この青春に、オカルトを添えて

池田 九

第0章 迫りくるオカルトの足音

迫りくるオカルトの足音①




 これほどの恐怖を味わうのはいつ以来か。


 鼓動が早くなりすぎて、胸に痛みを感じる。

 それと同時に背中をぐっしょりと濡らす冷や汗が噴き出していた。


 しばらく俺は玄関先で立ち尽くしていた。その時には時間の概念など頭から抜け落ちていたが、思い返してみれば、おそらく数分ほどだ。


 男子学生の一人暮らし。築年数二十年そこそこの二階建てアパート。二階の角部屋。ユニットバス付のワンルーム。

 お世辞にも綺麗とは呼べない部屋ではあったが、それでも自分なりに整理整頓してきたつもりだった。

 それが今、明らかに朝と変わっている。いや、変えられている。

 つまり、あさられた形跡がある。

 散乱した衣類を見て、そう結論付けるほかなかった。

 まさか自分が窃盗の被害にあうなんて思いもしなかった。

 突然巻き起こった異常事態に頭も身体も完全に麻痺しているようだ。


 そういえば、恐怖というと、いつもあの時を思い出す。


 それは自分が中学生二年生だったころのある夏の日。

 大学入学と同時に上京してくるまでは、俺は地方の片田舎に住んでいた。バスも電車もない村で、片道三十分の通学路を毎日汗かきながらペダルを漕いでいたのだ。

 その日も退屈な授業と部活動を終え、まだ沈む気配のない太陽を横目にあぜ道を直走ひたはしっていた。そうだった。その日は新作のテレビゲームを買った直後だった気がする。

 一刻も早く家に帰りたい。その想いは足に、ペダルに伝わり、勢いよく風を切る。


 ところが、あと半分といったところで、空模様が怪しくなってきた。遠くに見えていたはずの入道雲はみるみると近づき、間もなく山向こうで遠雷が響いた。

 もしや引き返した方が、そう思う頃には時すでに遅く、見渡す限り緑の田んぼのど真ん中で俺は激しい夕立に襲われた。

 民家はおろか雨宿りする場所すら見当たらない。俺は全身ずぶ濡れになりながらも一心不乱に自転車を漕いだ。


――ドォォン、ドォォン


 立て続けに空が光る。光と音の間隔がだんだんと近くなっているような気がした。

 雷は高いところに落ちると聞いたことがある。そして、今この周辺で一番高いところは間違いなく自分だぞ。その時の俺は、そんな不安に心を鷲づかみにされていたのだった。


 早く帰る。とにかく早く。はやる心に体がついていかなかったのか、俺はペダルから足を踏み外し、ぬかるんだ砂利道に盛大にダイブした。

 その後、自転車も鞄もその場に放りっぱなしで全力疾走で家に戻った。命の危険を感じているものは、なりふりなど構っていられないのだと痛感する。

 もしあの時の映像が残っていたなら、一流の俳優ですら敵わない迫真の表情が撮れていたに違いない。今思えばあまりに滑稽だが、あの時の俺は本気で生きるか死ぬかの正念場だと思っていたのだから。


 結局、家に着くころには夕立はすっかり止んでいて、残ったのはすり傷だらけの手足に、ぼろぼろでびしょ濡れの制服。そして、恐怖と興奮と激しい運動による早鐘のような心臓の音だった。


 そうか。あの時のはち切れそうな胸の痛みに似ている。

 それほど今回の出来事は切迫したものであるということだろう。


「……いや、待てよ」


 昔話で現実逃避している間に、俺は徐々に冷静な思考を取り戻しつつあった。そも、犯人は何を目当てにこの部屋に侵入したというのだ。金目当てか、はたまた下着泥棒か。

 どちらにせよ貧乏男子学生の部屋を狙う理由にはなりそうもない。

 まったく下調べもせずに空き巣に入るという可能性も低いだろうし。


 ならば、私怨だろうか。

 上京約一年で部屋を特定され、侵入され、荒らされるほどの怨みを買うようなことはあっただろうか。いや、こちらも思い当たる節はない。


 このままいくら自問自答をしても、問題解決にはつながりそうもないため、ついに部屋の実情を確かめに行く覚悟をする。

 その頃には恐怖による金縛りもなくなっていた。







「……どういうことだよ、これは」


 部屋をくまなく見分し終えた俺は、ため息交じりに嘆いてフローリングに座り込んだ。

 順を追って説明すると、


 はじめに、銀行の通帳や様々な契約書類をまとめて放り込んだ机の引き出しを確かめた。意外なことに、そこはまるで無事だった。開けられた様子もなければ、自分が覚えている限りのものがすべて揃っていた。

 つぎに、窓だ。入口に鍵がかかっていたことは覚えている。つまりは侵入するならばここからしかない。俺が閉め忘れた可能性も含め、チェックしておくことは重要だ。

 ところが、窓は閉まっていて、さらにはガラスが破られた形跡もない。では一体全体どうやって泥棒は入ってきたのだろうか。その点は謎のままだった。

 そのほか、本棚、ユニットバス、トイレ、家電類もすべて無事だった。


 つまるところ、盗まれたものがあったかどうかについてだが、……実は、これまでの話の流れからは一転して、確かになくなっていたものがあった。


 それはいくつかの衣類や下着と、恐らくそれらを入れるために使ったスポーツバッグだ。


 なぜだ。どうして有名人でも大富豪でもない俺のよれよれのシャツやボトムス、パンツを盗むのだ。そんな奇人変人がこの世にいることがにわかには信じがたい。


「……どういうことだよ、これは」


 事態を把握できない俺は同じ言葉を繰り返した。

 警察に駆け込むべきだろうか。その時は、何と説明したらよいものか。

 空き巣に俺の洋服が何着か盗まれてしまったんです、と。ただ洋服だけ、と。

 いや、それではむしろ俺がおかしな奴として警察に目を付けられかねない。


 ああ、そうか。やっぱり警察はなしだ。落ち着いて考えてみれば、この事件が実際に警察で捜査してもらえることになったとして、だ。

 ぎりぎり未成年である俺の場合、確実に両親にもその連絡がいくだろう。

 すると、どうだ。……きっと、こうだ。


「ほら都会は危ないのよ、やっぱりまだ一人暮らしなんて早かったんじゃない?」


 最後まで一人暮らしに反対していた母は、ここぞとばかりに実家に帰ってくることを強要するに違いない。母の尻に敷かれっぱなしのあの父では頼りにならないし、俺だってもう一度母を説得できる自信はない。


 嫌だ。あのド田舎に舞い戻るなど、考えたくもない。スーパーもコンビニも隣町にしかないとか、どんな罰ゲームなのだ。


 そう、だから俺は前向きに、至ってポジティブに泣き寝入りすると決意したのだった。

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