第3章 第4話 SIGNAL その4
「私から君に話すことはもうないが……質問は?」
何事もなかったかのように言いながら、湯気の立つコーヒーに口をつけ、博士は深月が使っていたソファの対面に座る。
深月はどうするべきかを僅かに考え、ソファに戻って博士の対面に座る事を選んだ。
質問があるかないかで言えば、いくらでもある。
だが、博士が答えてくれる可能性がある問いは限られている。答えてくれる数も、おそらく多くはない。
すべては博士の気まぐれで決まる。
「彼に……安藤龍二に対し、逢沢くのりの生存を伝えることは……」
あまり悩む事はなく、深月はその質問を口にした。
なぜそれを選んだのかと言えば、必要だと感じたからだ。
「好きにしていい」
即答した博士はカップをテーブルに置き、軽く顎を撫でる。
「だが、そうだな。どのような作戦を立てるにせよ、安藤龍二に協力させるというのは、悪くない」
「協力、ですか……」
作戦の目的を知った龍二が協力してくれるだろうか、と深月は思案する。
逢沢くのりに対する彼の感情を考えれば、あまりいい手段とは思えない。
もちろん、龍二という少年が逢沢くのりに対する鍵になるという点は、理解できるが。
「あまり乗り気ではないようだな」
「彼が協力してくれるかどうか、現段階では判断しかねます」
個人的な感情が漏れないよう、細心の注意を払って客観的な意見を述べる。
「彼との関係性は良好と聞いているが?」
「信頼を得ているという点では、良好だと思います」
その点については、深月は自信をもって断言する。
「……ですが、どちらかと言えば最近は、神無城うてなのほうが彼とは親しいかと」
そしてその言葉も、間違ってはいない。
だが、なぜかその言葉は、深月の感情をざわつかせる。
「あぁ、報告を見る限り、そうかもしれないな。あの二人が興じているゲームの対戦成績を報告書で見ているが、なかなかに興味深い。あまり実用的なデータではないがね」
ソファにだらりと背中を預け、博士はくつくつと笑う。
そんなデータまで報告されていたとは思わず、深月は僅かに眉をひそめる。うてなが自発的に報告するとは思えないので、監視カメラの映像かなにかで確認したものを、別の誰かが報告書という形にしているのかもしれない。
「作戦基地に立ち入らせることを許可したのは、博士だと聞いていますが」
「その通りだ」
「一般人の彼を入れても、構わないと?」
「構わないだろう。本来であれば、組織の存在そのものが秘匿されてしかるべきだが、安藤龍二にはすでに知られている。外部の作戦基地に立ち入らせたとしても、そう不都合はないと思うが?」
「……確かにそうですが」
「なにより、面白そうじゃないか。君も堅苦しく考えず、一緒になって遊べばいい。むしろ、なぜそうしないのか、私は疑問に思うよ」
いつも二人がゲームをしていても、ただ傍観しているか別室で作業している事も、博士は承知しているのだろう。
感情の読めない博士の双眸に、深月は居心地の悪さを覚えて視線を下げる。
「彼はあくまで護衛対象です。そこまで深入りする必要はないかと」
あくまで事務的な深月の返答に、博士は鼻を鳴らしただけでなにも言わず、コーヒーを口に含む。
建前の言葉には興味がないとでも言いたげだ。
事実、深月の本心は別にあった。
必要以上に彼の側にいるのは危険だと考えているからこそ、一定の距離を置いている。
未だに消える事なく、燻り続けている衝動。
つい先ほども溢れ出しそうになった、意識を染め上げるような殺意。
原因すらわからないものを抱いたままでは、これ以上踏み込めない。
自分自身の狂気から龍二を守るためには、今のままでいるしかないのだ。
「――彼を、殺したいのか?」
「――――っ」
さらりと流れるようにこぼれた言葉に、深月は息を呑む。
心臓を鷲掴みにされるような恐怖を覚えながら、視線を上げる。
博士は何事もなかったかのように、微笑んでいた。
いや、微笑みなどではない。
すべてを見透かしたような、意地の悪い笑みだ。
「…………どうして」
深月は否定する事なく、ただ茫然とそう呟いた。
誰にも話した事がない。報告だってしていない。
それをどうして、博士は知っているのかと。
「理由を知る意味があると思うのか?」
「……いえ」
答えるつもりがないという事を理解し、深月はすぐ引き下がる。
「……私は」
「気にするな。咎めるつもりはない。もちろん処分もない。君にはこのまま、任務を続けてもらう」
弁明しようとする深月を制し、博士は決定事項を伝える。
深月はますます混乱し、次に言うべき言葉を見つけられずにいた。
「当然だろう。君は、そう……実に興味深い。最近の君は、特にね」
その言葉で、深月は理解した。
自分も龍二やくのりと同じ、観察対象の一人なのだと。
当然だ。この博士という人物にとっては、全ての他人がそうなのだから。
その中でも、エージェントである深月たちは一人の例外もなく、興味の対象であり、観察すべき対象なのだ。
今更すぎる事を思い出した深月は、逆に落ち着きを取り戻していた。
「なぜ殺したい?」
「……わかりません」
だからこそ、博士にそう問われても、あまり動揺せずに済んだ。
次に知りたがるとすればそうだろうと、頭のどこかでわかっていた。
「この写真を見て、どう感じる?」
「――それ、は」
博士が胸元のポケットから取り出した写真は、先ほど深月が資料で見たそれと同一のものだった。
安藤龍二に瓜二つの顔を持つ、別人の写真。
またしても熱を持ち始めた衝動に、深月は拳を握り締める。
「そんなに殺したいのか、この男を」
「……わかり、ません」
正面から深月の変化を観察している博士は、実に楽しげな笑みを浮かべる。
その顔は、以前にも見た事があると、深月は嫌な汗を掻きながら思い出す。
あれは、そうだ。
最初の事件が終わって、博士に報告している時だ。
逢沢くのりがなぜあんな事をしたのか、それを話していた時。
傑作だと笑っていたあの時と、同じだ。
恐怖すら感じるほどの哄笑が、今自分に向けられようとしている。
今すぐに逃げ出したくなる感情に、吐き気を覚える。
「せっかく来たんだ。帰りにチェックを受けて帰るといい」
深月が限界を迎える直前を見計らったように、博士は写真をポケットに戻し、そう言って退出を促す。
「…………はい」
震える足に全意識を集中させ、深月は部屋を後にした。
ドアが閉まり、廊下に出て壁にもたれ掛かる。
最後まで背中に張り付いていた博士の視線が、まだ纏わりついているような気がして、壁に背中をつける。
あの写真を見せられてから膨れ上がった衝動に、息を殺して耐える。
ただじっと目を閉じ、なにも考えずに。
数十秒か、それとも数分か、深月にはわからなかった。
どうにか平静を取り戻した深月は、ふらりと壁から離れて歩き出す。
そうしてしばらく歩いた深月は、周囲に誰もいない廊下で、壁に手を叩きつけた。
血が滲むが、構わずにもう一度叩きつけ、繰り返す。
理由など、わからない。
ただ衝動に任せ、深月はその手を傷つけ続けた。
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