第4章 第2話 危うい関係 その1
「……あれ、わた、し」
意識を取り戻した安藤奏は、ゆっくりと上半身を起こし、頭部に鈍い痛みを覚えて手を当てる。酷い風邪をひいた時のそれに近いが、寒気はない。
奏はそのまましばらく目を閉じ、痛みが引くのを待った。
幸いにも、一分と経たず痛みが薄れていく。
ようやく目を開いて視線を巡らせた奏は、見覚えのない部屋に首を傾げる。
「どこなの、ここ……」
染み一つない白い壁に囲まれた部屋は、自宅のリビングくらいの広さがある。
ドアは一つだけで、外が覗けるような窓は見当たらない。代わりに、壁の一部が大きな窓のようになっているが、特殊なガラスでできているのか、向こうの景色は見えなかった。
そして、自分が横たわっていたのはベッドの上だと、遅れて気づく。
物音一つ聞こえない密閉された部屋は、まるで病室のようだった。
奏はベッドから降り、立ち上がってみる。
少しふらつくが、歩けないほどではなかった。
そのままドアへと近づき、恐る恐るノブに手を掛ける。が、鍵が掛かっているらしく、ドアは開かない。
鍵らしきものを探してみるが、それらしい物はどこにもなく、ドアそのものにも見当たらない。
内側からは鍵を開けられないようになっているのだ。
それに気づいた奏は、言い知れぬ恐怖を覚える。
「私、えっと……どうしたんだっけ?」
ドアから離れ、ベッドに戻った奏は、気を失う前になにがあったのかを思い出そうとする。
「確か、モールから出て……それから……」
直前の事が思い出せない奏は、記憶を少し遡る。
大学からの帰り道、いつものショッピングモールに一人で立ち寄った。
目的は、実の弟のように思っている安藤龍二の誕生日プレゼントを探すため。
結局決め切れず断念し、帰宅する事にした。
「それで、あぁ……夕飯、どうしようかって考えて……」
近所にあるスーパーの特売品やタイムセールをチェックしようと、携帯のアプリを起動したところまでを思い出す。
その直後、なにか痛みを感じたのだ。
まるで身体に電気が走ったような、そんな感覚だったと思い出す。
自分の身になにがあったのかはわからないが、その時の痛みを思い出した事で、恐怖が膨れ上がる。
奏は自分の身体を抱くように腕を回し、改めて周囲を見る。
外の様子がわからない、病的なまでに真っ白な壁。
内側からは鍵を開けられないドア。
よくよく見てみると、ベッドも普通とは違っている。
簡素なパイプベッドではなく、しっかりとした造りの、まるで病院にあるようなベッドだ。
電気が走ったような痛みの直後に気を失い、こんな場所に閉じ込められている。
冷静に理解すればするほど、不吉な言葉が脳裏に浮かんでしまう。
まさか、という思いが、恐怖を際立たせていた。
不安に揺れる視線を巡らせていた奏は、天井の隅にあるそれに気づいた。
目を凝らさなければ、簡単に見過ごしてしまいそうなほど、白い部屋に溶け込んでいる小さな黒点。
それは、カメラのレンズに見えた。
本当にそれがカメラのレンズかどうかは、奏にはわからない。
だが、一度そう見えてしまった瞬間、脳裏に浮かんでいた言葉がはっきりとした形を持って刻まれる。
誘拐という、非日常的な言葉が。
どうして自分が、という考えに目を向ける事すらできない。
暴力的に膨れ上がる恐怖と不安に、身体が震えていた。
視線はドアに向くが、開かない事はわかっている。
もう一度試してみようという気持ちは、湧いてこなかった。
近づく事すら、恐ろしい。
そのドアが開いた瞬間、自分がどうなってしまうのか。
考えないようにすればするほど、恐怖は色濃くなっていく。
「なんなの……私……嫌っ」
内側から溢れ出しそうな恐怖に、奏はベッドの上で蹲る。
「お父さん……お母さん……龍、君……」
冷え切っていく心と身体で、縋るように家族の名前を呼ぶ。
「あっ、そうだっ」
連絡を取るという思考がようやく浮かび、奏はベッドの周りを見回す。
頼みの綱である携帯は、鞄の中だ。それがあれば家族に連絡できる。
ここがどこかも、今が何時なのかもわからない。
それでも連絡ができて、声が聞ければ。
その一心で奏では鞄を探すが、どこにも見当たらない。
部屋にあるのは、ベッドだけだ。
「どうして……どうして……」
今にも泣き出しそうなほど震えながら、奏は最後の望みを託すようにポケットを弄る。
鞄は見当たらないが、服装は外にいた時のままだ。
もしかしたらポケットに携帯を入れていたかもしれないと、探してみる。
だが、やはりなにもない。
ポケットの中にあったのは、空っぽの絶望だけだった。
静まり返った部屋の無機質な空気が、まるで刃のように奏の精神を斬りつける。
したくもない想像が、勝手に思考を犯し、恐怖を助長していた。
あのドアが開いた時、自分はどうなってしまうのか。
外へと唯一続いているはずのドアが開かない事を、奏は無意識に望んでしまう。
あれが開かなければ、なにも起きない。
「……たす、けて」
落ち着こうという気持ちすら忘れてしまいそうな恐怖の中、掠れた声を震わせながら、奏は手首につけたシュシュに触れた。
部屋の中で怯える奏の様子を、ガラス越しに三人の男が見ていた。
いずれも恵まれた体格を持ち、闇に紛れるような黒い服を着ている。ベストには弾倉を始めとした装備もついていた。荒事に長けているのは、一目瞭然だ。
「あの様子なら、鎮静剤を使う必要はないな」
そう言ったのは、金色の髪を持つ壮年の男だ。髪の色や体格からも、日本人ではない事がわかる。
「つまらねぇな。どうせならもっと取り乱してくれたほうが、見ていて楽しめるってのに」
ガラスにもたれ掛かるようにしていた別の男が、蛇のような視線を奏に向ける。
その背後に立っているもう一人の男は、興味がないと言いたげに煙草に火をつけていた。どちらも、まだ三十に届かないくらいの年齢だ。
「監視はお前たちに任せる。相手の出方がまだわからない以上、気は抜くな。この作戦、失敗は許されない」
金髪の男は二人にそう命じて、部屋を出ようとする。
「なぁリーダーさんよ。監視ってのはさ、ちょっとくらい遊んでもいいってことかい?」
背中に投げかけられた言葉に、リーダーと呼ばれた壮年の男は立ち止まった。
静かに振り返った彼は、ガラスの向こうに下卑た視線と笑みを向けている男を凝視する。
煙草を咥えたもう一人の男は、灰皿の代わりになりそうな物を探し、部屋の中を探っていた。
「不要なことはするな。ただ見張っていればいい。じき、忙しくなる」
その声は平坦で事務的なものだったが、僅かに呆れているような気配が混じっていた。
幸いと言うべきか、下卑た笑みを浮かべる男は奏に夢中で、それには気づかない。
「少しくらいいいだろ? なに、自慢じゃねぇがすぐ終わるからよ」
「失敗は許されないと言ったはずだ」
「だからこそさぁ、モチベーションってものが必要だろう? なぁ?」
「ダメだ」
「そう言うなって。なんなら、あんたも一緒にどうだ?」
よりかかっていたガラスから身体を離した男は、浮ついた視線をリーダーへと向ける。
リーダーの男はなにも答えず、無言で彼を睨みつける。
いざとなれば勝手にやるつもりの男は、リーダーの冷めた視線を気にも留めず、口元を歪めていた。
「……わかった」
部下の男が考えを変えるつもりがないと判断したリーダーは、小さくため息を吐く。
そして躊躇なく拳銃を引き抜き、立て続けに二発撃ち込んだ。
乾いた音が部屋に響き、部下の男は床に倒れる。
銃弾は肺と頭部を穿ち、一瞬で彼を絶命させていた。
ようやく灰皿の代わりを見つけたもう一人の男は、あまりにも一瞬の出来事に声も出せず、咥えていた煙草を落とす。
太もも付近に落ちた煙草を慌てて払い、リーダーの男に視線を向ける。
「…………なにも、殺さなくても」
なんとか絞り出した声は、動揺に揺れていた。
リーダーの男は銃を手にしたまま、静かに視線を向ける。
たった今部下を射殺した事など、なんとも思っていないのがわかる。それほどまでに冷めた目だった。
「任務の重要性を理解していない部下は、必要ない」
お前はどうだと言いたげな視線に、彼は声を詰まらせる。
理解はしているが、ただの兵士である彼にとっては、報酬のための仕事でしかない。
撃ち殺された男も、同じだ。彼は、ちょっとしたボーナスを求めただけだった。
「もう一度言う。失敗は、許されない」
「あ、あぁ……わかってる。余計なことは、しない」
無意識に両手を上げて、彼は頷いた。
リーダーはそれを見て、銃をホルスターに戻す。
「死体は放っておいて構わない。監視は、お前に任せる」
「お、俺一人で?」
「他から回す人員の余裕はない」
そう言って部屋を後にするリーダーの背中に、男は不満をぶつけようとした。
が、去り際に見せた無感情な目を見て、口を閉ざす。
一人で監視する事になった男は、湧き上がってくる苛立ちをぶつけるように、死んだ男を蹴り飛ばした。
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