その心の中の、すてきなこと。

靑命

読み切り


 もう疲れてしまったと、彼女は言う。

 そう告げられた僕の心は、意外にも穏やかなものだった。

「人生にも疲れて、あなたにも疲れたから……」

 踵を返して、柵へと歩んで行く彼女をただぼんやりと眺める。死ぬ気なんだ。止めないと。でも僕の体は固まったまま動かない。それに何だか、胸が痛い。声さえも喉の奥でつかえたままだ。

 目の前で、長くて艶のある、綺麗な黒髪が風に靡いている。寂しそうに、哀しそうに。

「リョウ君」

 僕に背中を向けながら、彼女がぽつりと呟いた。

「私はあなたにも疲れたって言ったけどね、何もあなたが嫌いになったわけじゃないんだ。むしろ好き。ずっとずっと大好き。君のことが好きすぎて、それで私が自分で勝手に疲れちゃっただけだよ。だから、安心してね」

 僕は首を横に振ることすらできない。したところで、こちらを見ていない彼女には何も伝わらない。

 安心なんてできないよ。だって今から君は、落ちてしまうのだろう? 行けば二度と戻ってこれない世界へ身を投じて、僕とこの世にサヨナラしてしまうのだろう? いやだ。僕だって君が大好きなんだ。ずっとそばに居て欲しいんだ。

 穏やかだったはずの心が急に揺らぎ始める。頭の中がぐちゃぐちゃになってきた。

 ――好きだ、好きだ、好きだ!

 僕は気づけば、心の中でそう叫んでいた。

 君のその黒髪も、大きくて輝きのある瞳も、ふとした瞬間に赤く染まる頬も、言葉を紡ぐごとに様々な表情を見せてくれる唇も、暖かな雰囲気も匂いも、何もかも。

こんな突然の別れなんて、君が選んだものだとしても許さない、認めない。

 動け、僕の体!

「ありがとう。リョウ君。いっぱい楽しい思い出を作ってくれて。ごめんね、こんなことしちゃって。本当に、ごめんなさい」

 彼女は声と、肩を震わせていた。

 僕は泣いている君なんて見たくない。笑って。そして、死なないで。

 ああ、さっきから続く、胸の鈍痛はなんなのだろう。彼女の今までの苦しみかな。そうだったらいいな。他人との気持ちを共有するっていうのは、こういうことを言うのかもしれない。このまま彼女を救えたらいいのに。

 でも、もう駄目だった。

「さようなら! 人生!」

 彼女は最後に、精一杯の声を空へ放って、柵をひらりと乗り越えて飛んでいった。美しい黒髪は、終わりの刻まで美しくなびいていた。

 そして、カチャ、と冷たい金属音が屋上に響いた。


 ――――。

 僕は何もできなかった。涙を流すことすらしない僕は、なんて最低なのだろう。動かない体は、冬の乾燥した風に当てられて冷え切っている。吹きすさぶ風以外にも、体が冷えていく理由があった気がする。

 ……ああ、さっき彼女が落とした"モノ"。

 それが答えじゃないか。

 先刻まで、彼女が存在していた場所に目をやる。

 そこには、血で刃を汚した果物ナイフがあった。

 この胸の痛みも、彼女の気持ちを分かったものではなかったのだった。

 つくづく僕は、駄目な人間だ。

 ゴホッと咳き込むと、血の味がじんわりとした。

 「――……」

 彼女の名前を最期に呟くと、力が抜けていくのと同時に、視界が段々と狭まっていった。

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