第4章 第1話 おかえりなさいが聞こえない その2
「戻りましたよっと」
「寄り道はしなかったようね」
返事があると思っていなかったうてなは、玄関で靴を脱ぎながらリビングへと顔を向ける。すでに私服へと着替えを済ませた深月が、腕を組んで壁に寄り掛かっていた。
「てっきり地下室にいると思ってた。なに、着替えてたの?」
「えぇ。ついでに、シャワーも浴びておこうかと思って。特に急ぐ作業もないし」
「そうですか」
一人で寄り道をしなくて正解だったと、うてなは安堵する。
深月の小言は慣れたものだが、だからといって積極的に言われたいわけではない。
「それで?」
「なに? おみやげでも期待してた?」
「そんなわけないでしょう。報告」
素で訊き返していたうてなは、そういう話かと納得する。深月が言う報告とは、いつもの儀式みたいなものだ。
「ちゃんと送り届けてきたよ。特に問題なし」
うてなはそう言いながら、壁に寄り掛かっている深月の横を通りすぎ、二階へ続く階段に足を掛ける。
大分慣れはしたが、やはり制服は窮屈に感じてしまう。
「夕食は、シャワーの後でも構わないでしょう?」
「仕方ないなぁ」
律儀に確認してくる深月に対し、うてなは悪戯めいた笑みを浮かべて答える。
そして、半眼で見上げてくる深月から逃げるように自室へと向かった。
「遅い。髪まで洗うなら先に言ってよ。空腹で死にそうなんですけど?」
着替えたうてながリビングで寛いでいた時間は三十分。生乾きの髪をタオルで拭きながら戻って来た深月に、開口一番不満をぶつける。
「それくらいは我慢できる理性があると信用していたのよ」
先ほどのお返しとばかりに皮肉を込める深月に、うてなはげんなりした顔で唸った。
更になにか返してやろうかと思うが、これ以上夕飯が遅れるのは困るので我慢する。
うてなの反撃がない事を理解した深月は、冷蔵庫を開けて飲み物を取り出し、コップに注ぐ。
火照った身体が内側から冷やされていく感覚に、小さく息を吐く。
「それはそうと、無駄に待っているくらいなら、彼の監視をしておくべきでしょう」
「大丈夫でしょ。一人で寂しさを持て余してるかもだけど」
出前のメニューを眺めながら、うてなは冗談めかして笑う。
「どういう意味?」
うてなの軽口に含まれていた聞き逃せない単語に、深月の目尻が僅かに上がる。
「あぁ、言ってなかったっけ? なんか、今日は珍しく、まだ誰も帰ってないみたい」
うてなは肩口にかかるようになった髪を指先で弄びつつそう答える。
「なら、彼は今一人?」
「うん。でもま、すぐ帰ってくるんじゃない? そういう日も、たまにはあるでしょ」
些細な事だろうと言いたげにうてなは肩を竦め、中華店のメニューに狙いを定める。
「……だといいけど」
重要視していないうてなとは反対に、深月は目を細めて小さく呟き、携帯端末を取り出す。
うてなが言う通り珍しくはあるが、これまでにそういう事がなかったわけではない。
いずれも特に問題はなく、龍二が帰宅して一時間も経たないうちに帰ってきていた。
今回もそうだろうとうてなが考えるのも当然と言えば当然だ。
深月が感じたそれは、予感と呼べるほどのものではない。
ただ、違和感を覚えた事だけは確かであり、彼女はその僅かなひっかかりを無視する事ができなかった。
「…………」
そしてその予感を証明するかのように、端末の画面にはいつもと異なる情報が表示されていた。
龍二を監視するついでに、安藤家の三人が持つ携帯端末にもいくつかの仕掛けがほどこしてある。
深月が今確認したのは、三人の位置情報だ。
安藤奏と安藤静恵、そして安藤聡の現在地を示す信号は、正常に動作している。
静恵と聡はどうやら研究所の近くで、一緒にいるようだ。
だが、奏の位置情報は、一目で異常とわかるものだった。
過去数ヶ月分の位置情報と照らし合わせても、一度として移動した事のない場所が表示されている。
普段の活動範囲から、大きくかけ離れているのだ。
「あ、ちょっと久良屋?」
顔をこわばらせて地下へ向かう深月に、うてなもなにかを感じて声を掛けるが、答えている余裕はなかった。
地下室へ降りた深月はすぐさまメインコンピューターにアクセスし、三人が今日、どのように移動したのかをトレースする。
数時間分の移動経路を目で追いながら、深月は軽く顎に触れ、唇を引き結ぶ。
まず最初に確認したのは、安藤奏の行動だ。
彼女はいつも通り大学へ行き、その帰りにあのショッピングモールへ立ち寄っている。時間から考えても、それは普段と変わりのない行動だった。
しかし、そのモールを出た後が問題だ。
自宅とは正反対の方向へ、突然移動し始めている。それもかなりの距離を、徒歩ではありえない速度で移動していた。
車両で移動したとすれば不可能ではないが、その移動そのものが不自然すぎる。
腹の奥を圧迫されるような感覚に襲われ、眉を顰める。
時間にしておよそ一時間前。
動かないまま点滅する信号は、不吉な鼓動を刻んでいるように思えた。
「どうなってんの?」
先ほどの様子を不審に思って追いかけてきたうてなは、深月が座っている椅子の背もたれを掴みながらモニターを覗き込む。
「安藤奏の移動経路、どう思う?」
「……マズい、なんてもんじゃないね」
即座に事態を理解したうてなは、渋い顔で舌打ちをする。このデータを見て楽観し続けられるほど、うてなも無責任ではない。深月と同等かそれ以上に、嫌な予感を覚えていた。
「周辺データはこっちで見る」
「任せる」
隣のコンピューターを操作し始めるうてなに頷き、深月は監視カメラにアクセスする。
信号が出ている付近に監視カメラがあるかどうかはわからないが、試さないという選択肢はない。
「こっちは、なんともなさそうだけど……」
うてなが確認しているのは、安藤家の周辺に張り巡らされた監視網のデータだ。
安藤家を中心に半径三百メートルの範囲をカバーしている監視カメラの台数は、三桁に届く。
リアルタイムで送られてくるカメラの映像は、普段と変わらない映像ばかり。
二人の予感を嘲笑うかのように、平穏な日常が映る。
冬の日はすでに落ち、それぞれの家庭から暖かな団欒や生活の音が聞こえてきそうだった。
心配のしすぎを疑ってしまいそうなほどに、いつもと変わらない日常の気配が漂ってくる。
逆に、奏の位置情報が狂っているのではないかという考えが、うてなの脳裏をよぎる。
コンピューターとは言え、絶対ではない。不具合という可能性もあり得る。
無意識にそれを望んですらいたのかもしれない。
間違いであればいい、と。
が、うてなは気づいてしまった。
安藤家からほど近い路地に止まっている、一台の車。
今まで監視してきた数ヶ月で、その場所に車が止まっていた事は一度もない。
少なくとも、うてなは見た事がなかった。
ほんの些細な違いと言えばそうだが、今この状況で見過ごすには、大きすぎる異物だった。
「ここ、任せる」
椅子を吹き飛ばす勢いでうてなが立ち上がった瞬間、地下室の電気が一瞬だけ明滅する。
同時に、モニターが映し出していた風景が消えた。
「周囲一帯が停電したようね」
内心の焦りを押し隠し、深月は冷静にそう告げる。
地下室の明かりが消えないのは、緊急用の発電機が起動しているからだ。
ただし、周辺に設置した監視カメラの映像は、すべて途絶えている。
予備バッテリーですぐに再起動するよう設定されているが、それでもいくらかのタイムラグがある。
この状況、このタイミングでの停電が、ただの事故や偶然であるはずがない。
当然、カメラが再起動するまで待ってはいられない。
「うてな」
改めて飛び出そうとするうてなの背中に深月は声をかけ、小さな機械を投げる。
振り向いた瞬間、視界に飛び込んできたそれをうてなは危なげなくキャッチした。
深月が投げたのは、耳に装着するタイプの通信機だ。
うてなはそれを握り締め、深月に視線を向ける。
龍二の事は任せると目で語る深月に頷き、うてなは部屋を飛び出した。
靴を履く時間すら惜しみ、玄関を開け放つ。
全力で向かえば、十秒で辿り着ける。
玄関から出たうてなは、魔力を込めた足で一気に跳躍しようとし、悪寒から逃れるように後ろへ跳んだ。
直後、その影を、重い銃声が貫いた。
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