願い恋う

須藤未森

***

 七夕の前々日の夜、つまりは金曜日の夜に彼はやってきた。片手にまっしろのケーキの箱を携えていた。誕生日、おめでとう。彼らしい笑顔をみて私は安堵した。無邪気でもなく、華がある感じでもなく、下まぶたをふわっと持ち上げて目を細める笑いかた。あぁ、この人に出会えてよかったと、自然に心が明るくなる。

 その日は、プレゼントにもらったネックレスをつけて、ふたりでゆっくりワインを飲んだ。豪奢な夜。生きてる心地がする一方で、すこし不安になりそうになる。ちゃんと、明日も踏み外さずに生きていけるかどうか。たのしい、うれしい、怖い、しあわせ、たのしい、怖い、もっと。途中で考えるのをやめた。酔いが切れはじめた頃。彼は性急に私の着ているものを剥がすと、なにもかもを奪うよう暴きたてた。まるで台風みたいだった。ベッドの上をかきみだし、雨をふらせて全部を押し流した。あとには、この人を好き、というさみしい一途な気持ちだけが残るばかり。

 翌日の土曜日。コーヒーを淹れて朝を過ごすと、私たちは街へ出る。行きたい水族館がある、とつたえていたことを彼は忘れてはいなかった。彼は一瞬きょとんとした顔をした。忘れるわけないだろう? 私は気まずくなって、ああ、まあ、と誤魔化す。わかってる、わかってはいるんだけど。

 表情をすっぱりと入れ替えて、私は少女のようにクラゲエリアへ走り出す。

「みて、かわいい。ふにゃふにゃしてる」

「なんだ、シンパシーか。似てるぞ」

 臆面もなく、にやりとした笑みを含ませてしゃべる彼に、私はずきっとする。とっさに照れ隠しを装った。

「似てません」

「ほっぺの感じとか」

「似ーてーなーい!」

 ふと思い出したことがある。水槽のクラゲの日常はすべて飼育係のセンスにかかっているということ。なかの水流が適切に回らないと、クラゲたちは水底にぐちゃりと沈んでしまったり、あっけなく衰弱してしまったりする。彼らの日常は脆弱で、繊細で、他人任せだ。ずるい、と私は思った。ずるい、ずるい。私は思いきって彼に腕を絡ませた。だれも、こちらを見てなんていなかった。彼はますます上機嫌になって、ひそやかに頬へキスをする。ミズクラゲたちは知らん顔でふわふわ泳ぎつづける。

 さらに翌日、日曜日。朝寝坊をして、いっしょにゲームをして、ごはんを作って、絵しりとりをして、髪を撫でて。たったひとりの他人と一日をつぶすことは、とても簡単なことだった。恋人をつくらなかった頃にはまるで理解できなかったけれど、これは、癖になる。身も心も中毒してしまう。お茶をこぼすだけで大丈夫か? と会話がはじまるし、べつに話す気などなかったはずの職場の愚痴やら模様替えの計画案が、ぽんぽん口から出ていく。時折、触れたいと思うし、触れられたいとも思う。あまりに些細なことが、日常を織り上げる材料になる。くだらないと思っていたことが、心を深く酔いしめる。わずかな時間の、ひみつの快感。

 彼は、夜ご飯を食べると、この部屋を出ていった。名残惜しげに舌を絡めて手を握って、最後には、じゃあまた、とあっさり言い放ち帰っていった。ドアを閉めてリビングに戻ると、つけっぱなしにしていたテレビの音がはっきりと耳につく。急に、一昨日の不安が堰をきって押し寄せてくる。幸福なのに、怖い。ちゃんと、明日も踏み外さずに生きていけるかどうか。なにから踏み外すのか、自分でもわからない。でも、確実にこの足もとにおそろしい境界が存在している。

 予想をたてていたおかげで、不安はやがて引き潮になっていった。彼のいなくなったあとに、よく陥る感情なのは充分に知っていた。深呼吸して、容器に残っていたクッキーをひとつかじる。もうひとつ。また、ひとつ。テレビのチャンネルを変えるとアナウンサーが、今日は七夕です、と告げた。それで、ようやく思い出した。今日はこどもの頃によく願いをかけていた日だ、と。せっかくだから、なにか願おうと考える。が、うまく思いつかない。

 今あるこの不安を、どうか消してください。しかし、そう考えると彼がいるから全ていけないのでは? という気がしてくる。彼がこの世のどこかに存在するから、彼なしで明日うまくやっていけるか気になる。日常を歩いていけるか、不安になる。突然に彼が舞いこませる色々な刺激が、先行きを不透明にしている。あぁ、いや……。そんな単純な話ではない。おそらく彼がいても、いなくても、私はいつだって見たこともない足もとの境界におびえている。では、べつに彼を求めたところでなにも変わりはしない……?

 私は、ちらりと部屋のカーテンをめくった。空は梅雨らしい重たげな曇りで、星明かりなどひとつも見えない。こんな夜でも一年に一度きりだからと、彦星は織姫に、織姫は彦星に会いに行くのだろうか。そう思うと、ふたつの星がうらやましくなってきた。彼らは、出会うということばかり考えて生きていればいいのだ。贅沢な、遠い世界のおとぎ話。ポケットのなかが、振動した。彼からメッセージが届いていた。

『金曜着てたシャツそっちに忘れたから、来週回収する。ごめん』

 くすっと笑いがこぼれた。

「もう、これだから確認しなよって言ったのに」

 文字をうちこみながら、もう一度空を見上げる。願い事を考え直そう。どうか、日付が変わるまでに思いつきますように。クッキーの空箱を片して、洗濯したあと部屋干し用の竿に引っ掛けたままになっていたワイシャツに触れた。はずかしさを押し殺して匂いをかぐ。柔軟剤のあまい香りと、かすかな別人の気配が混ざっている。一瞬だけ、意識が彼を探ろうとする感覚にうずもれる。彼の残滓にありとあらゆる私を持っていかれる。どうしようもない衝動。こんなもの、おいていくのが悪いんだ。私はひとりごちた。物欲しいとばかりにきゅんと鼓動が高鳴った。

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