あの夜を越えた瞬間まで

雨中紫陽花

ー1- アネモネ

 頬をかすめる柔らかなそよ風と、暖かな日差しを受け、彼女は目を覚ました。

 彼女の眼が暗闇から色のついた世界を映す。

 

 大地を覆う草花は、どこまで続いてるかわからないほど広大で、その上に広がる真っ青な空は、まるで吸い込まれそうなほどに澄み渡っていた。

 

 綺麗。何も考えずとも浮かんだ言葉に嘘偽りは無く、それ以外にどう形容すればいいのか悩んでしまう。彼女はしばらくその景色を目に焼き付けていた。


 目を覚ます前、彼女は自分が何をしていたのか覚えていなかった。深い眠りについていたのだろうか?夢すら覚えていない彼女は、ただ一つ、〈誰かを待ってる〉ことだけは明確覚えていた。でも、誰を?自分の名前も覚えていない彼女は、ただただ疑問を抱いた。


 しばらくして、彼女は自身の異変に気付いた。


 手のひらサイズの小さな白いオバケ。それしか言えない容姿だった。地についているはずの足が彼女にはなかった。地面から1mほどの空中に、彼女はふよふよと浮いているのだ。両側についた突起物を手のように動かし、彼女はその場で一回転した。彼女が空に手が届くか試そうと上へ上へ進むと、地面が遠くなり、逆に地面に生える草花を見ようと下へ下へと進めば地面すれすれまで近づくことが出来た。

 自身に起きた異変に、彼女はすぐ順応した。


 彼女は自身の下で斜めに埋まった石の横に咲く、紫色の花を見つけた。

 真ん中が黒くて、周囲に数枚の花弁が付いたその花を彼女は愛おしいように見つめた。

 アネモネ。彼女は無意識にその言葉を浮かべた。その言葉に意味があるかなんて、彼女には分からない。ただ、その言葉が浮かんだ時、酷く懐かしい感覚が彼女を包んだ。


 彼女はその言葉を忘れないよう、自身にアネモネと名付けた。名前を覚えていない彼女にとって、その花は何か、名前と同じくらい大事なものと捉えたのだ。


 彼女がアネモネに触れると、ゆらりと花が揺れた。最初は摘もうと考えた彼女だったが、この花は生きているのだから、と摘まずに花から離れた。


 彼女は周辺を見渡した。蒼穹の下、蜜を集める蜂や色鮮やかな蝶、美しい鳴き声の鳥ですら、彼女の周りにはいなかった。


 寂しさを覚えた彼女は、一度アネモネの方を見てから、その場を離れることにした。


 寂しさを埋める為、彼女はただひたすらに進み続けた。

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