第七章 1 『血濡れた密室の中で』
深淵の中をどこまでも落ちていく感覚がツカサを襲う。
まるでこの身が流星になって全身が焼き焦がされていくような、もしくは宵闇の瘴気に蝕まれて溶かされていくようなひり付く痛みと共に、自分の形が分からなくなっていく。
「ソラァァァアァァアァァァ………!」
ツカサは全身の感覚を必死に追いかけながら、懸命にソラの名前を呼び続けた。
すると突如として闇が晴れ、周囲が赤く染まる。
まるで汚水漕に投げ込まれたような感覚と共に不快な臭いが口腔いっぱいに広がった。
ツカサが吐き出すように咳き込みながら立ち上がると、そこは赤黒い液体が流れ込む水たまりのような場所だった。見上げると鋼鉄の天井や壁に囲まれた空間のようで、薄暗い照明に照らされている床のそこここには赤い染みが広がり、鎖のつながった手錠が落ちている。
ツカサにとってここは全く見覚えのない場所だった。
高層都市のどこかにこんな場所があるのだろうか。それともソラの壊れた精神が作った幻影なのか。
少なくとも平穏だけはないことが感じられた。
ツカサは自分の体を確認する。
左腕は消失しており、右手は幼い子供の手だ。これは間違いなくツカサ自身の魂の形。つまりソラの精神世界に入り込んだことを意味していた。
その時、暗がりの奥に続く通路の方向から硬質な足音が響き渡った。
ツカサは緊張の面持ちで身構えるが、現れた人影は純白のワンピースと絹糸のような長い髪を揺らしていた。
人形の少女はツカサを見下ろし、静かに問いかける。
「これでよかったのだな?」
「………ああ。……ケイジが力を残しているうちに邪魔をしても事態を先延ばしにするだけ。それに、ケイジの力でソラの中に入れるなら、きっとここで得られることがあるはずなんだ。」
そう静かに語るツカサの目には力が戻っていた。
ソラの正体を知って動揺していた姿は微塵もなくなっている。
「………迷いは晴れたか?」
見守るようにたたずむ少女を前にして、ツカサは少しうつむいた。
「………さっきまで、本当に俺はぐちゃぐちゃだったんだ。ソラもカルマ憑きで……しかも父さんたちを殺した宵闇で、街を壊して人を殺して………。許されるはずがない、ソラを殺して俺も死ぬ。そんな風に思ってたんだ。…………でもユイが作った罠にかかった時の叫びを聞いて、助けなきゃって思った。理屈なんてなかったんだ。俺にとってソラはソラだ。だったら俺が助けないで誰が助けるんだって………。」
ツカサは赤黒い水たまりから抜け出て、少女に並び立つ。
「俺はソラを守るよ。」
「そうか。」
少女は依然として表情を崩さずに、ただツカサを見つめたままだ。
ツカサは少女を見つめ返し、ひとつの疑問を口にする。
「それより君は、どうしてカルマなのに……宵闇に狙われている身なのに、俺に協力してくれたんだ?」
「ふん。………貴様には危うい所を助けられた上に心臓を与えられた。その釣りを返したに過ぎん。………これ以上は無いと思え。」
そう言って少女はツカサに背を向ける。
その横顔が少し赤らんで見えたのは周囲の色の反射のせいだろうか。
「………ありがとう。じゃあ、行ってくる。……君も宵闇に気を付けて。」
ツカサは迷いを吹っ切って通路の奥を見据え、駆け出して行った。
その小さくなる後姿を見送り、少女は周囲を見渡す。
「……私は私の戦いをするか。」
ケイジに追いつめられ、ソラは防戦一方となっていた。
すでにソラの魂は大部分が宵闇に奪われ、頭部と右腕だけの姿となり身動きが取れなくなっている。
魂の大部分を失ったソラには行使できる力に限りがあり、同じように弱々しい力しか持たないケイジを前にして逃げることもできず、ただかすれかけた瘴気をまき散らして寄せ付けまいとすることしかできなかった。
「宵闇……! 呼んでるのになんで来ないんだ! 宵闇、よいや……ガァッ……。」
必死に叫ぶソラの頭部に突如亀裂が入った。
ソラの顔が苦痛に歪む。
その様子をみてケイジは状況を理解した。
「カルマ憑きはヒトとカルマの魂が繋がってる。……その傷。お前の用心棒さんも随分やられているようじゃないか。計算外だったが、ツカサ達が足止めしてくれてるんだろう。お前と宵闇、どっちが死ぬのが早いかな?」
ケイジはソラが明らかに弱まった様子を見て、今が勝機と判断した。
ケイジは今の時点で行使できるすべての力を込めて禍々しく尖ったナイフを生成する。
「………もし魂が壊れた先に待つ世界があるのなら、ホノカと再会できることを祈ってる。」
ケイジは唇をきつく噛みしめ、ソラの目を見つめる。
《富士》から逃れてきた孤児。
ツカサの弟。
そしてケイジの大切な妹に寄り添ってくれた一人の男。
……しかしその実、こいつはカルマ憑きだった。
人間の世界を脅かす存在を放置できない。ケイジは妹を手放した日、街を守る使命に殉じると決めたのだ。
あらゆる感情に蓋をするようにケイジは雄たけびを上げ、ナイフを振り下ろした。
「ケイジィィイィィィッ!」
激しい怒声と共にナイフが見当違いの方向に大きく揺さぶられた。
その刃はソラではない者の手のひらを突き刺してしまっている。
ケイジは腹に強い衝撃を受けてよろめきながら邪魔者の姿を睨みつける。
それは幼い姿のツカサに他ならなかった。
しかしその表情は歯をむき出しにして猛獣のように猛っている。
「ソラは俺が守る!」
「馬鹿の一つ覚えが! お前も狂犬か!」
視界の隅ではソラが逃亡を図ろうと、片腕を使って必死に地面を掻き毟っている。
逃がしてしまっては元も子もない。ソラを殺せば宵闇も死ぬ。これが最大で最後のチャンスなのだ。
ケイジは刃を引き抜こうとするが、ツカサは拳を貫いた刃を強く握りしめ、決して放さない。
「今しかないんだ。俺の力が失せる前にっ……!」
ケイジは覚悟を決め、腕を振り上げる。小さなツカサの体を強引に吊り上げ、そのままの勢いでソラの頭部にナイフを振り下ろした。
ソラの体を襲う雷撃のような痛みが手のひらに刺さったナイフを通してツカサの中にも響き渡る。
それと共にツカサの意識に何かの光景が怒涛のように流れ込んできた。
ケイジの力は魂を切り開く際、その奥に潜む真実の想いを露わにするのだ。
ツカサとケイジはソラが絶命するまでのわずかな時間、走馬灯のようにその記憶の奔流を浴びた。
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