// 1 Arts《アーツ》

ーーー2054年 4月7日  東京都港区台場 産業実験都市「アトリエ」ーーー





……――――む。

……――――スム。


「ススムってばぁッ!」


 耳元でぎゅむっという嫌な音が聞こえた、と認識すると同時に、心地よい微睡まどろみから緊急覚醒した僕の痛覚が強烈な危険信号を脳に送り込んできて、教室の机に突っ伏していた上体を強制的に仰け反らせた。


「うわわっ!」


 僕の間抜けた悲鳴に続いて、がたんっごすっばさばさべちょ、という騒々しい音が発せられる。

 音の内訳は順に、僕が飛び起きた勢いで座っていた椅子がひっくり返り、そのままバランスを崩した僕も仰向けにすっ転んで後頭部を強打、たまたま近くにいた美術部のクラスメイトがそれに驚いて、持っていた画用紙の束と参考書を僕の顔の上に雪崩のごとく落下させ、トドメとばかりに参考書の上に乗っていた絵の具やポスカラが僕の顔面へと絨毯爆撃されるという、様式美すら感じるフルコンボである。


 床にぶつけた後頭部の痛みにしばし悶絶してから、顔に覆いかぶさった画用紙を振り払いつつ上体を起こす。つい数秒前まで休ませていた眼がまだ起動していないのか、それとも先刻の耳たぶを引きちぎられそうな痛みとその後の後頭部強打の後遺症なのか、視界が白くぼやけて火花が弾けている気がする。


「ちょっとー……何やってるのよもう!」


 寝起きプラス突発的耳ちぎりテロの衝撃で放心状態の僕の頭上から、鈴の音を鳴らしたような繊細な声がちょっと怒ったような色を含んで降ってくる。

 ぼんやりと声のする方へ向くと、やはり視界がぼやけているせいで輪郭がはっきりしないが、セミロングの黒髪を発色のいい水色のピンで留めた女の子がこちらに左手を伸ばしているのが分かった。その手には、オレンジと黒のフレームで組まれた眼鏡。


 痛む後頭部をさすりながら右手で眼鏡を受け取り掛けると、薄ぼんやりしていた視界が一気に鮮明さを取り戻して、僕が今置かれている状況もようやく明確になった。

 教室の隅で、画用紙と色とりどりのポスカラに塗れながら呆ける僕――――新堂しんどうすすむ、15歳。その様子を唖然とした表情で見つめる、下校しようとしていたと思しきクラスメイト達。そして、床に座り込む僕の横で艶のある黒髪を小刻みに揺らし、口元を抑えつつからかうような視線を送ってくる少女。


 彼女の名前は御篝みかがり由有梨ゆうり。10年来の幼馴染で、最近一部界隈で人気になりつつあるハイファンタジー系デザイナー《Eu-lyユーリィ》その人だ。


「だ……だいじょ……ブ……?くくッ……!」


 ユーリは震える声で僕の安否を気にする言葉をかけてくれるが、その震えが心配や不安から来ているモノではない事くらい、寝起きかつ脳震盪のうしんとう未遂の僕にでさえ手に取るように分かった。


「ごめッ……もう無理……!!アハハハハハハハハハハ!!」


 見上げた僕と目が合った瞬間、ユーリの表情筋がついに限界にきたらしく、ダムが決壊したように盛大にお噴き出しあそばされる。

 それが引き金になったのか、ぽかんと様子を眺めていたクラスメイト達もつられて一斉に笑い始めた。


 爆発のような騒々しさの中でたった一人取り残される僕へ、お腹を押さえながらひーひー笑いを堪えるユーリがシンプルな四角い手鏡を差し出してくる。訝しみながらそれを受け取り、嫌な予感とともに恐る恐るのぞき込むと、案の定、前衛アートじみた極彩色ピエロとでも表現すべき惨状の顔が、憂鬱そうな表情でこちらを見返していた。



 5分後、ようやくクラスメイト達が笑い疲れてゾロゾロと教室を出ていくと、ユーリは空いていた隣の席に腰かけて、未だむずがゆそうに桜色の唇をぷるぷると震わせながら薄青い色のハンカチを差し出してきた。


「汚しちゃうけど……いいの?」


「別に気にしないよ、また買うし」


 僕はシンプルな無地のハンカチをカラフルでアーティスティックな柄にしてしまう申し訳なさと、元はと言えば前日の徹夜の反動で気持ちよく寝入っていた所をユーリが無理やり起こしたのが原因なのでおあいこだ、というぼやきが入り混じった微妙な表情でハンカチを受け取り、彩り豊かな顔をぐしぐしと拭った。


「まったく……春休み明けだからって、放課後まで居眠りとか生活乱れすぎ!どうせまたArtsアーツのディテール描き込んで徹夜したんでしょ?いつかの時みたいに、また過労で入院する気?」


 まるで姉がだらしない弟に説教するような口調で言いながら、ユーリはやれやれとばかりに肩をすくめる。

 僕はポスカラで派手に染色されたハンカチをユーリに返しながら、ごまかすように眼鏡の位置を直し答える。


「いや……まぁ入院はもう勘弁だけどさ……今夜の出張大会、エントリーの締め切りが今朝までだったんだ。今度こそまともなArtsアーツを仕上げて、一戦でいいからちゃんと勝ちたくて……」


「気持ちはわかるけどさ……無理したって本番で頭疲れてたら、Artsアーツとのシンクロだってうまくいかないよ?」


 切実な僕の訴えに、ユーリは今度こそ心配そうな視線と言葉で返してくる。


 ――――でも、僕は、それでも。


「気にかけてくれてありがとうユーリ。けど、僕は大丈夫だよ。それに、今度のArtsアーツはいけそうなんだ」


 その言葉はユーリに向けたもののようで、あるいは自分に言い聞かせているみたいだった。

 それを悟られないよう作り笑いを浮かべながら、僕は自信満々とばかりに左腕に装着したシャープなデザインの端末からスタイラスペンを引き抜き、指先でクルクルと回して見せた。


「まったく……相変わらず思い立ったら聞かないんだから……。そんな旧型の《Ninephニンフ》使ってるから、ススムのArtsアーツ人工知能AIの性能が低いんじゃないのかしら?」


 ふふん、と意地悪く笑うユーリにささやかな反抗の視線を返しながら、僕はペンを左腕の端末のホルダー部分に差し直した。


「旧型ったって、まだ最新のが出て二ヶ月弱じゃないか……。新しい道具使えばいいってモンじゃないと思うよ。弘法筆を選ばずって言うしさ」


 と、言いつつも、僕はやや傷やフレーム部分のすり減りが目立ち始めた左腕の端末――――《Ninephニンフ》へと視線を動かした。


 女性の横顔のシルエットロゴが刻印された腕時計大の端末にスタイラスペン、そして耳に掛けるタイプのスマートな形のヘッドセットがワンセットになった、次世代型ドローイングデバイス《Ninephニンフ》。


 創作が全てとも言えるこの街ーーーーアトリエに生きる僕たちクリエイターにとって、Ninephニンフはもはや生活と切り離すことのできないツールだ。

 一度Ninephニンフの性能を体験してしまえば、2010年代まで主流だったペンタブレットと平面のモニター装置という組み合わせには、二度と戻ることなどできないほどに。


 Ninephニンフという名前は、Neural Interactive Emotional Painting Hardwareの頭文字を取った造語で、日本語に直すと『神経系相互作用型感情的描画機器』となる。

 ヘッドセットが使用者の視界にインターフェースを拡張現実AR複合現実MRで表示し、それらをスタイラスペンでタッチ&ドラッグする事によって各種操作を行う。


 2Dイラストや3Dモデリングはもちろん、スタイラスペンに内蔵された動体センサーによってモーションキャプチャすらも専門機器無しで可能というデタラメっぷり。

 オマケにwebブラウジング、ボイスチャット、SNSなどの携帯情報端末としての機能も兼ね備えている、まさにクリエイターにとっての夢のようなツール。



 しかしNinephニンフの本当に魔法じみた、そしてアトリエ中のクリエイターたちの心を掴んで離さない機能は、ARでもMRでもモーションキャプチャーでもない。むしろそれらは単なる描画機器としての機能であって、Ninephニンフの本質的な能力ではないのだ。


 感情的描画機器、と名付けられたこのハードの真の力。

 それは、『ユーザーの脳の活動を読み取り、ユーザーの理想・嗜好が反映された簡易人工知能を生み出す』こと。


 ヘッドセットに内蔵された医療用の高感度生体スキャナがユーザーの大脳辺縁系、つまり情動や快感を司る脳の一部の活動を読み取り、その情報をリソースにして簡単な人工知能を組み上げるのだ。

 そうは言っても、複雑怪奇な人工知能をNineph単体スタンドアロンで一から組み上げるような機能はさすがに搭載されていない。別売りされている、人工知能の基礎構造が記憶されたチップ《AIアーキタイプ・チップ》をNinephニンフ本体のスロットに挿入することで、初めてそれが可能となる。


 Ninephニンフのことを初めて説明された人間は、僕も含めてだけど、必ずここで一つの疑問に達する。

「なぜイラストやモデリングを行う機器であるドローイングデバイスに、人工知能を構築するなどという突飛な機能が備わっているのか」、と。


 その答えはすごくシンプルで、とても子供っぽく、そしてクリエイターたちの最大の夢を叶えるものだ。


 すなわち――――自分の描いたキャラクターに命が宿る・・・・・・・・・・・・・・・・・、ということ。


 Ninephニンフによって生み出される人工知能AIは、ユーザーが絵を描いたり3Dモデルを組むといった創作活動を行った時、脳が感じた情動・快感……つまり【作品に込めた想い】をNinephニンフを経由してユーザーの生体脳と相互通信し、繰り返し学習することで一つの知性として生まれてくる。

 組み上がったAIはその時創作していた作品のデジタルデータと即座に結びつき、創作物という枠組みを超えて一つの『存在』へと生まれ変わる。


 それが、人工知能搭載型汎用3Dモデル《Artsアーツ》だ。


 ユーザーの脳構造と嗜好をもとに生まれたArtsアーツは、Ninephニンフのヘッドセットを経由して常にユーザーの脳と相互通信し、あらゆる事を学習して知性を伸ばしていく。

 そのポテンシャルは元となったユーザーの脳のスペックとArtsアーツに込められた想いの強さによって決められるため、創造者であるユーザーよりも賢くなることはごく稀だが、過去には高度な知性を獲得して言語による会話すら可能になったケースもあるらしい。


 自分の想像したキャラクターに知性が宿り、会話やコミュニケーションを楽しむという人類の大きな夢の一つを、NinephニンフArtsアーツは見事に実現するに至ったのだ。


 人間の脳構造を模倣して計算やシミュレーションに応用する数学モデルのことをニューラルネットワークと言うが、NinephニンフそしてArtsアーツの基礎理論も、1980年代からあるこの発想を基にしていると、開発元のヴァーヴス・エンライト社のCEOが雑誌のインタビューで答えていた。


 自分の描いた絵やキャラが、自ら考え、動き、コミュニケーションをとる事ができる――――。

 そんな空想じみたことを現実にしてしまう魔法のようなデバイスが、クリエイターとエンターテインメントの楽園である実験都市、このアトリエで放っておかれるはずもなく、次世代型ドローイングデバイス《Ninephニンフ》と人工知能搭載型3Dモデル《Artsアーツ》は瞬く間にアトリエ中に一大ムーブメントを巻き起こした。


 今やアトリエ市民一人に一台……なんて大げさかもしれないが、少なくともデジタルクリエイティブ分野に携わる人間には必需品と呼ばれるまでに、NinephニンフArtsアーツは僕らの生活に浸透している。


 かくいう僕も、4年前に発売された初期型のNinephニンフをなけなしの貯金をはたいて手に入れた一昨年から今日まで、スタイラスペンを握らない日はなかったほどにドップリとのめり込んでしまっている。

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