第4章 第1話 おかえりなさいが聞こえない その5
「とりあえず移動させてきた」
「ありがとう。助かるわ」
肩を揉みほぐしながら地下室に戻って来たうてなは、深月が差し出したカップを受け取り、椅子を引いて座る。
変装用の伊達眼鏡も外し、テーブルに置いた。
「まさか、あの部屋を使う日が来るとは思わなかった」
探るように口をつけた淹れたての熱いコーヒーは、うてな好みの味に調整されていた。
「備えあれば、ということでしょうね」
向かい合うように深月も座り、自身が淹れたコーヒーを一口味わう。
うてなが移動させたと言っているのは、深月が制圧して拘束した二人の身柄だ。
地上部分の奥にある客間の一室は、普段の生活では使用していない。その部屋にある襖の奥は、防音設備の整った監禁室になっている。
うてなは二人の身柄を、そこに運び込んできた。
本来の予定であれば、本部から送られてくる処理班がすぐに回収してくれるはずだったが、対応にはまだ時間が掛かると連絡があり、そうするしかなかったのだ。
互いにコーヒーを飲み、僅かに無言の時間がすぎる。
「……ごめん。任せとけとか言ったくせにさ」
先に口を開いたのはうてなだった。その声色には、苦々しいものが含まれている。
「状況を聞かせてもらえる?」
深月は責めるでもなく、かと言って優しい言葉をかける事もせず、真っ直ぐにうてなを見る。結果だけで判断するつもりはないと、目で語っていた。
「到着する直前、あいつが車に乗り込むのが見えた。信号は家の中だったけど、見間違えじゃなかったと思って、そのまま車を追いかけた。で、当然追いついたわけなんだけど、そうした車が止まってさ。銃を突き付けられたあいつが、男たちと下りて来た。まぁ、やろうと思えばあいつのこと、その場で奪還できたと思う」
「でも、見逃したのね」
静かに相槌を打つ深月のほうへ、うてなは龍二の携帯を滑らせる。
そこに表示されているのは、拘束された安藤奏の画像だ。
「彼もこれを?」
「だろうね。腕時計も外してたから、脅されたってとこでしょ。実際、追ってくるなら奏さんを殺すって言い切ったし」
いかにも悪役らしいやり方で逆に感心する、とうてなは吐き捨てる。
「事情はわかったわ。それに、彼女が拘束されているのも間違いないということも」
心情はうてなと同じではあるが、深月はそれを態度に出すことはなかった。煮えたぎるような犯人への怒りを、理性で押し込める。
感情的になりやすいうてなのパートナーとして、深月は冷静でなくてはならないからだ。
「……手を伸ばせば、届いたんだよね」
手のひらに視線を落としてうてなは呟き、その言葉を握り潰す。
「……久良屋なら、どうした?」
視線を下げたまま、うてなは問いかける。
うてながなにを訊きたいのかは明らかだ。
もし仮に深月がその立場だったらどうしたのか。
なぜそんな事を訊くのかと言えば、うてなにも迷いがあるからだろう。
深月は椅子に背を預け、両手を抱くように組む。
「そもそも、私では走り出した車に追いつくなんてふざけたことはできないわ」
「追いつけたって前提で!」
声と共にうてなは顔を上げ、深月を見た。
感情的なうてなに対し、深月はどこまでも冷静であるかのように、揺らがぬ表情で答える。
「彼を無傷で奪還できると確信があるなら、そうするべきでしょうね。私たちに課せられた任務は、彼を守ることなのだから」
守護すべき対象は安藤龍二ただ一人。
彼の身柄を確保して守ることは、全てに優先される。
そのために生まれる犠牲を考慮する必要はない。
この任務が始まる時、二人が博士に言われた言葉だ。
うてなもそれを忘れたわけではないだろう。深月とは立場が違うため、どこまで従うかは本人の裁量に委ねられているが。
深月にとっては絶対というべき言葉であり、それは今も変わらない。
「でも、そうね……とめられなかったと思う」
自嘲するように薄い笑みを浮かべ、深月は肩を竦めてみせる。
「エージェントとしては、失格でしょうけど」
その言葉に、うてなは嬉しそうに口元を綻ばせて破顔する。
「でもそれ、人間としては合格でしょ」
深月は肯定も否定もせず、ただ小さく、唇で柔らかな弧を描く。
うてながどういう決断を迫られたのかは、深月にも十分わかる。
奏が捕らわれていると知っている龍二はその瞬間、うてなに対して訴えかけただろう。
自分よりも、安藤奏の安全を考えて欲しい、と。
それがどれだけ身勝手な願いなのかを承知の上で、それでも彼は願っただろう。
手元にある龍二の携帯を見て、深月は困ったものだと優しい吐息を漏らす。
うてなもきっとこのメッセージを見て、同じような気持ちになったはずだ。
「彼には一度、信じるという言葉の重さを知って貰わないといけないわね」
「ホントにね。これでもかってくらいわからせてやらないと気が済まない」
手のひらに拳を打ち付ける仕草は、まるで龍二を殴りに行くつもりのように見える。
普段なら目くじらの一つも立てるところだが、今は深月も一緒にそうしたい気分だった。
「で、肝心のあいつだけど……ぶっちゃけどうする?」
互いの意思が確認できたところで、うてなは話を先へ進める。
やる事は決まっている。あとは、どうするか、だ。
「数日前から停電する直前までの録画データを解析中よ。これで該当車両を特定できればいいのだけど」
中央のテーブルから椅子をスライドさせ、モニターが並ぶデスクのキーボードを深月は操作する。
監視カメラの映像が目まぐるしく切り替わり、肉眼ではとても捉えきれない。
「ナンバーくらい確認しておくべきだった。私のミスだ」
うてなは自分の失敗を認め、ため息を吐く。
「次があればそうしてくれると助かるわね」
「そこは慰めるところじゃないの?」
「そのつもりだけど?」
「……わかりにく」
本当にそう思っているかどうかは、深月の顔を見ればわかる。いつも通りの、真面目を絵に描いたような表情だ。
「とは言っても、これだけ周到な相手なら、車のナンバーはいくらでも変えられるでしょうね。使用された車も、同じとは限らないし」
それでも、今追える手掛かりはそれしかない。
「逃走ルートがわかれば一番なのだけど、停電のおかげで周辺のカメラも当てにはならない。これが一番痛いわね」
モニターの表示をカメラの映像から、周囲数十キロの地図に切り替える。範囲内にある監視カメラの位置が、点として表示されていた。
車両の特定さえできれば、これらのカメラにアクセスして逃走ルートを追う事も可能となる。もちろん、アクセスできるカメラはハッキング可能なもの限られる。
「ここでできるのは、これが精一杯ね。あとは本部がどれだけ情報を掴めるか次第、と言ったところかしら」
深月は再び椅子をスライドさせ、テーブルに置いたカップを手に取る。中身がすでになくなっている事に気づき、テーブルに戻した。
「今回の相手、見当はついてるの?」
「それも情報待ちね。ただ、ここまでやれる規模の組織は、そう多くない。この国で狙撃銃を躊躇なく使用してくる相手となれば、それこそ限定されるし」
だから相手の正体や規模は、じきにわかるだろうと深月は見ていた。
問題は、その限定された組織のどれが敵だとしても、厄介な相手だという事だ。
「あなたも見たでしょう? 彼らは日本人ではなかった」
「あぁ、見た見た。アクション映画に出てきそうな顔した外国人でしょ。あれならまぁ、銃をぶっ放してきても違和感はないよねぇ」
「動きも訓練されたものだったわ。傭兵か、元軍人の類でしょうね」
「でもそう言えば、私が話したやつ、流暢な日本語喋ってたな。顔は見えなかったけど、日本人っぽかった」
「そういう事はもっと早く報告して」
深月は三度椅子をスライドさせ、今の情報を入力して送信する。今はどんな些細な情報でも必要な状況だ。
本人は嫌がるだろうが、折を見てうてなには一度、エージェントとしての講習くらいは受けて貰う必要がありそうだと、深月は考える。
これから先があれば、の話ではあるが。
そんな深月の考えなど知る由もないうてなは、残ったコーヒーを飲み干す。
「それにしても、あいつをさらってどうするつもりなんだろうね」
龍二の身柄が目的だというのは、なんとなくうてなにもわかる。
だがその先、龍二を確保してなにをするつもりなのかがわからない。
逢沢くのりに誘拐された時とは、事情がまるで違う。今回の件は、無事でいられる保障などないのだ。
「もしかしたら、組織に関わりのある勢力かもしれないわね」
「集団で裏切り者が出たってこと? そりゃあ、前例はあるけどさ」
「裏切りというより、パワーバランスの話よ。組織が遂行しているプロジェクトの多くは、この国が中心になっているから。それを快く思わない国が出てきても、おかしくはないでしょう?」
「なにそれ。内部抗争的な?」
「政治的な話ね。まぁ、可能性の一つよ」
そう言いつつも、深月はその可能性も十分にあり得ると考えていた。
この国が中心となっている理由は単純だ。
博士という人間が、多くのプロジェクトの中心人物であるからに他ならない。
彼女の代わりが務まる人間は、今のところ存在しない。
歪な構造を生む原因ではあるが、自然、組織内での発言力は高くなる。
「プロジェクトを巡っては、対立する組織もある。候補をあげようと思えば、いくらでもあげられるわ」
「よくやるもんだ」
組織の全体像や対立構造など、政治的なものも含めてうてなは知らない。というより、興味がない。
あくまで居候という立場の異邦人なのだ。
「でも実際そうだったとして、なんであいつを狙うかねぇ」
「それは、わからないわね」
結局のところ、誰も龍二が狙われる本当の理由を知らない。
知っている者は、もしかしたら博士ただ一人なのかもしれない、と深月は思う。
「で、組織としてはどうするわけ? どれくらい動いてくれるの?」
組織の事情に興味はないが、龍二の事はそうもいかない。
彼を守るのは任務である以前に、うてなにとって当たり前の事になっているのだが、本人はまだ、その事に気づいていない。
「わからないわね。余っている人員がいるとも限らないし」
「あいつを守れって命令してるくせに、応援もよこさないつもりなわけ?」
「かもしれないわね。正直、彼という存在をどこまで重要視しているのか、私にもわからなくて」
「無関係な一般人も巻き込まれてるんだよ? 普通、動くでしょ?」
「……そうね」
表面上頷いてはみせるが、深月としてはだからこそ組織の動きに期待はできない、と考えていた。
安藤奏のために、果たして組織が動くだろうか?
答えは、否。
龍二の安全さえ確保できていれば、人質の事などお構いなしだろう。
だからこそ、龍二が連れて行かれたのは、幸いとも言える。
奏を救出するために動く口実ができたのだ。
組織に対するうてなの不信感を助長するだけなので、その考えは胸に秘めておく。
「どちらにせよ、時間的な余裕はあまりないでしょうね」
「早くしないと、奏さんの身が危険に晒されるもんね。あとあいつも」
あえて龍二をおまけのように扱ってはいるが、それが照れ隠しのようなものなのは明らかだ。
どちらかだけを助ける、などという選択肢は、うてなの中にはない。
二人一緒に助け出す事は、当たり前なのだ。
「えぇ。龍二はしばらく安全でしょうけど、奏さんはそうもいかない。最悪、私たちだけで対処する可能性もあるけど」
「上等でしょ」
それになんの問題があるとでも言いたげに、不敵な笑みをうてなは浮かべる。
時と場合にもよるが、今はその失敗を引きずらない前のめりな姿勢がありがたい。
頼りになるパートナーに笑みを返し、深月も頷く。
「どうやら、復旧したようね」
監視カメラの映像で、安藤家の周辺が日常を取り戻していく様子が見える。
彼らの家にも明かりが戻るが、そこには誰もいない。
いるべき人をそこに連れて帰るのは、他ならぬ誰でもない。
久良屋深月と、神無城うてなの二人だ。
「さて、じゃあ腹ごしらえといきますか」
「この状況でよくそれが言えるわね」
立ち上がるうてなを、深月は苦笑しながら見上げる。
「月並みだけど、腹が減ってはなんとやら、でしょ?」
「そうね。どうせ解析にはまだ時間がかかるし。コンビニくらいなら、許可しましょう」
「出前と言いたいところだけど、しゃーない」
そう言ってうてなは、携帯を手にして食料の買い出しに向かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます