人喰いのカルマ ~悪霊に憑りつかれた俺は、君を食べても許されますか?~

宮城こはく

プロローグ 『あの日見捨てたモノ』

「兄さん、待って……!」


 ソラの悲痛な叫びが背中を追いかけてくる。


「待って……。助けて、父さんが、死――――――」


 その声は確かに聞こえているのに、それでも足は止まってくれない。

 急速に迫りくる死の気配を背中に感じながら、ツカサは走った。

 肺が痛くなろうとも。

 足がもつれようとも。

 家族を見捨てようとも。

 堪らない恐怖に駆られて走り続けた――――。



         ◇



 まだ幼かった頃の蔵本くらもとツカサにとって、両親と弟のソラに囲まれて穏やかに過ごす日々は当たり前のようにそこにあり、いつまでも続くものだと思っていた。

 しかしそれは無知な子供の幻想でしかなく、あの日、平穏は唐突に終わりを告げられたのだった。


 それは家族で過ごす休日だった。

 多くの人が行きかうショッピングモールは唐突に絶叫に塗り替えられたのだった。

 明るく清潔な店内は瞬く間に血濡れの腐肉の海と化し、商店が並ぶ通路の中央には、二階のフロアを超えるほどに巨大な黒い怪物が人々を見下ろすように立っていた。

 その怪物は空間にぽっかりと穴が開いたようにどこまでも黒く、沸き立つ黒煙のような瘴気を身にまとっている。頭部と思われる頂上部分の突起は無数の赤い眼球が光を帯びて並んでおり、その巨体のあちこちには漆黒の腕のようなものが無数に揺らめいていた。

 その漆黒の怪物は何の前触れもなく現れるや、無数の腕を振り上げて人々を何の感情も持たない機械のように襲っていった。

 呆気にとられたままの人々は、まるで果汁を搾るように捻りつぶされ、絞りかすのような肉片と化して、床に散らばっていく。

 ツカサの父は迫りくる腕から身を挺してツカサたち家族を突き飛ばしたが、父自身は怪物の腕に胴体を絡め取られ、ツカサの目の前で潰れてしまった。




 気が付いた時にはツカサは無我夢中で走っていた。

 心臓が裂けそうなほどに鳴り響く。

 喉の奥からは自分の物とは思えないほどの絶叫が絞り出される。

 ツカサの視界は恐怖に蝕まれて、暗く狭まっていく――――。


 そんな閉じた視界がようやく元に戻った時には、背中を追いかけていたはずのソラの声も、誰かの悲鳴も、聞こえなくなっていた。

 ツカサが呼吸を乱しながら周囲を見渡すと、先ほどの悪夢が嘘だったかのようにショッピングモールの中は明るく照らされ、床も壁も元のタイルに戻っている。

 あちこちに人がうずくまっているが、そこには当然、弟のソラも母の姿もない。

 その時になって、ツカサは幼い弟と母親を置いて自分だけ逃げてしまったことに気が付くのだった。


「まさか…………俺だけ逃げて…………?」


 取り返しのつかない過ちに、ツカサの胸がむしられる。

 視線が宙を漂い、焦点が定まらない。

 ツカサは許しをこうように頭を左右に振った。


「……違うんだ。ただ、怖くて……。」


 その時、鼓膜を破るような絶叫が通路の奥から響き渡る。

 同時に、視界の隅で通路の奥が唐突に暗くなった。

 ツカサが叫び声の方を振り向くと、壁一面が赤黒い液体で塗りつぶされ、照明を上から釣りつぶしているところだった。ぼたぼたと降り注ぐ塊は、人の腕や足のようだった。

 通路の傍らでうずくまる人々が、奥から順に次々と潰されていくが、あの黒い怪物の姿はどこにも見えない。

 ツカサは愕然がくぜんとしながらあたりを見渡すが、死の順番が自分に回ってきたときにようやく状況が理解できた。


 あの黒い怪物は、実際に接近しなければ、見ることが出来なかったのだ。


 ツカサの全身に怪物の殺意が降りかかった時、ツカサは周囲の世界が腐食されていく様子を見た。

 そして変わってしまった世界の真ん中に、その黒い怪物は最初からそこにいたのだとでもいうように、ツカサを見下ろしていたのだった。

 黒い怪物はゆっくりと頭部―――目があるからきっとそこが頭部なのであろう部位を下げると、ツカサを観察するように見つめてきた。そして一本の腕をツカサの左腕に伸ばし、絡みつかせる。


「ヒ……イギィィイ……!」


 まるであらゆる毛穴に針金が差し込まれていくような激しい痛みがツカサの左腕を襲う。痛覚の信号が神経を掻き毟っていくようだ。

 ツカサは言葉にならない絶叫の中で、大切な家族もこの痛みの中で殺されていったんだと思い知った。


『父さんたちのように……死ぬんだ……。』


 ツカサの目から涙がこぼれたが、それは恐怖ではなく、情けなさから来たものだ。


『……なんで一人で逃げちゃったんだろう。ソラ、母さん、ごめん…………。』




 ツカサが死を受け入れようとしたその時だった。

 まるで吹雪のような真っ白な結晶が周囲を舞い、一筋の光が怪物の腕を切り裂いた。

 ツカサは腕を怪物から解き放たれ、力なく床に倒れ込む。

 激痛でかすむ目をかろうじて開いたとき、その目に飛び込んできたのは少女の横顔だった。


 整った顔立ちと、宝石のような赤い瞳。

 石膏のように白い体と腰まで伸びた絹のように純白の髪。

 そして―――手には鋭い刀のようなものを握っていた。


 ツカサは遠のいていく意識の中で、その白い少女の姿を目で追い続けた。

 舞うように刀を振るう少女は怪物と対峙し、みるみると怪物の体を断ち切っていく。

 その姿は可憐で、美しかった。


「君は……。」


 かすれる声でツカサがつぶやいた時、左腕に激痛が走った。

 怪物につかまれたせいだと思って腕を見たとき、ツカサの目に飛び込んできたのは少女の振るっていたものと似た刀だった。

 刀はツカサの左腕に突き刺さっている。

 訳も分からず少女の顔を見上げたとき、少女は氷のように冷たいまなざしで二振りめの刀をツカサに振り下ろした。

 そこでツカサの意識は途切れてしまった。



         ◇



「ここは危険だよ。……ねえ、起きて……。」


 体を優しく揺り動かされることでツカサの意識が目覚める。

 ゆっくりと瞼を開けると、すでに白い少女や黒い怪物の姿はどこにもない。

 しかし無残に体を捻り潰された人間の残骸があちこちに散らばっていて、先ほどまでの異常な惨劇は間違いなく現実だった。

 朦朧もうろうとしながらツカサは自分の体を見回すが、転んで作ったかすり傷の他にはどこにも痛みはない。

 しかし、左腕の袖は鋭利な刃物が突き立てられた様に切断されているのだった。


「君はツカサ君………? ソラ君のお兄さん……だよね?」


 ツカサに手を差し伸べたのは、ツカサと同じぐらいの歳頃の黒髪の少女だった。

 顔だちも背格好もあの白い少女とは別人だ。

 黒髪の少女の目は青く透き通っており、大きな瞳が心配そうにツカサを見つめている。

 ただ、何よりもツカサの胸を突いたのは、その黒髪の少女に背負われている少年の姿だった。


「ソラ……!」


 それは間違いなく弟のソラだった。

 生きていたのだ。

 ……生きてくれていたのだ。

 ツカサは安堵と、一度は見捨てて逃げてしまった自分の醜さに挟まれ、まともに弟の顔を見ることができない。


「ソラ君に聞いたの……お兄さんがこっちの方に行ったってこと。」


 そう言って黒髪の少女はツカサに手を差し伸べる。

 その少女の背で、ソラは震える唇で微笑んだ。


「兄さん……。兄さんが生きていて……良かった。」


 屈託くったくのない弟の笑顔を前にして、ツカサは自嘲じちょう気味に笑った。


「良く……なんて、ないよ。俺はソラを、母さんを置いて逃げた。俺なんか死んだ方がましだ………。」

「そんなこと言わないでよ、兄さん! もう僕の家族は兄さんしかいないのに……!」

「俺しか……いない?」

「母さんも……死んじゃったんだ……。兄さんが生きていただけでも僕は……。」


 ソラはうめくようにつぶやいた。

 母の死。

 残酷な現実はツカサの心臓を握りつぶすように痛めつける。

 日常を彩る大切な欠片が次々と打ち砕かれていく。

 ツカサは全身から力が失われていくのを感じた。

 そんなツカサの肩に暖かな熱がしみこむ。黒髪の少女の手のひらが肩に置かれたのだ。


「ここに立ち止まっていては危険だよ。」


 少女は穏やかな口調で諭すように言う。ツカサと同じぐらいの歳に見えるのに、大人のように冷静だ。


「………一緒に行こう。モールを出てすぐの通りをまっすぐ行けば、脱出用のヘリポートがあるの。他の人達もそこに向かって行ったと思う。」

「脱出? ………そこまでのこと……なのか?」

「……何も知らないの?」


 黒髪の少女は目を丸くして驚くが、すぐに緊迫した面持ちになり周囲を見回す。


「今は説明している暇はないの……。急がないと、さっきの……黒い何かがやってくる気がする。」

「……あの、僕、もう大丈夫です。……歩けます。」


 ソラはそう言って少女の背から降り、ツカサの手を握った。


「兄さん、とにかく行こう。」



         ◇



 ヘリの小さな窓の向こうで、故郷が徐々に遠ざかってゆく。

 ツカサが街を《外側》から見たのは、街を離れていくこの日が初めてだった。

 広い裾野すそのと整った山体を持つ大いなる霊峰れいほう、富士山。

 その傍らに寄り添うように建造された、富士山と並び立つほどに巨大な高層都市 《富士》。

 高層ビルのように街が積み重なって作り上げられた高層都市は、その身を支えるいくつもの支柱が飴のように溶け崩れ、中程からゆっくりと崩壊していく。


「地上を追われ、街を失い…………。これからどうすればいいんだよ……。」


 ヘリの中で大人たちが叫んでいる。


「近くには《天城あまぎ》や《瑞牆みずがき》があるわ。きっと受け入れてくれるわよ。」

「そんなわけあるか! どこもすでに限界なんだ。難民を受け入れる余裕なんてある訳ない!」


 大人たちは不安に駆られて苛立ちを爆発させ、ある者は泣き崩れ、ある者は力なく虚空を見つめている。

 ソラはというと、先ほどから窓にかじりついて茫然と外を見ている。

 血の気の引いたソラの横顔を見ているとツカサは胸がかきむしられる思いに囚われ、つい、ツカサはソラの目の前に強引に割り込んだ。


「……ソラ。もうやめとこう。崩れる街を見てても、不安になるだけだよ。」

「……黒い………。どこまでも黒い……。」


 ソラは表情がないまま、呆然とツカサの向こうにある窓のほうを見つめたままだ。


「黒?」


 違和感を覚えたツカサが振り返って窓の外を見るが、外に広がるのは夕日に染まる赤い富士と海ばかりだ。

 黒い印象は特にない。


「……世界ってこんなだったの? 人間はあの塔の中にしか住めないって事なの?」


 聞き取れないほどの小さな声でつぶやくソラ。

 おそらくソラはあの真っ黒な怪物の恐怖に包まれているのだろう、とツカサは思った。心に深い傷を負ったことは想像に難くない。

 幼い弟の心の傷を容易く癒せるなんて思わないが、それでもツカサはソラを強く抱きしめずにはおれなかった。


「そうか。ソラはまだ学校で習ってなかったんだな。…………今の時代、人間が生きることのできる場所はこの地球上のどこにもないみたいなんだ。何十年も前に発生した汚染で、下に広がる大地はすべて死の世界になってしまったらしいんだ。」

「…………汚染って、なに?」


 ソラは問うが、ツカサは答えられなかった。学校でも詳しく教わっていなかったからだ。

 その時、一緒に逃げてきた黒髪の少女が傍らに近づいてきた。


「……汚染っていうのはね、君たちが見たという怪物のことなんだよ。何十年も前に地球全体を覆い尽くすほどに現れて、たくさんの人が殺されたらしいの。わずかに生き延びた人は山の上に街を作って逃げ込んだ。……それが私たちが住んでいた《高層都市》なの。」

「あ………君か。……さっきはありがとう。おかげで逃げることが出来たよ。」


 ツカサの言葉に少女は首を振る。


「ううん。当然のことをしただけだもの。」


 少女は疲れ果てたように表情が硬いが、それでもぎこちなく笑みを作り、ツカサに手を差し出した。


「………私はユイ。よろしくね。」


 ツカサも右手を差し出し、握手を交わす。


「……俺はツカサ。こっちが弟のソラだよ。」


 ツカサがソラの方を指し示すと、ソラはゆっくりと振り返る。その顔は血の気が引いたように青ざめていた。


「……怪物なんて、今まで一度も見たことはなかったよ? 父さんも母さんもそんな話はしてくれなかった。」

「それは……。街は絶対に安全だと言われてたから……。防壁って奴が守ってくれてたんだよ。」

「あんぜん………? でも、街はほら……崩れていく……。」


 ソラが背伸びするように窓辺から街を見つめる。


「僕たち、これからどうなるの……?」


 そのソラの問いにツカサもユイも答えられなかった。

 崩壊していく《富士》を見つめていると、平穏な未来が訪れるなんて想像もできない。

 しかし、だからと言ってただ絶望に身を任せているだけなら、確実に酷い未来がやってくるに違いないとツカサは思った。

 両親を怪物に殺され、居場所さえも失ってしまった。

 いつまでも続くと信じていた日常が失われてしまった。

 ……こんな訳のわからない理不尽を突き付けられたまま、ただ受け入れて生きていくなんて、それは運命に殺されているのも同然だと思った。

 容易く倒れてしまいそうな心を必死に奮い立たせようと、ツカサは《富士》を睨みつける。


「失っただけで終わるなんて……嫌だ。絶対に街を……取り戻してみせる。」


 ツカサは歯を食いしばり、拳を強く握りしめる。




 その時、ツカサは痺れるような痛みを感じ、自分の左手に視線を落とした。

 外傷はないが左の袖は鋭利な刃物で斬られたように欠けている。

 そういえばあの白い少女は何者だったのだろうか。ツカサは不思議な違和感に包まれる。

 言い知れぬ不安。左手がずぐんと鼓動したようにツカサは感じたのだった。

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