第11話「懐事情は関係ないと思うな」

 それから。

 しばらく思考が停止したまま、その閉められた扉を見つめ、およそ数秒を僕は固まって過ごした。

 向こうから聞こえてくるバイクの音と、雀のさえずり、蝉の鳴く音がそれぞれかすかに聞こえたところで、僕はようやく意識を手に戻す。リビングに駆け込む。

 

 まず、未だいっこうに目が覚める様子がない姉さんを乱暴に叩きおこすところから始めた。


「起きろ。姉」

 

「……ん、何? 夜這い?」


「指摘したいところだらけの発言だけど、まず今は昼過ぎだ」

 

 大きなあくびと眠気の残った顔つきのまま、姉はようやく起床した。

 その目はまだ開かれておらず、カーテンの隙間から漏れる陽の光に慣れていない。


「…………」


「…………」


 しかし。

 どうしてなのか、僕がどこにいるのかわかっているようで、目を閉じたまま腰へ巻きつくように腕を絡めてきた姉。

 なかなか強い力で引っ張られ、だいぶ体幹を揺さぶられる。

 足の踏ん張りと、ソファに片手を浮くことで耐えた。


「幸人……」


「何」


「結婚しよ」


「いやだ」


「式はいらないから」


「そういう問題じゃない」


「指輪もいらないわ」


「そういうことじゃない」


「届けもいらないし」


「それはいるだろ」


「諭吉もいらないもの」


「それもいるだろ」


「でもハネムーンはしたい」


「ちなみにどこ」


「箱根」


「なんと」


「どう思った?」


「庶民派でいいお嫁さんになりそうだな、と」


「ふふん」


「なぜ偉そうに」


「私はできる女」


「うるさい黙れ無職」


「劇団長だからセーフ」


「世間体的には余裕でアウトです」


「まあお姉ちゃん幸人に養ってもらうし」


「残念。僕、将来の夢は専業主夫なんだ」


「ちょっとハローワーク行ってくるわね」


「嘘だよ。行かなくていいよ」


 いたずらに言葉を消費し時間を浪費する。

 基本的に何も変わらない、僕と姉の日常会話だった。

 特に感想も感慨もない。

 強いていうならいい加減服を着てほしいぐらい。

 さっきから胸が当たってどうにかなりそうだ。

 

 そして訪れたほんのわずかの無言の時間。 

 僕を抱きしめる力が少し強くなる。

 姉は言った。 


「……ねえ、幸人」


「何」


「本当に、結婚だめ?」


「だめ」


「絶対?」


「絶対」


「私、実はもう結婚できる年齢よ」


「できるだけでしょ。司法書士だって基準年齢一緒だから」


「……ケチ」


「懐事情は関係ないと思うな」


「昔はお姉ちゃんに抱きつかれるだけで顔真っ赤にしてたのに」


「そりゃ思春期だったからね」


「昔はキスのひとつでひと盛り上がりしてたのに」


「そりゃ若かったからね」


「今だっておっぱい当たって喜んでるくせに」


「そりゃ男の子だからね」


「勃ってるくせに」


「寝ぼけているからって何を言ってもいいわけじゃないからな?」


 安易な下ネタは嫌いです。

 

 それから。

 ブンブンと体を揺すられ動かされ、似たような問答が三、四回程繰り返された時、ようやく姉の目は覚めたようだった。

 

「目が覚めたわ」


「そりゃ良かった」


「ちょっと体冷ましてくる」


「はいよ」


「あなたも早く冷ましてね」


「触れねえからな」

 

 相変わらずの下着姿で姉は浴室に向かっていった。

 ドアは少しの隙間を残して開けられて、その体を弾く水の音とその鼻歌がここまで聞こえてくる。


 まさか本当に冷ますわけにもいくまい。

 ということで自然鎮火を待つため、慣れ親しんだダイニング椅子に腰掛ける。  

 頬杖をついてスマホを眺める。


「ねえ」


「ん?」


「どうだった?」


「何が」


「あの子」


「あの子?」


「可愛いかったでしょ」


「…………」


 無視した。


「優しくて、プライドなくて、人当たりも良くて、容姿端麗スタイル抜群。その上金髪碧眼って……これまた『いかにも』って感じな女の子だもの」


「…………」


「別に幸人を責めているわけじゃないのよ? どんな男性だって、どんな人だって……例え性別が女子のそれだって、あの子に対しての第一印象はとても良いものになるんだから」


「……え、何。姉さん起きてたの」


「寝てたわよ」


「じゃあなんで」


「ふん。寝ててもわかるわよ。昨日佳奈が帰った後、あなたに会いに来たあの子と私、朝まで飲んでいたのよ?」

 それが起きたら、幸人しかいなくなっているんだもの。

 普通に察せられるでしょ。


「加えて——あの子のことだって結構理解しているつもりよ。教育係だって私だったし」


「…………」


「何を話したとか、何があったとか、その程度ならだいたい予想はつくぐらいにはあの子のことは知っているつもりよ」


 シャワーの音が止まる。

 浴槽に響く水を踏む音がここまで届いた。


「例えば……そうね。——こういうのとか?」


 ガラッと音を立てて、その中途半端に閉められた扉が開いた。

 見る。

 髪は濡れていて。水が下垂れ落ちていて。

 顔は不敵な笑みが浮かんでいて、腰に手を当てていて。なぜかポージングを決めていて。

 身につけているのはバスタオル一枚で。

 

「どうかしら?」

 

 勝ち誇った笑みを浮かべながらの半裸姿な姉が、そこにいた。


「…………」


「…………」


 無言。

 静かな無言。

 それは先ほどからよく流れている時間だし、その格好だって、登場人物だって、全く変わっていないのだけれど、しかしなぜか、今の状況はそれとは違う気がした。

 僕はしばらくそんな姉を見る。

 未だ固まって僕の方を見る姉を見る。


「…………」 

 

 うん。

 色々思うところはあるし、今年で二十一歳になる大の大人が一体何をしているのかという点ではツッコミどころしか見当たらない現状ではあるのだけれど、しかし。

 まあ、あれだ。

 きっと姉はまともに寝ていないのだ。

 話では朝まで酒に溺れていたというのだから、それはまあ仕方のないことと言える。

 そもそも姉はそこまで酒も強くないのだ。

 二日酔いだって残っているだろう。

 それに先の寝起き姿の甘え方を見れば分かる通り、朝だって強くない。

 いつも出発ギリギリに起きている印象がある。

 だから——まあ彼女が今、深夜テンションであるのも納得できる。

 

 そう。だから、何か、その、なんというか……うん。

 あるあるだよね。

 夜中のテンションっていうか、舞い上がっちゃったみたいな、その場の勢いみたいな、そういうことしちゃうみたいな——。

 

 うん。

 なんかほんと。

 ついていけなくて……ごめん。

 

 以上、そんなメッセージを多分に込めた視線を僕は姉に送った。

 

 伝わったのかは知らないが、姉はその開け放った扉を閉め、姿を消した。

 表情が最後まで崩れることはなかったのは、さすがのメンタルと言わざるを得ない。

 

 僕も命を無駄にしたいわけではないので決して言葉に出すことはないけれど、第一こうしてともに寝起きを繰り返している中、姉の半裸などはもう十二分に見飽きているわけで、だからこそ、あんなつれない態度になってしまったわけだった。


 そういえば、

 この短時間で二人の女性の半裸を見るというなかなかに好奇的かつ終末的状況に自分がいることを自覚したのは——それからだいぶ後になってからのことだった。

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