第七章 3 『見捨てたくなかったモノ』

 ソラの記憶を追体験したツカサは涙を止められなくなっていた。

 あまりにも残酷で、あまりにも悲しすぎる。

 ソラは変わってしまったのではない。

 純粋で優しいソラのままだったからこそ、人間に牙を向けざるを得なかったのだ。

 見覚えのない場所だと思っていたこの精神世界はホノカが惨殺された現場の再現だ。

 人間を滅ぼすソラの決意が形になった世界だった。

 弟の異変に何も気づいてやれなかった自分の愚かさが憎らしかった。

 守るなんておこがましい。

 むしろ守られていたのはツカサの方だったのだから。


 ケイジもまた泣いていた。

 使命と言う蓋は脆くも崩れ去り、押し込めていた感情が堰を切ったように溢れ出していた。

 すでにケイジの力で作り出したナイフは消え去っている。


「ケイジ。………これでもまだ、ソラを殺せるのか?」


 震える声を絞り出すようにツカサが問いかけると、ケイジは力なく首を振った。


「…………無理だ。………でも、でも、もう終わったんだ。ソラの魂は壊れる。」


 ソラの魂はぱっくりと開いた亀裂から光を放出させている。

 その崩壊に伴って、この精神世界そのものにも至る所に亀裂が入り、ソラの魂の終わりを告げているようだった。

 ソラは地面に転がったまま、部屋の隅に転がる手錠をただ静かに見つめている。

 その場所はホノカが命を奪われた場所。きっと魂の行く果ての世界での再会を祈っているのだろう。


「いいや! こんな結末……俺が許さない!」


 ツカサは信じられないような一言を放ち、ソラの傍らにうずくまった。

 ケイジはツカサが何を考えているのか全く分からず、ただ茫然と眺めることしかできない。

 それはソラも同じようだった。

 ツカサの言葉が理解できずにソラもツカサを見つめる。



 すると、ツカサは右手を振り上げて指を顔に向けるや否や、何の躊躇もなく自分の顔面に突き立てた。 ツカサの魂に亀裂が入る音が響き、その指は深々と右目に食い込んでいく。


「あ……ああ………。兄……さん………。やめて………。何をしてるの………?」


 ツカサは獣のような形相で歯を食いしばり、右手をゆっくりと引き抜いていく。光の粒がボロボロと漏れ出し、ソラの額に降りかかる。

 ツカサの手の中には光の粒子を纏った右目が握られていた。


「眼は二つある。一つ無くなったところで、どうということもない! ……ソラ、死ぬなっ!」


 ツカサは雄たけびを上げ、ソラの崩壊してゆく頭部の亀裂に自分の魂の一部を押し当てる。

 魂は光の粒と化し、みるみるとソラの頭部に刻まれた亀裂を埋めていった。

 精神世界を終わらせる地響きは静かに収まっていく。

 それはソラの魂の崩壊が止まったことを意味していた。

 ソラはツカサの行為が全く信じられないように、呆気にとられた顔で見つめている。


「なんで………? なんでこんなことしたの、兄さん?」

「兄貴なんだ。理由なんてそれだけで十分だろ。」


 ツカサは右目に大きな穴が開いて光が零れ落ちている状態なのに、なんの痛みもなさそうに満面の笑みを浮かべた。


「……それに、ソラだって同じことを俺にしてくれただろう?」


 そう言われても、ソラはツカサが何を言っているのか分らなかった。


「ついさっきのことじゃないか。俺が飢えたまま家に戻った時、ソラは自分の魂を俺にくれただろう? ソラがカルマ憑きだったというなら、あの時も俺が何をしようとしているか分かっていたはずなのに、それでも魂を差し出してくれた。……あれから飢えが和らいだんだ。そしてその後、ケイジに壊されたと思っていた俺の魂の傷は壊れることなく、今もこうしてここに居られる。……きっとあの時くれたソラの魂が傷を埋めてくれたんだと思ったんだ。」


 ツカサの言葉を受けて、ソラの顔が急に赤らんだ。

 どうやらソラも何が起きたのか理解できた様子で、ツカサから目をそらす。


「……飢えの苦しみはよく知ってるから。……あんな兄さんを見ていられなかったから。」


 しかしその後に続いたのは怨嗟の言葉だった。


「だからって、僕を助けて何になるんだ。兄さんは僕がやろうとしてることも、その想いも全部見ちゃったんでしょう? 人間の街なんて壊してやるんだ。カルマ憑きの楽園を作るんだ。………兄さんもそれを手伝ってくれるっていうことでいいの?」

「人間の世界は壊させない。……ソラの絶望は、わかるなんて簡単に言えないほどだよ。きっと俺なら簡単に壊れてしまうに違いない。………でも、そんな屑みたいな人間のせいで全部に絶望するなんて早すぎるよ………。」


 ツカサの声は徐々に震えていく。

 ソラの頬に大きな雫がいくつも落ちた。


「………例えばユイだ。あいつが俺たちを拒絶しようとした瞬間が一度でもあったか? 組合の皆だってこんな酷い街を良くしようと頑張ってる。……ホノカちゃんが最後まで人間を食べようとしなかったのはなぜだ? どんなに苦しかろうが、人と共に生きることを望んでたからに決まってるじゃないか! なのにソラが自分から手放してどうするんだ!」

「あ………あ………。」


 ソラはもう言葉が続けられなくなっていた。



 確かに大好きな人達がこの世界にいる。

 カルマに覆われた世界にぽつんと取り残された狭い塔の中の、それも吹き溜まりのような街に押し込められているというのに、自分のことすら厭わずに誰かを守ろうとする人々。

 目の前にいる兄がその最たるものだ。

 そしてソラを生かそうと命を投げ出した両親も同じだ。

 そんな狂おしいほどに愚かで愛すべき人々を少しでも守りたくて戦った日々が確かにあった。


「でも……でも、どうしようもなかったんだ。本当に壊れてしまえればどんなに楽だったか。……僕は人間をたくさん殺してきた。もう戻れないほどに罪を重ねてしまった。」

「だからってなんだというんだ! 世界がお前を罰しようとも、俺はソラを絶対に守るんだ! 罪は俺だって一緒に背負う。どうすればいいのかはこれから一緒に考えよう。だから、だから俺について来い!」


 ソラの目の前にツカサの手が差し出される。

 ツカサは幼い外見のままなのに、あふれる涙越しに見たその手はなぜだかとても大きく感じられた。

 ソラはためらいながらも、かろうじて残っている右手をおずおずと差し出す。






 その時だった。

 金属が大きく打ち付けられた音が無機質な空間に響き渡った。

 三人が音の方向を振り返ると、そこには純白の人影が仁王立ちとなって立ちはだかっていた。

 美しかった衣服は酷く破れ果て、人形の素体が所々に露出している。左手に作り出した刀を床に打ち付け、右手には巨大な繭のようなものを引きずっていた。

 人形の少女はその繭を三人に見えるように放り投げると、糸を徐々にほどいていく。

 その繭の中から現れたのは人間の形をした臓腑の塊だった。

 墨で染めたようにぬらぬらと黒く、そして脈打っている。時折「キャキャキャ」と薄気味悪い声を上げたり、意味の分からない単語をぶつぶつとしゃべり続けている。

 ツカサとケイジはその様子を見て、この存在が何者なのかすぐ分かった。


「宵闇の……魂……なのか?」


 その不気味な存在をよく見ると、頭部は刀傷を負って割れており、全身は純白の糸で縫いとめられている。

 どうやら人形の少女との戦いに負けて拘束されている様子だった。


「……感動の場面なのにすまないな。どうやら忘れておるようだが、カルマ憑きの内部ではヒトとカルマの魂は繋がっている。その人間を救うということは宵闇を救うということ。それだけは看過できんなあ。」


 そして少女は刀をツカサに向けた。


「こやつはすでに憎悪の塊。貴様お得意の対話とやらではどうにもならんぞ。さあどうする? 生かすか殺すか、選べ。」

「はは………。選択させるなんて笑わせる。君は殺す選択しかする気がないんだろう?」


 ツカサはゆらりと立ち上がり、少女に向き合って答える。


「ソラは守る。宵闇は殺す。」

「愚か者が! 話にならんわ!」


 少女の咆哮と共に空間が揺れた。

 その気迫が自分に当てられたものではないにも関わらず、ケイジは全身が痺れるように粟立った。

 しかしツカサはソラの前に立ち塞がり、怯みもせずに少女と向き合う。


「ふん。そんなことで盾になっているつもりか。ほれ、宵闇を殺せば貴様の弟とやらも死ぬだけだ。宵闇を守らねばならんのだぞ?」


 その問いにツカサは答えられない。

 しかしソラを見捨てないという意思を挫かれるわけにはいかない。せめて抵抗しようと、ツカサは一歩を踏み出そうとした。

 しかしその脚に手が絡みつき、止められる。

 ツカサが振り向いた時、目に飛び込んできたのは涙でくしゃくしゃに顔を腫らしたソラだった。


「離せ。」

「もういい……。もういいよ。兄さんの気持ちだけでもう救われたんだ。十分なんだよ。」

「十分なんかじゃない! こんなところで終わったら、とんだ茶番だ!」

「兄さんの分からず屋!」


 ソラは叫んだあと、ケイジを見据えた。


「ケイジさん。力を解いて。僕、ちゃんと殺されてみせるから。だから兄さんを連れて行って!」


 ケイジに向けられた視線はあまりに切実だった。

 何も裏がないと信じざるを得ない、すがりつくような眼。

 ケイジは頷く以外の選択ができなかった。


「ケイジ、待ってくれ……!」


 ツカサが制止しようとするのも聞かず、ケイジは天に腕を振り上げた。

 太陽が出現したかと見まごうほどの眩い光が溢れ、あらゆる意識を白く染め始める。

 全身を包み込む浮遊感に抗ってツカサはソラに手を伸ばすが、その手は空を切る。

 何もつかめない。


 そしてかすかな声が遠ざかっていった。


「兄さん、行って……!」


 それは《富士》で追いすがるように投げかけられたソラの言葉と対になる想い。

 別れの言葉に他ならなかった。

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