Dice&Dice

kattern

第1話 三十四歳になりまして

 名古屋栄は大須。


 人がひしめく赤門通り。

 東海近縁のオタクたちの聖地であるここも、不況の波にさらされて今ではすっかりとカジュアルな街並みに染まっている。アニメ専門店も、同人誌販売所もすっかりと肩身が狭くなり、昔はそこかしこにあった美少女ゲームショップも姿はない。


 高等専門学校生時代。悪友と連れ立って、専門書を買いに行くと親に言って栄にやって来たのを僕は覚えている。


 忘れもしない。

 赤門通りは某東海一のパソコンショップのビルの前。

 うらびれた貸しビルの三階に入っていたゲームショップ。

 そこで、その年のコミックマーケットで発売されたはいいものの即完売、品薄となり中古市場でもプレミアのついていた型月の『歌月十夜』を僕は見つけた。


 ファーストフード店でバイトして溜めたなけなしの金。

 勉強もかねて自作PCを作ろうとして溜めておいたそれを崩して、僕はそのファンディスクを無理して買った。


 今思うと青臭い。

 けれども、きっとお金に替えることはできない体験のように思う。


 そんな風にどうしても何かを手に入れたいと思う情熱と行動は、歳を重ねるごとに薄くなっていく。

 自分が身を置いた環境のどうしようもない流れの中について行くのが精一杯で、とてもじゃないけれど、何かを追い求めることなんてできなくなるのだ。いや、それでも追い求める者たちもいるけれど、どこかバランス感覚の欠如している僕には、今を生きるのに精いっぱいで、そういうことを顧みること忘れてしまっていた。


「大須で変わってないのは三洋堂書店くらいかな」


 パソコン関連の専門書籍の取り揃えについては定評のある赤門入り口前の書店。

 そこの一階に入っていろいろと物色する。


 手に取ったのはアジャイル開発についての本。

 昔なら、開発手法やチームマネジメントより、言語関連の書籍を取っていただろうに、年月というのは残酷に人間を変える。


 森野勇作。

 三十四歳。

 名古屋は刈谷にある自動車メーカー系列子会社に勤務するシステムエンジニア。

 それこそ東海地方で働いている高専OBとしてはそれほど珍しくない男だ。


 ただまぁ、社会人としては少し珍しい。


「三十歳を超えたら、こういう世界から足を抜けれると思っていたんだけれどもな」


 休日、土曜日の昼過ぎ。

 暇していないアラサー男性なんてなかなかいない。


 だいたい妻や子供の相手といった家族サービスに時間を割いていることだろう。趣味に没頭する時間なんてなければ、自己研鑽に回す時間だってかつかつ。

 そこに加えて仕事でも、そろそろ複数の部下を持って、大きな仕事を任される。


 生きるのがちょっと難しくなってくる年齢。

 生きるために必要だったエネルギー。それを安定して出力するために、ギアを一段上げなくちゃいけない年齢。


 けれども少しだけ、本当に少しだけ。

 まるでこれまで生き急いで来たご褒美とばかりに、僕には余裕があったのだ。


 休日に相手をしなくちゃいけない人がいない。

 独身――おひとりさまなのである。


 なんだか嫌そうに独白したけれど、別に好んで一人でいる訳じゃない。仕事に忠誠を誓うために、家族を切り捨てた訳でもない。女性に興味がないという訳ではないし、できることなら子供も欲しい。多くは求めないけれど、人並みくらいには幸せな夫婦生活を築き上げたいとは思っている。


 思っているけれど、ずっと仕事にかまけ続けてはや十年。

 このザマである。


 僕の部屋には参考書と仕事の書類、そして、二十年来の付き合いである型月作品の書籍やグッズ、フィギュアしかないのだった。そこに、三十代男性が生活を共にする、家族の姿は少しもない。彼女の姿だってありはしない。


 はぁとため息を吐き出して、僕は手の中のアジャイル開発の参考書を棚に戻す。

 会社で配布されているリーダー向けの内部資料の方がはるかに質がよかった。


 はずれだ。

 そして、僕の人生もはずれだ。


 どうしてこんなことになってしまったのか。

 過程については多くを言うまい。だって、そんなことにリソースを割く余裕がなかったのだから。日々を生きるのに精いっぱいだったのだから。


 けれどもチャンスの女神の前髪くらい、どこかで見かけてもよかったのに。

 なんで女っ気のひとつも僕の人生にはなかったのだろうか。


「三十を越えて独身だと世間的な目は厳しいよね」


「……分かります。それに加えて親からもプレッシャーをかけられますし」


「友達からもね。あれ、お前、まだ独身なのって言われるし。昔は一緒にバカやった仲間も、今は家庭が第一で付き合いが悪いし」


「結婚パーティのお誘いが来るたびにひぇってなっちゃう自分がいるんですよね。金銭的な余裕はあるんです。けれど、精神的な余裕がないんです」


「ほんとそれ。既婚者と独身者で最初の頃は席を分けてもらっていたんだけれどさ、気が付いたらなんかもうそういうのもなくなっちゃって。いや、いいんだけれどもさ。そりゃ独身者少なくなるから道理なんだけれどさ。それはそれでいたたまれないというか、悲しいというか」


「ブーケトスの時に最前列に毎回押し出されるの勘弁してほしいですよ。辱めかって。けど、出ない訳には行かないんですよね。はぁ、貧乏くじ。やむ」


 うんうん、と、僕はいちいちもっともらしく頷く。

 そして気が付いた。


 あれ、僕、誰と会話しているんだと。

 書架に伸ばした腕の下、ほんのりとブラウニーな色を帯びたアッシュボブの髪が揺れていた。ガーリー系女子というにはちょっと僕たちと同じギークの匂いを感じさせる彼女は、手にWEBデザインの参考書類を持っている。


 僕との会話をまるで聞いていない感じに、ぱらりぱらりとそれを見る女性。


 ムック系の技術雑誌である。

 情報としては先端を行っているが、トレンドを追うばかりで中身は薄そうだ。使えそうなページで何度か目の色を変えながらも、彼女は最終的にそれをたたむと、お前に払う金はないという感じで棚に戻した。


 ……うん。


「誰?」


「誰ってひどいですよ脳内彼氏さん。休日の貴重な技術書ショッピングデートなのに、なんでそういう――ていうか、声がなんか違いますね。今日は諏訪部じゃなくて櫻井ボイスに設定したのに」


 声優については分からない。

 残念ながら僕の中で、それの知識はほぼ十年前で止まっている。

 けれどもつたないそれに無理やり分類するならば――。


「なんだろ。くたびれたおっさんに足を突っ込みかけてる美青年声。力ちゃんみたいな声になっちゃってるなぁ」


「……まぁ、意識しいるかと言えば、意識しているからね」


「いいですよね小山力也!! 特に、衛宮切嗣はハマり役ですよ!! 僕はね、正義の味方になりたかったんだ――くぅ、十年前の作品なのに今でも痺れるぅ!!」


 ハクオロさんもいいと思うんだけれどね。

 けど、やっぱり彼は切嗣かな。

 本編回想でのちょっとした登場でも十分格好良かったけれど、あの作品で一つ声優として皮がむけたよね。


 よくわかっているじゃないかと、ブラウニーギークガールを見る。

 ノンフレームの眼鏡をかけて、うっすらと化粧をした彼女はふとこちらを見上げる。スリムタイプのジーンズに横ストライプの長袖シャツ。春らしい色合いからはちょっと遠い、ジャケットを着た彼女は、小動物的な小ぶりな顔に反したコーデをしている。


 そのちぐはぐさというか自由奔放さに、同じ側――制服の自由を知的労働により勝ち取った者――の匂いを感じる。


 もしかしなくても同業者かな。

 毛色は違うかもしれないけれど。

 それならば、まぁ、独り言もちょっときつい思考回路も納得だ。


 なんてことを思って、黙り込んだ僕を前にして彼女は――。


「……え? えっ? 脳内彼氏が受肉した!?」


 きっとそんなことはないと分かっているけれど、誤魔化すように叫ぶのだった。


「……すまない。ただのアラサー男性で、本当にすまない」


「……で、ですよねー!!」


 耳の先まで真っ赤。

 一瞬にして赤面した彼女はそのまま、脱兎のごとく俺の前から駆け出した。


 名古屋栄は大須の赤門前。

 正午過ぎの出来事である。

 これが女神の前髪だったと僕が気が付くのはそれからかれこれ一時間後。


 かつて僕が、運命――「歌月十夜」と出会ったビル。

 奇しくも同じ階にあったゲームショップに変わり新しく入った、アナログなゲームを取り扱うお店に入ってのことだった。

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