第1章 第2話 信頼 その3
「入って」
深月に案内されたのは、モールから徒歩数分の場所にあるマンションの一室だった。
オートロック付きのマンションにあるその一室は、四人家族で暮らすには丁度良さそうな間取りだが、家具の類は必要最低限の物しかなく、誰かが住んでいるような気配はなかった。
だが、定期的に掃除はされているのか、埃っぽさや空気の淀みはない。
「ここって、君の?」
「まさか。組織がセーフハウスの一つとして用意していた部屋よ」
「うわぁ、本当にセーフハウスってあるんだ」
取り立てて目を惹くような物はないが、セーフハウスという言葉の響きだけで、なんだか特別なものに見えてくる。
普段通りであれば、部屋の見て回りたいと思っただろう。
だが、誘拐されかけたばかりでは、さすがにその余裕もない。
龍二はそれなりに高そうなソファに身を沈め、大きく息を吐く。
誘拐されている最中は混乱していて感覚が鈍っていたが、改めて思い出すと、恐怖に手足が震える。
「どこか痛めたところはある?」
「どうだろう? 全体的に少し、痛いかも」
「何か薬を打たれたりした?」
「いや、そういうのはないよ。ほら、なんか途中、車が凄い衝撃にあったでしょ? あれでこう、全身を打った感じで」
「……ごめんなさい。まさか、あそこまで非常識な止め方をするとは私も思わなくて」
「あれって、一体なにが?」
「あとで本人に聞いて。じきに来るから」
「う、うん」
うてなの無茶に頭を悩ませる深月は、眉間を揉み解しながら隣の部屋へと向かう。
「私は本部と連絡を取ってくるから、少し休んでいて。飲み物が欲しいなら、冷蔵庫に」
深月の言葉に相槌を打ちはしたが、何かをする気分にもなれず、龍二は目を閉じる。
身の危険を感じたのは、これが二度目だ。
最初の誘拐以降、龍二が実感できるほどの危険はなかった。
それは深月やもう一人の少女が、何かしら対処してくれていたからだというのは、龍二もわかっていた。
決して安全ではない。変わらず、危険はそこにあった。
ただそれが、龍二のところまで届いていなかっただけなのだ。
「くのりと来なかったのは、正解だったな」
昨夜、プレゼントを決めたから買いに行くと、くのりには報告していた。
一緒に行こうか、とくのりは言ってくれたが、丁重に断りを入れた。
深月が一緒に行くのは決まっていたので、きっと面倒な事になるだろうと予想しての事だ。
距離を置くべき、という忠告があったのも理由の一つではある。
もし一緒に来ていたら、くのりも巻き込まれていたかもしれない。
そう思うと、恐怖は更に倍増する。
トイレの中で突然口を塞がれ、荷物のように抱えあげられた。
壁を爆破された時は、己の目を疑うほどだった。
一切の抵抗もできず、あっという間に誘拐されてしまったのだ。
わかってはいた事だが、無力さを痛感せずにはいられない。
目を開き、拳を開いて握る。
自分には、何もできない。
深月たちがいなければ、ここにこうして居る事もなかったのだ。
落ち着きを取り戻すほどに、情けない気持ちが大きくなっていく。
問題が解決するまで、やはり外出などするべきではなかったのかもしれない。
「あ!」
そこでようやく、鞄がない事に気づく。
奏の誕生日プレゼントが入った大事な鞄は、さらわれる時に落としてしまった。
「何かあった?」
龍二の声を聞きつけた深月が戻って来る。
「鞄、落としてきたんだけど……」
今から爆発のあったトイレに戻って、と言いかけてやめる。お荷物でしかないという後ろめたさが、ブレーキになった。
「それなら大丈夫。今頃あの子が――」
と、今度は深月が言いかけてやめる。
僅かに見開かれた視線が、龍二の背後、ベランダに続く窓へと向けられていた。
それに釣られて龍二も後ろを振り向く。
「どこから入ってこようとしているのよ、あなたは」
呆れと僅かな苛立ちを声に含ませ、深月は窓へと近づく。
窓の向こうにいる人物は、窓の鍵がある場所を外からコツコツと叩いていた。
それが意味する事を、深月だけではなく、龍二も察する。
窓に近づいた深月は鍵を開け、その少女を室内へ入れる。
「靴は脱ぎなさい。玄関は、あっち」
「おっと、そうだった。サンキュー」
深月の苛立ちがまた一段階高まるのが、龍二にも空気で伝わる。だが、苛立ちを向けられている少女は気にも留めず、靴を脱いで玄関へと向かう。
「あ、そうだ。これこれ」
「それ、僕の鞄」
受け取ろうとした龍二の手は、空を掴む。
手が届く寸前で、うてながかわすように持ち上げていた。
なぜそんな意地悪をするのかと、龍二は困惑してうてなを見上げる。
「わざわざ拾ってきてあげたんだけど? しかも、男子トイレに入って」
「あ、あぁ、えっと……あり、がとう?」
「はい良く言えました」
龍二が困惑しつつもお礼を言うと、うてなも素直に鞄を渡す。男子トイレを強調していたあたりに、意地悪をした原因の一端が窺える。
プレゼントが無事なのを確認し、龍二はようやくひと息ついた。プレゼント用の綺麗な包装も、汚れたり崩れている様子はない。
「あの、本当にありがとう!」
玄関に靴を置きに向かう背中に、龍二は改めてお礼を言う。
うてなは軽く手を上げてそれに応えた。
深月はその様子を冷めた目で見送り、周囲を確認してから窓を閉め、カーテンを引く。
「外はどうだったの?」
「ん? まぁ、それなりの騒ぎにはなってたけど、私たちに繋がるような情報は出回ってないっぽいから、大丈夫でしょ」
玄関から戻って来たうてなはそう答えながら冷蔵庫を開け、常備されている飲み物を物色する。
「ねぇねぇ、缶ビールとかあるんだけど、これってアリ?」
「なしよ。馬鹿なの?」
「冗談だってば。ぶっちゃけ、ビールとか美味しいと思った事ないし」
さらりと問題発言が飛び出すが、追及するのも面倒だと感じたのか、深月はその事には触れなかった。
最終的にペットボトルの炭酸飲料を取り出し、すぐに口をつける。
「一応確認しておくけど、どうして玄関から入って来なかったの?」
「いやー、オートロックの解除番号とか覚えてないし。強引に抉じ開けたら、久良屋は怒るでしょ?」
「よくそこに気づいたわね」
「だからまぁ、あとはベランダから直接行くしかないかーって感じで」
七階にあるここまで登って来た事を、何でもない事のように言う。
「そんな面倒な事をする前に、あなたが持っている端末を活用するべきだったわね。解除番号をそこで調べる程度に気が回っていれば、合格点だったわよ?」
ふんだんに嫌味を含んだ深月の言葉も、うてなは軽く受け流す。
炭酸飲料を半分ほど飲み、椅子に座った。
ソファに座る龍二とは、向かい合う形になる。
深月も窓辺からうてなの方へ移動する。
「紹介がまだだったわね。彼女は私のパートナーで、様々なサポートを担当しているわ」
サポート、の部分に特別力がこもる。
深月のどこかズレた言動の原因が彼女なのだと、龍二は理解した。
「えっと、僕は――」
「あんたの自己紹介なんていらないって。知りたくない事まで色々知ってるから」
「あ、そ、そりゃあそうか」
深月のパートナーであるのなら、それも当然だ。
知りたくない事まで、という部分が気がかりではあるが、今は聞けるような雰囲気ではない。
「せめて名乗りなさいよ」
「必要ある? ほとんど顔なんて合わせないと思うけど?」
「隠す必要もないでしょう? いいから、名乗りなさい」
あまり乗り気ではないうてなを、テーブルの下で深月が小突く。
仕方がないとため息を吐き、うてなは改めて龍二の方を見る。
「神無城うてな。よろしく」
「かむしろ、さん?」
「別に覚えなくていいよ。どうせ私、日陰から護衛するだけなんで」
「そう、なんだ。でも、えっと……よろしくお願い、します」
どこか取っ付きにくい印象を受けるうてなに、龍二はそれ以上何も言えなかった。
それを見かねた深月が、助け舟を出す。
「龍二も薄々は気づいていたでしょうけど、彼女がいつも援護していてくれたの。帰り道や、夜間の就寝中とか」
「あぁ、うん。そうなんだろうなとは思ってたよ」
今までの深月の口振りや言動から、少し距離をおいて護衛をしてくれている存在がいるのだろうと、見当はついていた。
「それに彼女って、あれだよね。初日になんか、凄い戦いをしてた」
「えぇ。戦闘力だけで考えれば、私より頼りになるエージェントよ」
「そうそう。だからもう少し、私を敬ってもいいんじゃないのかなー?」
軽いノリで口を挟むうてなを、深月の鋭い視線が黙らせる。
冗談だって、と肩を竦めたうてなは、視線を逸らしてペットボトルに口をつける。
「ごめんなさいね。言動は軽いけど、戦闘力に関してだけは頼りになる子なの」
「う、うん」
そう頷きながらも、深月と同じエージェントとは思えない様子に、多少困惑していた。
勝気な印象は初めて会った時から変わらないが、どこか存在感が希薄に思えてしまう。
彼女を見ていると、不思議な感覚に陥る。それがなんなのかは、わからない。
紹介が終わったと判断した深月は、龍二から視線を外してうてなに向き直る。
「それはそうと、さっきのあれはなに? 車を止めるにしても、もっと穏やかな方法があったでしょう?」
「仕方ないじゃん。駆けつけた時にはもう動き出しちゃってたんだしさー」
面倒な話になりそうだと察したうてなは、悪戯を咎められる子供のように唇を尖らせ、椅子を前後に揺らす。
「彼にもしもの事があったらどうするつもりだったのかと言っているのよ」
「怪我してないんでしょ? ならいいじゃん。ねぇ?」
同意を求めるように笑みを向けられるが、龍二としては首を傾げるしかなかった。
怪我はなかったが、あの時の衝撃で全身を打ったのは事実だ。
「えっと、ちなみにどうやって止めたの?」
「それは、こう、ヒーローキックみたいな感じで」
うてなは椅子に座ったまま、それらしいポージングをして見せる。
からかわれているのかと一瞬疑うが、呆れたように目を閉じる深月を見て、本当の事なのだと悟る。
普通の身体能力ではないと知ってはいたが、そこまでデタラメだとは思っていなかった龍二は、ただただ驚く。
そして改めて、彼女たちがどういう存在なのか、興味を抱いていた。
仮に質問したとしても、返って来る答えは決まっているのだが。
「にしてもさぁ、どうすんの?」
「そうね。もうじき回収班の作業が終わるはずだから、移動するのはそれからにしましょう」
「じゃなくてさ、結局今回も主犯は出て来なかったわけじゃん? そこんとこ、どうすんのかって話」
机に突っ伏してだらけるうてなは、空になったペットボトルを転がして弄ぶ。
「どうもこうもないわ。出て来ないのなら、現状を維持するだけ」
「やっぱりかぁ」
護衛対象である龍二の前であっても、うてなは取り繕う事無く、面倒くさそうに愚痴をこぼす。咎めるような深月の視線も気にしない。
「何か言いたそうね」
「もうさ、主犯格が捕まるまで、施設に収容しちゃったらいいんじゃない? この状況なら許可、たぶん降りるでしょ?」
「……私たちが決める事ではないわ」
一瞬の間をおいて、深月の視線が龍二に向く。それに続いて、うてなの顔と視線も龍二へと向いた。
「ちょ、ちょっと待って。今の話って、僕の事、だよね?」
「当然でしょ。理解、できてる?」
「どうかな。施設に収容って言ってたけど、匿ってくれるって事?」
「そういう選択肢もあるにはある、という話よ」
「保護とか、そういう事かな?」
「って言うより、軟禁だよね、あれは」
「な、軟禁……」
現実ではそうそう耳にする機会のない単語に、龍二は戸惑う。保護という単語ならどことなく安心感があるが、軟禁と言われると不安になる。
それを察した深月は、机の下でうてなの足を蹴る。
うてなは不満げに見返すだけで、特に何も言わなかった。
そのやりとりから、うてなが悪戯目的で誇張しているのではないと悟る。
一つ息を吐いた深月は立ち上がり、龍二の隣に移動してソファに座る。
「いい想像をして、とは言えないけど、その場合の安全が保障されるのは確かよ」
「で、でも、そうしたら僕、閉じ込められるって事だよね? 学校にも行けないし、家にも帰れなくなるんだよね?」
「あなたが保護を望む場合は、当然行動を制限されるわ。でもあくまで、あなたが望んだ場合。私たちから強制したりはしない」
「……本当にどうしようもなくなった場合は?」
最悪を仮定した龍二の質問に返って来たのは、沈黙だった。
それで十分、龍二は理解する。
いざとなれば、強制的にでも施設に収容するつもりなのだと。
もちろん、それは龍二の安全を考えての事だろうが、胸中、穏やかではいられない。
リアリティを増していく恐怖と不安で、胸が押し潰されそうになる。
「正直さ、そっちの方が楽だと思うよ? お互いに、さ」
そんな龍二の心中を知ってか知らずか、うてなは続ける。
「自分の事だけを考えるなら、久良屋んとこの施設で保護して貰うのがたぶん、この国じゃ一番安全。世界まで広げると、また違うかもだけど」
「自分の事だけって、どういう意味?」
「そのままの意味。自分の身が可愛いなら、そうしたらって事。ま、その場合、交渉材料としてあんたの親しい人間に害が及ぶ可能性は当然ある……って話」
「そ、そんな事……あるの?」
「そこまでする相手かどうか、わかんないけどね。そもそも、あんたが狙われる理由だってわかってないんで。私が言ってるのは、可能性の話」
龍二が想像した以上に最悪な可能性を、うてなはさらりと告げる。
悪意の類があるわけではなく、そういう非情な手段に出る相手もいるのだと、龍二に意識させる。
「そんなの、どうすればいいのさ?」
「単純な話だよ。組織に保護されるか、私と久良屋に守って貰うか。二つに一つ」
うてなの言い分に間違いはないと、深月も黙って頷く。
選択肢は、龍二に委ねられていた。
どちらがより安全なのかは明白だ。
ただし、相応の代償もある。
周囲に害が及ぶかどうかは、相手次第。
選ぶべきは、何を優先するかだ。
自身の安全か、親しい人たちの安全か。
「よく考えて。周囲の人間に害が及ぶ可能性は、どちらを選んでもゼロにはならないわ」
「でも、僕が保護して貰ったら、その可能性が高くなるんだよね?」
「そこまでしてあなたを手に入れようと考えているのなら」
突きつけられる現実は、どこまでも非情だった。
いっそ選択肢などなければ、と龍二は一瞬だけ考え、すぐにそれを捨てる。
わけのわからない事件の当事者にされ、自身どころか周囲まで危険に晒されそうになっている。
そんな中で、唯一許された選択を放棄する事なんてできない。
どんなに怖くても、苦しくても、選ばなければいけない事なのだ。
「僕は……信じるよ。君たち二人を」
俯いていた顔を上げ、交互に二人を見て、はっきりとそう告げる。
「二人にとっては面倒かもしれないけど、それでも僕はあの家で、学校で生活したい」
誘拐されそうになっても、日常生活を続けたい。
その願望は、ある意味龍二の我がままでもある。
それをしっかりと自覚した上で、龍二は二人に告げたのだ。
「改めて……どうか僕を、守って下さい」
ソファから立ち上がり、頭を下げる。
護衛を頼むという事は、二人の少女を危険に晒す事でもある。
それが二人の任務だからと、龍二が割り切れる性格であればまだ気も楽だっただろう。
「もちろん、そのつもりよ。だから頭を上げて」
龍二の肩に手を添え、深月は穏やかに目を細める。
「あなたの安全は、私たちが全力で守る。信頼には、結果で応えるわ」
「う、うん。その、よろしく」
差し出された深月の手を握り返し、龍二は頷く。
そして二人の視線は、ごく自然にうてなへと向けられた。
「はぁ……仕方ないなぁ。ま、安心してよ。相手が宇宙人でもない限り、たぶん私の方が強いし。信じるって言った事、後悔はさせないよ」
保護される事を望んでいるように見えたうてなだが、龍二の決断を聞いたその表情は、どこか嬉しそうに見える。
勝気な双眸を輝かせ、自信に満ちた笑みで応える。
見ている者に活力を与える、そんな笑みだ。
「えっと、よろしく。神無城、さん」
「あぁ、いいよ。うてなでいい。その呼び方、むず痒いから」
「……わかった。よろしく、うてな」
「さんはつけろよ」
「えっ、あっ……はい」
急に声のトーンを下げるうてなに困惑しつつ、龍二はふと気づく。
あれだけ大きくなっていた恐怖や不安が、今では感じられないほど軽くなっている。
二人を信じると決めた事が、龍二の中に変化をもたらしていた。
なんの力も持たない自分にできる事はなんなのか、それが少し見えたような気がして、龍二は前を向く事ができた。
まだはっきりとは見えないそれは、暗闇を照らす灯のようなものだった。
「さて、騒ぎもひと段落したようだから、そろそろ出ましょう」
携帯端末を確認した深月に頷き、うてなも立ち上がる。
「じゃ、先に出るから」
「えぇ」
短いやり取りを済ませ、うてなは玄関から先に出て行った。
それに続いて龍二と深月も出ようとして、気付く。
「ゴミくらい捨てていきなさいよ」
テーブルに残されたペットボトルを発見し、深月は拳を震わせていた。
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