幻の犬

egochann

第1話


朝の5時に公園を歩いているのは、たいてい散歩している老人か、出勤前にランニングをしているサラリーマンくらいで、その日の朝も、大田区にある洗足池公園にも数人の老人がサクサクと散歩ではなく「ウォーキング」をする姿があった。

横山勝次も定年後から身に着いた習慣である午前4時には目が覚めて、すぐに家を出て、10分くらいで公園に着き、まだ薄暗い池の水を垣間見るだけで何も考えずにひたすら歩き回っていた。

ただ、その日はカラスが数匹上空を舞い、それが気になって、いつもよりは前をまっすぐに向いて歩いていたのだが、目の前のベンチの横に黒いものがあるのをすぐに気が付いた。

「誰か大きな荷物を捨てたのか」とういうのが最初の思いだったのだが、近づくにつれ、それが人間だったのが分かると、やはり最初は酔っ払いが寝ているおだろうかといぶかった。

そのまま通りすぎようかとも思ったのだが、まさかと思って、よく見てみると、仰向けに横たわっている男の顔には血が飛びついているのが見えたので、腰が抜けそうになった。

持病で心臓病があるので、散歩のときには携帯電話を持つようになったのが最近のことだったのだが、それは幸いだった。

この異常時をまわりに誰もいない状況で、近くの家まで駆けこむ必要が無く、その場で警察に連絡できたからだった。



洗足池公園で見つかった死体は、所轄の北千束署から鑑識が到着して、綿密な鑑識活動に入っていた。

所轄からは、刑事課の刑事が総動員されたほかは、警視庁の機動捜査隊が参加して、聞き込みなどをしていた。

鑑識によると、死因は頸部圧迫による窒息死で、死後5時間以内だということが分かった。

いわゆる絞殺による殺人事件だ。

ただ、死体が発見されたところは池の岸よりのベンチの横であり、柵のある池の岸辺であったところから、犯行は違う場所で行われた可能性が高いということだった。

「どっかで殺して運んできたか」

捜査一課の岡本は眉間にしわを寄せていた。

「犯行現場の特定ですね」

相棒の千木良巡査長は答えた。

被害者の名前は、所持していた運転免許証から判明した。

奥村翔平52歳。

名刺の肩書きには「伝統日本犬保存協会副会長」とあった。

「岡本君たちは、この協会に行ってみてくれ」

捜査一課長の石井が岡本に言い渡した。

「その会はどこにあるんだ」

鑑識係りの金子は袋のなかにある免許証を見ながら「台東区浅草5丁目です」

「よし行くか」

公園の入り口にあった車に岡本と千木良は乗り込み、浅草に向かった。


浅草は、午前9時過ぎだというのに、観光バスが何台も連なり、そのなかから大量の外国人観光客が吐き出されていた。

伝統日本犬保存協会の事務局が入っているビルは、大通りから一本入った片側1車線の道路に面した雑居ビルの三階にあった。

近くのコインパーキングに車を停めてビルの三階まで徒歩で上がった。

茶色いドアの真ん中に「伝統日本犬保存協会」というネームプレートが貼ってあった。

岡本は犬にはまったく興味がなかったので、伝統日本犬保存協会という組織がどういうものかさっぱり分からなかった。

千木良も同じだった。

「日本犬というのは秋田県とか柴犬とかでしょうか」

「秋田犬は最近オリンピックで金メダルを取ったロシアの女の子にプレゼントするなんてことをニュースで見たくらいで、実物は見たことないからな」

そんな会話を向かう途中でしたくらいだった。

ドアをノックするとなかから女性の声が聞こえてきた。

ドアを開けると、衝立があり、その向こうにデスクが4つあり、その奥にソファがあった。ひとりの女性が立って、岡本たちを迎えた。

「北千束署の岡本と申します」

岡本がそう挨拶すると、女性は表情を固くした。

30歳から40歳くらいの年齢だろうが、顔には艶がなく、後ろでひっつめた髪にも光沢がなく、老けた印象の女性だった。

「こちらの奥村さんは副会長さんでしょうか」

「はい、そうですが」

女性の顔に恐怖の表情は表れた。

「じつは、申し上げにくいのですが、今朝死体で発見されました」

女性の顔からどんどん血の気が失われていく。

「奥村さんについてお伺いしたいのですが」

女性は立っていられないようで、椅子に座ってしまった。

「あのー、会長の古田がもうすぐ来ますので、古田から聞いていただけますか」

声が完全に震えている。

「すいません、いきなりショックだったですね。さらに言い難いのですが、これは殺人事件なのです」

女性は口を手で押さえた。驚愕の声を押さえているようだった。

「お話できますか」

女性は必死になって冷静さを取り戻そうとしていた。

「どうぞそちらに」

促されて、岡本と千木良はソファに腰をかけた。




2に続く。




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