第六章 3 『失意の底』

 耳を塞ぎたくなるような不協和音に囲まれながら、ツカサは何も考えられなくなっていた。

 嘘だとしか思えない。

 きっと夢に違いない。


『おい貴様、何をぼんやりしてるんだ!』


 ツカサの視界に人形の少女が現れるが、その言葉が全く聞こえていないようにツカサは笑いながらソラに歩み寄っていく。


「……ソラが人を殺すわけないじゃないか………。俺を……あんな殺そうとする真似……するはずないじゃないか………。」

『逃げろ!』


 人形の少女が叫ぶが、ツカサは聞こえていないかのようにソラに向かって手を差し伸べる。

 ソラはツカサに気づき、飛弾たちを攻撃する手を休めた。二人は瀕死の状態だが辛うじて生きている。その二人よりも優先すべきことを目の前にしてソラはツカサの元に歩み寄った。


「兄さん。……その体、僕にちょうだい。」

「なんで……。だって………。じゃあ俺に言ってくれた言葉は何だったんだ………。」


 ツカサはほんの少し前の出来事を思い出していた。

 魂に飢えてソラを襲ってしまったのに、ソラは優しく迎え入れてくれた。


「……あれは嘘だったのか? 死なないで、諦めないで………。俺がソラの想いにどれだけ救われたのか……。俺はユイやソラのためなら死んでいいと思ってた。……でもそれはこんなことじゃないんだ!」


 ツカサの悲痛な叫びがソラにぶつけられる。

 しかしそれを迎えたのはソラの涙だった。


「全部……、全部兄さんが悪いんだよ!」


 ソラは激情に駆られるように叫んだ。


「兄さんに酷いこと、したいわけないじゃない! ……兄さんがあの容器を開けちゃったのが間違いなんだよ! なんで憑りつかれてるんだ。そのカルマは僕の物になるはずだったんだ。ずっとずっと準備してたのに………! 邪魔、しないでよ………。」


 ソラは涙を流しながら、傍らに立つ宵闇の腕でツカサの体を握りしめる。


「せめて兄さんは僕が食べてあげる。兄さんの魂は誰にも渡さない。」

「………あ、あ………あああ………。」


 ツカサはすでに何の思考もできなくなっていた。

 抵抗することなく宵闇の口腔を見つめる。





『もはやここまでか!』


 人形の少女は諦めた表情のツカサに苛立った様子で、とっさにツカサの心臓を停止させた。

 ツカサの意識が表に出ている状態でも左腕ぐらいは自由に動かせるとはいえ、それ以外がお荷物だとなると人形の少女にはどうしようもない。

 無理やりにでも気絶させ、体の制御を奪おうとしたのだ。


「ソラ…………。ソラ…………。」


 血流が途絶えて酸素が不足したツカサの脳は次第に意識を失う。その激痛の中にあっても、ツカサは最後までソラの名を呼び続けた。

 ツカサの意識が暗闇に閉ざされたと同時に、その体からは真っ白な結晶が舞い起こる。

 意識と言う名の座席を手に入れた人形の少女が霊殻を広げたのだ。


「元気そうだね。せっかく霊殻をたっぷり注いだのに、やっぱり奪えてなかったのか。」

「貴様の霊殻は随分と不味かったよ。」


 ツカサの意識を奪った少女は全身を純白の繊維で覆いつくして戦装束を形成していく。

 左腕に構えた刀と相まって、どこか武者のような装いを感じさせた。


「へえ。やっぱり自動って肝心なところで役に立たないのかな。………僕がやるしかないか。」


 ソラが傍らにたたずむ漆黒のカルマの体に触れると、アメーバのように漆黒のカルマの体が蠢き、ソラの小さな体を包み込んでいく。

 漆黒のカルマの巨体が大きく身震いし、周囲の世界を腐肉の海に変えていった。

 そこには宵闇としての本性を現したソラの姿があった。




 口火を切ったのは少女の振るう剣の一閃だった。

 上段から下段へ振り下ろした刀で自分の体を縛り付ける漆黒の腕を切断し、返す刀で腹から頭部に向けて切り裂きながら一気に懐に詰め寄る。

 周囲から迫りくる無数の触手を霊殻で抑えながら、その内部に小さな雪だるまのような人形を数体作り出した。

 その人形を核にして糸を集約させ巨大化させようとするが、ツカサの霊殻の範囲だと十分に巨大化も量産もできない。


「くそ、狭い……。」


 少女はソラに聞きとられない程度につぶやき、やむをえまいとソラの懐の中で人形をけしかけた。

 しかし予測した通りに人形は宵闇の巨大な体を飲み干すことなどできず、逆に膨大なヘドロに飲み込まれていく。


「なんか聞いてた話より随分弱いなあ。確かもっと大きな人形を作れたんでしょ? それをやればいいのに。」

「煩い!」


 少女を飲み干そうと体の中心に巨大な口を開けたソラだったが、少女はツカサの全身を覆った繊維を収縮させることで人間の動きを遥かに超えた機動を生み出し、とっさに包囲を抜け出すことに成功した。

 ソラは目前で構えるツカサの体を眺め、その身を包む霊殻が今より大きくなった姿を見たことが無いことに気づく。


「あ、大きく出来ないのか。……そうだよね。そんな小さな霊殻だと出す隙間がないもんね。」


 高らかに笑うソラを前にして、少女は歯を強く噛みしめ、ソラを睨みつけた。

 ツカサに憑りついた直後はツカサの魂から霊殻を作り出す補助をするだけで精一杯で、その力の限界を見定める余裕はなかった。

 その後宵闇に浸食され、洞窟の世界でツカサに助け出されるまでは記憶が定かでない。

 人形の少女は、今ようやくツカサの霊殻を十分に把握できるようになったのだ。

 自分自身の精神世界はそのすべてが自らの霊殻の内部であるため、その世界が続く限りどこまででも力を及ぼすことができる。

 しかし現実世界や他者の精神世界の中だとそうもいかない。


「……せめて事前に確認しておれば………。いや、今となってはあとの祭りか。」

「何ぶつぶつ言ってるのさ。」


 少女の力の限界を知ったソラにはもう恐れるものなどない。猛然と振るわれる刃に臆することなく無造作に距離を詰めると、ツカサの体を掴みかかろうとした。




 しかし少女が操作するツカサの体はその手をすり抜け跳躍した。

 骨と筋肉が悲鳴を上げるのも構わず少女はツカサの全身を覆った繊維を収縮させる。

 向かうは居住区画の狭い路地である。




 脱兎のごとく姿を消してしまった標的を前にしてソラはしばし呆然とたたずんでいたが、深いため息をつき、足を踏み出した。

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