第4章 第1話 おかえりなさいが聞こえない その4
「…………誰だ」
恐怖を押し殺すようにきつく目を閉じて、龍二は電話に出た。
何事もなく、奏本人がかけて来たのかもしれないなどとは思わなかった。
この状況で奏の電話からかけてくる相手など、犯人以外にはありえない。
『誘拐犯です』
龍二の反応が意外だったからなのか、もとよりそういう性格なのか、嘲笑うような声色で返ってきたのは、そんなふざけた言葉だった。
変声機の類は使用していないらしく、誘拐犯だという相手の声がはっきりと聞こえる。それは意外にも、女性のものだった。声の感じからして、若い女性の声だ。
『さて、要件はもちろん、わかってるよね?』
まるで友人とでも話すような口調に、龍二は不快感を覚える。電話越しに聞こえてくる彼女の声は、なにかひどく、龍二の気分を害する。
それがどうしてなのかを考えている暇も余裕も、龍二にはなかった。
「姉さんには手を出すな……出さないでくれ」
『ならどうすればいいかも、わかるよねぇ?』
「……僕は、どうすればいい?」
壁に頭を擦りつけ、龍二は声を絞り出す。
『玄関まで迎えに行ってあげる。だからお前は、腕時計と携帯を置いて出てきなさい。あぁもちろん、腕時計を外すときは正しい手順で、ね』
「…………わかった」
何気なく付け加えられた言葉に動揺し、龍二の声が震えた。
腕時計がどんなものなのかまで、相手は理解している。それも、限られた人間しか知らない外し方のルールまで。
たったそれだけの言葉で、龍二の中で絶望が膨れ上がる。
そこまで知っているのなら、当然護衛である深月やうてなの事も知っていると考えるしかない。
だとすれば、先ほど聞こえた銃声のような音は、二人を狙ったものという可能性が高くなる。
なら、すぐ助けに来てくれるかはわからない。
二人が後れを取るとは思わないが、確実に足止めはされているはずだ。
『ほら、さっさとしろ。それとも、悲鳴の一つでも聞きたい?』
「やめてくれ! すぐにやる! だから姉さんにはなにもしないでくれ!」
『だったら早くしろ。あと三十秒だ』
一方的に時間を区切り、電話が切れる。
龍二は悪態を吐きながら、腕時計を急いで外し、テーブルの上に置く。
そして携帯もテーブルに置こうとして、一度手を止める。
「…………」
残されている時間はもうほとんどない。その状況に震える手で、龍二は携帯を操作する。
家の前に車が止まる音が聞こえ、慌てて携帯をテーブルに置き、着の身着のままで玄関へと走った。
履いている時間はないと靴を拾い上げ、そのまま玄関から飛び出す。
その先には、黒塗りのバンタイプが後部座席を開けて停車していた。
恐怖と寒さに震える膝が折れ、半ば転がり込むようにして龍二は後部座席へと乗り込む。
同時にドアが閉じ、車は急発進した。
「クソっ、あの車っ」
龍二が車に乗り込み、急発進した直後、うてなは安藤家の玄関前に着地した。
遠目で暗い状況ではあったが、確かに龍二らしき人影が乗り込むのが見えた。
あと数秒早ければ、それを止められたのに、とうてなは唇を噛む。
それ以上の後悔は、後回しだ。
急発進した車は一瞬で遠ざかってしまう。今はまだ視界に捉えているが、それもあと数秒。
龍二の腕時計から発信されている信号は家の中から出ているが、先ほどの人影が龍二だったとすれば、時計を置いて行った事になる。おそらくは携帯も同じだろう。
ならば、今追うべきはあの車。
幸い、魔力で強化したうてなの脚力ならまだ追いつける距離と速度だ。
「逃がすか」
すぐに決断したうてなは、低い姿勢で走り出す。
住宅街を非常識な速度で走る車のテールランプを、うてなは追いかける。
強引に角を曲がろうとも、車は少なからず減速する。
だがうてなは、道なりに走る必要がない。
曲がり角にある家の屋根を飛べば、簡単にショートカットできる。
うてなが追い付くまでに要した時間は、十秒程度だった。
車の屋根に着地したうてなは、その屋根をぶち破ろうと拳を握り締める。
その瞬間、けたたましい音を立てて車が急停車した。
さすがにうてなも対応しきれず、前方に投げ出されてしまう。が、難なく着地してみせ、すぐに車へと向かおうとする。
止まってくれたのは、むしろうてなにとっては好都合だ。
走らないようにしてしまえば、あとはどうとでもなる。
「止まれ」
その言葉に、うてなは足を止める。
車の後部座席のドアが開き、銃を突き付けられた龍二の姿が見えたからだ。
うてなの人並外れた速度であれば、止まらずに龍二を救い出す事もできたかもしれない。
だが、万が一を考えてしまったうてなは、止まるしかなかった。
命までは奪われないだろうが、可能な限り痛い思いをさせたくはないと、つい思ってしまったのだ。
状況は多少不利になるが、それでも十分取り戻せる。
魔力で強化したうてなの速度があれば、一秒とかからず龍二のもとまで辿り着ける。
だからまず、相手の出方を見る事にした。
なぜ車を止めたのか、うてなは相手の真意をまだ測りかねていた。
振り落とす事が目的ではないということは、わかっている。
こうして姿を現しているのが、何よりの証明だ。
「怪我をしたくなかったら、そいつを置いて消えて」
解放すれば見逃してやると、うてなは相手に選択肢を与える。
うてながどれほど厄介な存在なのかは、相手も理解しているだろう。眉唾としか思えない情報だとしても、最大の障壁であることは理解しているはずだ。
現にうてなは、全力で走る車に追いつき、その屋根に着地してみせたのだから。
怯えている龍二の顔を見やり、それから覆面の男たちを眺める。
いずれも覆面と自動小銃を装備し、いかにも荒事に慣れているという空気を纏っている。
訓練された敵だというのは、間違いなさそうだった。
「消えるのはお前のほうだ。諦めて退け」
助手席から姿を現した男が、籠った声でそう告げる。
「諦める理由がない」
「でなければ、安藤奏の安全は保障しない」
やはりそう来るか、とうてなは舌打ちする。
龍二が相手に従って車に乗り込んだのも、それが原因だろう。
うてなは答える代わりに、龍二へと視線を向ける。
龍二は小さく頷き、真っ直ぐにうてなを見る。
その目が、従ってくれと切実に訴えかけていた。
おそらく、龍二は見たのだろう。
安藤奏が彼らに捕らわれているという、疑いようのない証拠を。
「理解できたのなら、従え。追ってくるなら、安藤奏を殺す」
その言葉を合図に、男たちは車に乗り込む。
後部座席に押し込められる龍二の姿を、うてなは見る。
考える時間は、ほとんどない。
今すぐに決断しなければいけないのだ。
安藤龍二と安藤奏、そのどちらを救うのか。
うてなは拳を握り、唇を噛む。
ドアが閉じる寸前、龍二と目が合った。
ずっと怯えたままの、恐怖に耐えている目。
彼が怖がっているものがなんなのか、わかってしまう。
こんな状況で、なにを一番に想うのかも、うてなにはわかる。
静かに動き出す車は、うてなを警戒するように迂回し、遠ざかって行く。
追いかけるのなら、今しかない。
龍二を安全に保護できるタイミングも、ここしかない。
だがうてなは、動けなかった。
「……最悪」
深いため息を吐き、うてなは壁に背中を預ける。
車を追跡する事は、もう不可能だ。
いくらうてなの速度でも、今からでは追い付けない。
全て、相手の思い通りに事が運んだ。
込み上げてくる激しい感情を拳に乗せ、壁を殴りつける。
壁にヒビが入り、ぱらぱらと欠片が落ちていく。
そこに、深月から通信が入った。
『敵が撤退したようだけど……』
億劫な気分で耳の通信機に手を当て、うてなは声を絞り出す。
「ごめん、逃がした」
『そう。なら、戻ってきて』
任務の失敗を告げるうてなの言葉に、深月は僅かも感情を揺るがせず答える。そこにうてなを責めるような色はない。
逆にそれが、うてなにとって苦しいものに感じる。
「久良屋、私――」
『いいから。制圧した二人を運び込んで欲しいのよ。処理班が来るまでこのままにはしておけないし。力仕事はあなたの領分でしょう?』
「……なんかそれ、脳筋って言われてるみたいで複雑」
『間違いでもないでしょう。いいから、早く戻って』
通信機越しにも、深月が微かに笑っているのがわかる。
「……了解」
その気配につられるようにうてなも唇を緩めて頷いた。
「一応、家の中を確認してみようと思う」
『わかったわ』
通信を切ったところで、うてなはすぐに跳躍する。
間にある民家の屋根を足場にして、軽やかに跳ぶ。
安藤家の玄関前に着地したうてなは、周囲に誰もいない事を確認した。
周囲の民家に人がいる気配はするが、外に出てこようとする者はいない。
ただでさえ寒い季節なのだから当たり前か、と頷いて開きっぱなしになっている玄関から入る。
律儀に靴を脱ぎ、物音一つしないリビングへと向かった。
龍二がここにいた気配は、まだ微かに残っている。しかし、エアコンによって暖められた空気は、急速に冷えつつあった。
「争った形跡はなし、と……まぁ当然か」
掃除の行き届いたリビングは、まるで何事もなかったかのように思えるほど、いつも通りだった。
足りないのは明かりと、人の温もり、気配だけだ。
改めてリビングを見渡すまでもなく、うてなは目的の物を発見する。
テーブルに広げられた勉強道具一式。
そこに紛れるようにして、腕時計と携帯が置いてあった。
うてなたちが駆け付けるまでの間に、犯人から連絡でもあったのだろう。
きっちりと追跡手段を潰されていた事に、驚きはない。
うてながここに立ち寄ったのは、この二つを回収するためだった。
腕時計をポケットに収め、携帯も同じように収めようとして、付箋が貼られている事に気づく。
携帯の裏側に、その付箋はあった。
特になにかメモ書きがされているわけはない。
勉強に使っていたものが、たまたまついてしまっただけだと、うてなは考えなかった。
なにか意図があって龍二はそうしたのだと感じる。
「えーっと、あいつのパスは……よし」
当然のようにロックを解除し、龍二の携帯を操作する。
遠隔操作でハッキングするのも、こうして物理的に操作するのも一緒だ。
暗転していた画面が明るくなり、直前まで龍二が操作していた画面が表示される。
「……ったくもう」
眩しいくらいに明るく照らし出されたうてなの顔は、笑っていた。
誘拐犯が待つ車へ乗り込む前の、ほんの僅かな時間で残されたもの。
それは、龍二からのメッセージだった。
あえて送信する事なく、入力だけされた、読みにくいメッセージ。
『ごめんたすけにきてしんじてる』
急いでいたはずなのに、脱字はない。
仮にあったとしても、この短さならすぐにわかる。
「こっちの苦労はお構いなしってわけね」
捕らわれている奏を守るため、自ら誘拐犯が待つ車に乗り込んだ龍二。
怖くないはずがない。これが初めてではないとは言え、慣れるようなものでもないのだから、当然だ。
犯人が約束を守る保証などない事くらい、その手の映画などを好んで鑑賞している龍二なら、想像できていただろう。
それでも龍二が従ったのは、時間を稼ぐためだ。
従わなければ、その瞬間にでも奏に危険が及ぶ。
ならば自身が危険を冒してでも、それを先送りにする。
そうして僅かでも時間が作れれば、それは対処する時間となる。
もちろん、対処するのはうてなや深月だ。
完全に他人任せの行動だが、うてなはそれを間違っているとは思わなかった。
龍二は龍二なりに、自分にできる事を考え、実行したのだ。
奏を守るために龍二にできることは、ほとんどない。
時間を稼ぎ、希望を繋ぐ。
この単純明快なメッセージは、龍二から託された願いそのものだ。
謝罪と、要請と、信頼。
これではいつかの時と同じだ、とうてなは苦笑する。
軽々しい言葉ではない。
どれほど無茶なメッセージなのかは、龍二も自覚していただろう。
それでも、残した。
応えないわけには、いかない。
あの時と同じか、それ以上の熱が全身に走る。
「あぁ、約束だ」
届く事のない言葉を呟き、うてなは踵を返す。
誰もいない家を出て、玄関を閉める。
世界は、まだ暗いままだ。
生憎の曇天に、月明かりすら奪われている。
だが、諦める理由はない。
うてなは冷えた空気を吸い込み、限界まで吐き出す。
そうして気持ちを切り替え、深月が待つ基地へ戻った。
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