが、あの場で見た光景は忘れられない。忘れたくても、消えてくれない。
恐怖と共に深く刻まれてしまっていた。
誰も、説明をしてくれない。
なにがどうして、あんな事になったのか。
そして、彼の事も……。
両親は、意図して彼の話題を避けていた。
あの普通の病院とは思えない施設にいる間も、この家に帰ってくる時も。
それは、奏も同じだった。
「龍、くん……」
カーペットに落ちたままのシュシュを拾い上げ、奏は数日ぶりにその名前を呟いた。
渦巻く感情は自分でもわからないほど複雑で、整理のしようがない。
自分が誘拐された理由と、彼があの場にいた理由。
同じように誘拐された立場でありながら、彼は奏の身をなによりも優先して案じていた。それは、わかる。
でも、拭いきれない疑問がいくつもある。
そのどれもが、ある一つの事に収束する。
――彼は一体、何者だったのだろうか?
居候としてやってきて、二年半以上、一緒に暮らしてきた。
実の弟のように思っていた、少し頼りなくも優しい少年。
けれどそれは、幻だったのではないかと、今は思えてしまう。
自分たちはただ、その隠された正体を知らなかっただけなのではないか、と。
奏を誘拐した少女が見せた、あの映像。
彼女は確かに言っていた。
――これが、あなただと。
間違いようもない。彼女は彼に……安藤龍二に向かって、そう言った。
それを見た彼は戸惑い、必死に否定していた。
しかし、モニターには確かに映っていたのだ。
彼と同一人物としか思えない姿で、遊ぶように人を殺していた少年が。
「――っ、うっ」
画面越しにこちらを見た少年の視線を思い出し、背筋が震えた。
自分の身体を強く抱き締め、奏は蹲る。
心に刻まれた傷は未だ癒えず、ふとした瞬間に奏を蝕む。
だからこそ両親は、まだ数日はあの施設にいたほうがいいと言っていた。
それを拒んだのは、他ならぬ奏自身だ。
少しでも早く、あの場所から離れたかった。
この家に……あるべき日常に、早く戻りたかったのだ。
自宅に帰れば落ち着ける。
この場所は、世界で一番安らげる場所なのだから。
安藤奏の幸せは、すべてこの家にある。
そう、思っていた。
よろめきながらも立ち上がった奏は、机の引き出しを開け、その一番奥へとシュシュを押し込んだ。
怖い記憶に蓋をするように、引き出しを閉める。
その手で、机の上に飾ってある写真立ても伏せてしまう。
一度始めたら、止まれなかった。
それ以外の部屋に飾ってある写真も、全て見えないようにしてしまう。
彼の痕跡が目に入らないように、全てを伏せる。
罪悪感と自己嫌悪に苛まれるが、どうしようもなかった。
誘拐されている間に感じた恐怖はいくつもあるが、一番深く刻まれ、強く嫌悪した瞬間は、はっきりとしていた。
今はまだ、直視できない。
この先、そうできる日が来るとも、思えない。
そんな考えに陥る自分が、嫌になる。
自分の感情すらわからず、奏はベッドに倒れ込む。
部屋は変わらず、寒いままだ。
エアコンが稼働する微かな音すら、恐ろしいものに感じられてしまう。
奏は服を着たまま、布団を頭から被る。
赤ん坊のように身を縮め、膝を抱く。
自分自身の体温だけが、救いのように思える。
なにも考えたくはないと、きつく目を閉じる。
だが、纏わりつく寒気と恐怖は確かな姿をもって、奏を襲う。
「……たす、けて……だれ、か……」
こぼれた弱音に、涙が決壊する。
布団に包まったまま、奏は静かに泣き始めた。
怖いからなのか、哀しいからなのか、それとも違う感情なのかも、わからないまま。
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