第3章 第1話 女子高生はじめました その5

 神無城うてなが転校してきて始まった新学期は、すでに一週間以上が経過していた。

 特別な問題が起こるでもなく、安藤龍二の生活はおおむね平穏にすぎていた。

 最初の頃こそ、うてなや深月との関係について詮索もされたが、今となってはそれもなくなっている。

 誤解がとけたというわけではなく、今現在、三人の間にそれらしい気配が見受けられないので、問題にされなくなっただけだ。

 深月もうてなも、これといって龍二にアプローチをするでもないという事実が、大多数の男子生徒を冷静にさせていた。

 昼休みと帰宅時は一緒に行動する事になるが、別々に教室を出て落ち合うという形式を取っているため、今の所は問題になっていない。

 実はいつも一緒だと知られたら、きっと面倒な事になるだろうな、と龍二は頬杖をつきながら考えていた。

 教師が黒板にチョークで文字を書く小気味良い音を聞きつつ、目の前の背中をぼんやりと眺める。

 龍二の前に座っている神無城うてなは、二時限目の授業が始まってから数分で、頭を揺らし始めていた。

 予想していたよりも大人しく、むしろクラスに良く馴染んでいるうてなだが、授業中のこの危うさは改善される見込みがない。

 本人なりに睡魔と戦ってはいるようだが、状況は常に劣勢のようだ。

 それにしても意外だと、龍二は改めて思う。

 生徒として潜入する事には、かなり不満を持っていたように思えたが、特に問題を起こしたりもしていない。

 深月とはまた別の意味でやや常識はずれなうてなが、ここまで学校に溶け込めるとは思ってもみなかった。

 休み時間がくるたび、鞄にこれでもかと詰め込んだお菓子を食べているので、それでストレス解消をしているのかもしれない。

 そのおかげか、クラスメイトとのコミュニケーションも適度に取れているので、深月もうるさくは言えないようだった。

 対する深月は、静かなものだ。

 愛想が悪いという印象は与えず、適度に会話をして、必要以上には前に出ない。

 潜入中のエージェントとしては、絶妙な距離感を保っていると言えるのかもしれないが、日常が平穏であればあるほどに、彼女の優秀さが寂しく、龍二には思えた。

 そして平穏だからこそ、考えてしまう。

 自分を狙う何者かなんて、本当にまだいるのだろうか、と。

 二つの大きな事件があったことは間違いない。夢であればと思いたくもなるが、紛れもない現実だ。

 だがこうして、普通の生活が続いていくと、あれほどまでに強く感じたものが薄れていく。

 胸が軋むような想いすら、少しずつ風化していくようだった。

 決定的に変わってしまったものがあるにも関わらず、まるでなかったかのように時間は過ぎていく。

 その感覚が、龍二は怖かった。

 残された時間、限られた命。

 それが本当なのだとしたら。

「おい安藤、聞いているのか?」

「あ、はい!」

 一瞬で現実に引き戻された龍二は、わけもわからず返事をして反射的に立ち上がった。

 周囲からクスクスと笑う声が漏れ聞こえてくる。

「返事だけはいいが、聞いていたのか?」

「……すみません。ぼうっとしてました」

「まだ二時限目だぞ?」

「はい」

 教師は軽く注意するだけに留め、龍二を座らせた。どうやら、質問などをしたわけではなかったようだ。

 気恥ずかしさに頬が熱くなった龍二は、手で仰ぐ。

 そんな龍二に対し、うてなは顔を半分だけ後ろに向け、小さく『バカ』と言って笑っていた。

 彼女も眠りかけていたはずなのになぜ自分だけが、と腑に落ちないものを感じつつ、龍二は授業に集中する事にした。


「なんか、ヤな感じ」

 その日の昼休み、炎天下の屋上で豪快に牛丼を平らげたうてなが、眉をひそめて呟いた。口元についていた米粒を舌で回収し、細めた視線を周囲に飛ばす。

「いきなりなに?」

「視線を感じる……って言うのが妥当なのかなぁ」

 そう龍二に答えるうてな自身、確証と言えるものはないのか、首を傾げていた。

 つられて龍二も視線を巡らせてみるが、当然凡人である彼にはなにかを感じ取ることなどできない。

「それは、確か?」

「どうかな」

 深月も一応の警戒をしてみるが、それらしい気配は感じられず、目を細める。携帯端末の警備アプリにも、特に反応はない。

「本当になんとなく、なんだよね」

「それでは困るのだけど」

「と言われてもねぇ……あむ」

 コンビニのサンドイッチを一口で収めたうてなは、緊張感のない顔で顎を動かす。げっ歯類のように頬を膨らませるうてなに対し、深月の視線は鋭くなっていた。

 現状、唯一異変を察知しているのがうてななのだ。彼女の感覚だけが頼りだというのに、呆れるほどマイペースに食事を続ける姿には、小言の一つも言いたくなる。

「……ちなみにそれは、誰に向けられたものかはわかるの?」

 小さく息を吐いて自身を落ち着かせた深月は、努めて冷静に確認する。

「いや、微妙。そもそもそんな気がするだけだし」

 口いっぱいに詰め込んだサンドイッチを呑み下したうてなは、喉を潤しつつ再度視線を巡らせる。

「でもまぁ、もし間違いじゃなかったとしたら、ターゲットはこいつでしょ。私を狙う相手は、もう残ってないし」

 軽い口調でターゲット扱いされた龍二は、僅かに表情を曇らせた。そこにあるのはやはり、不安だろう。

 特に何事もなくすぎていた日常に、ひっそりと暗い影が迫って来ているかもしれないのだ。

 実際に誘拐された経験を持つ龍二としては、気が気ではないだろう。

「確かにそうね。けど、はっきりしないことには……」

「警戒だけはしとくってことでいいんじゃない? 今はもう、なにも感じないし。やっぱ気のせいだったかもしれないしさ」

「……あなたねぇ」

 まるで他人事のようなうてなの態度に、深月は眉間を揉み解す。色々と言いたいことはあるが、ここで説教を始めても仕方がない。

「いいわ。今後は警戒レベルを上げて行きましょう」

「って言うけど、実際にはどうすんの?」

「さしあたっては、放課後は寄り道せずに直帰することになるわね」

「なんですと⁉」

 平然とした表情で深月が告げた言葉に、うてなは驚愕の声を上げた。噛り付こうとしていた菓子パンが手からこぼれおちそうになり、慌ててそれを空中でキャッチする。

 菓子パンの無事を確認したうてなは、不満をこれでもかと詰め込んだ恨みがましい視線で深月を見る。

「寄り道禁止とか、本気?」

「私がこの状況で冗談を言うようなタイプだと?」

 そんなわけがあるか、とうてなは低く唸る。

 冷徹にすら感じる深月の視線と声に、本気だという事が嫌というほどわかってしまう。

 そしてそれは、どれほどうてなが言葉を尽くそうとも、覆ることもないと。

「……やっぱり気のせいだった。うん、気のせいだった。さっきの話は取り消しってことで」

「取り消せるわけがないでしょう」

 うてなの悪あがきを深月は一蹴する。取り付く島もないとはこのことか、と龍二は他人事のように見ていた。

「龍二も、それでいいわね?」

「あ、あぁ。僕は二人の指示に従うよ」

「この場合は、私の指示でいいわ」

「……わかった」

 深月が龍二に向けた言葉は、同時にうてなへと釘を刺すものだった。苦虫を噛み潰したような顔をして、うてなはまたしても唸る。

 言わなければ良かったと後悔しているのが、手に取るように龍二にもわかった。


 そして事件は、翌日の朝起こった。

 事件というには小さすぎるものだが、うてなが感じたという視線の事もある。どれだけ些細な事であろうとも、深月が警戒するのは当然だった。

「これが、下駄箱に?」

「うん」

 いつものように登校した直後、靴を履き替えた三人は、すぐ屋上へと向かった。

 龍二の下駄箱に見覚えのない物が入っていたからだ。

 龍二から異物を受け取った深月は、目を細めてそれを頭上にかざす。太陽の光を遮るようにして、何度か角度を変えてみる。

「入っているものは紙だけのようね」

「いや、見たまんま手紙じゃないの?」

 真剣な表情で確かめている深月に対し、うてなはやや呆れたような半眼を向けていた。

「そうね。手紙というのは、間違いなさそう」

「そりゃあそうでしょう。他になにが入ってると思うわけ?」

 ため息まじりなうてなのツッコミは完全に無視し、深月は龍二にちらりと視線を向ける。

 そこに浮かんでいる表情は、不安というよりも戸惑いが強く見える。

「昨日の放課後は、入っていなかったのよね?」

「うん。帰る時にはなかった」

 龍二の答えに深月は小さく頷き、手にした手紙を改めて眺める。

 見た目は特別なものではなく、どこでも買えそうな白い封筒だ。最寄りのコンビニにも置いてあったはずだ。

「あのさ、とりあえず中身、確認してみたいんだけど……」

 口元に手を当てて考え込んでいる深月に、龍二はおずおずと声をかける。

「先にこちらで安全を確認するから、時間をちょうだい」

「今ここで見るのはなしなの?」

「カミソリや起爆の心配はなさそうだけど、開封した瞬間に毒が漏れ出す可能性もゼロではないから」

「そんなバカな」

 思わず口に出してしまった龍二の背後で、うてなが同意するように頷いていた。

「そう思うのも無理はないけど、実際、うちの開発部が似たような物を試作していたのよ。資料を目にしたことがあるだけだけど」

 さらりと物騒なことを言ってのける深月に、龍二は頬を引きつらせた。うてなも呆れたように鼻を鳴らし、開発部への侮蔑を小さく漏らす。

「もちろん、ただの手紙という可能性もあるわ。でも、不自然よね。知り合いやクラスメイトなら、手紙ではなく携帯で連絡してきそうなものでしょう? 学生の間でなにか、物理的な手紙を送る習慣でもあるのかしら?」

「いや、そんな習慣はないと思うけど」

 大真面目に訊いてくる深月に若干戸惑いつつ、龍二は頬を掻く。

「ただまぁ、久良屋さんがいう物理的な手紙を使う場合も、あるにはあるかもしれない」

 学生の間で連絡を取るのなら、今は携帯を使うのが当たり前だが、例外は存在する。

 今までの龍二には縁がなかったもので、フィクションの中でしか見た事も聞いた事もないものだが。

「た、たとえばその、まぁ……ラブレター、とか?」

 実際口にしてみると予想以上に気恥ずかしく、龍二は耳まで赤くなる。

「ラブレター、ね。確か、そういう文化があるとは聞いたことがあるわ。でも、最近では電子メールの類を利用すると聞いているけど」

「まぁね。そういうのが多いって、僕も聞いたことがある」

 クラスメイト達がそんな話をしていたと、龍二も思い出す。他人の色恋沙汰に首を突っ込める性格ではないため、たまたま耳にした程度ではあるが。

「ただ、全部が全部そうじゃないとは思うし、うん」

 自分にラブレターが来たかもしれない、という可能性は、龍二を妙な気分にさせていた。

 もちろん、過去に貰ったという記憶はない。

 差出人が誰かもわからないとはいえ、大なり小なり心が躍ってしまうのは、思春期の少年として正常な反応だろう。

「ま、脅迫状って可能性もあるんじゃない?」

「あり得るわね」

 浮ついた龍二の感情などお構いなしに、横で見ていたうてなが意地の悪い笑みを浮かべて新たなる可能性を提示した。

 そして深月はあろうことか、その意見に対して納得したように頷く。

「きょ、脅迫状って……なんで僕にそんなもの」

「脅迫状じゃなくても、果たし状とか、不幸の手紙、だっけ? そういうのもあるかもでしょ」

「なんでさ」

 龍二の表情がどんどん曇っていくにつれ、うてなの瞳は楽しげに煌めく。

「心当たり、あるんじゃない?」

 楽しくて仕方がないと言いたげなうてなの言葉に、龍二は一つ、思い当たる節があると気づいた。

「……二人の、元カノ」

 ぼそりと呟いて、龍二はじっとりとした目を深月に向ける。

「……なに?」

 その意図が分からず、深月は僅かに眉根を寄せる。うてなにも問いたげに視線を向けるが、深月が不愉快と感じる笑みを浮かべるだけで答えない。

「つまらないいさかいで妙な設定、持ち込むから……」

 仮に龍二に対して悪意を持つ学生が出たとすれば、もっともあり得る可能性はそこだろう。この時期、このタイミングであればなおさらだ。

「…………そう」

 さすがに深月も龍二が言いたい事を理解したのか、気まずそうに視線を逸らして頷いた。大元を辿ればうてなの助言が始まりなのだが、今はそこを議論している場合ではない。

「とにかく、こちらで調べてみるから。中を確認するのは、それまで待ってもらうことになるわ」

 決定事項を淡々と告げた深月は、龍二の返事を待たずに屋上を後にした。

 彼女にしては珍しく逃げるような態度に、龍二もわざわざ恨み言をぶつけたりはしない。少し意地の悪い言い方をしてしまったと、むしろ後悔すらしていた。

「ま、いいじゃん。どうせつまらない結果になるだろうし」

「どうしてそう言いきれるのさ?」

「冷静に考えて、ラブレターって線はないでしょ。なに、あると思ってんの?」

「……それ、わざわざ言う必要、ある?」

 思春期の繊細な心を抉るようなうてなを、龍二は半眼で見やる。

 微塵も気にする様子もなく、うてなは豪快に笑って龍二の背中を叩いていた。

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