十九章 闇に潜むもの

 その時、細い雨粒が頬を濡らした。顎にまで垂れた滴も拭わず、猟師の男は見上げる。青と灰が斑をなした空から、ガラスのように透明な光る滴が落ちてくる。


「欠片だ……」


 猟師の目には、そう映った。

〈ガラスの靴〉の欠片だと。

 とっさに懐へ手を突っこみ、箱の感触を確かめた。


 ある、ここにある。


 取り出してみても傷一つない。今回も守り切ることができたのだと、猟師はこみ上げる安堵を噛みしめる。


 だが、追手が絶えたわけではあるまい。

 猟師は忙しなく辺りを見回し、追躡ついじょうの気配に耳をそばだてた。葉の落ちた木々の隙間を、茂みをかき分けながら縫うように進む。


「いってぇな、チクショウが」


 低木から張りだした枝の下をくぐると、脇腹が疼いた。手で押さえると、薄ら血の色が付着する。そう深い傷ではない。賊に襲われた際の傷に比べれば、かすり傷のようなものだ。夜を明かす頃には癒えるはず。


「……ヴァン」


 だから傷の如何よりも、傷をつけた相手のほうに気が向いた。

 いつの間にか足は止まっていた。幹に寄りかかり、茫然と足許を見下ろしていた。


「なんでオレは、あいつと旅をしてたんだっけか……」


 自分の足が人のそれであることが奇妙だった。


 魔獣の力を宿した身体が、なぜ人に戻るのか?

 否、人になるのか?

 自分は何者なのか?


 土に雨が滲みれば、ぽつぽつと記憶まで滲んでいくようだ。

 なにか大切なことを忘れているような気がする。


『――今度は、あなたの忘れ物を、ボクが届けたいんだ』


 今も確かなのは、あの言葉が、とても嬉しかったことだ。

 けれど、如何なる目的のために、彼女が協力を申し出てくれたのか。


 もう思い出すことはできない。


 ヴァンがどんな姿だったのかさえ、おぼろげだ。ひどく奇妙な恰好をしていたような気もするし、凡庸だった気もする。


「なんで思い出せねぇんだ……」


 猟師は頭を抱える。

 怖かった。自分が自分でない何かになっていくような気がして。

 あるいは、もうすでに成っているのか? 自分は人間なのか魔獣なのか? それとも、もっと別の何かなのか?

 何もかも判然としない。

 わからない恐怖さえ、次第に薄らいでいくような気がする。

 消えていくのは何だ?

 記憶ではないのか? 

 あるいは記憶と同時に、べつの何かを失っているのか?


 ……欲しい。


 その時、頼りない自我を押しのけ、何かが胸の奥で叫んだ。


 もっと欲しい。


 己でありながら、己という形を持たぬものが。

〈ガラスの靴〉が欲しい。

 と喚きたてた。


「うるせぇ、うるっせぇよ……!」


 猟師は耳を塞ぎ蹲った。

 か細い己を手繰り寄せ、内なる声を拒絶した。

 すると、前方の茂みがガサガサと音をたてた。


「……あ」


 見れば、茂みともつれ合うようにして深緑のドレスが風に揺れていた。スリットから覗いた陶器のように白い脚が、艶めかしく歩み寄る。その肌を雨粒が流れ落ちた。


「まだお目覚めでないようね、?」


 名を呼ばれ、クレバン・ハガーは見上げた。

 そこに腕を組んだ女がいた。

 その顔は、婦人帽に下がったベールで隠されていた。風になびいたベールの下、かろうじて窺える口許は、鮮血のような紅に塗られていた。

 しかし威圧的な印象は微塵も感じられない。

 紅は緩やかな弧を描いている。愛猫を愛でる貴婦人のように。幼子をあやす母のように。いっそ蠱惑こわくとも取れるほどの慈愛に満ちている。

 クレバンは歓喜に笑みを湛えた。


「生きてたんだな、ジュスティーヌ!」

「ええ、あなたも。また逢えて嬉しいわ」


 蕩けるように囁き、ジュスティーヌが屈みこむ。クレバンの頬を撫で、優美に笑みを深めた。

 その時ぴたりと風がやんで、慈愛の相貌そうぼうはベールの闇に隠れた。


「ずっと、あなたの身を案じていた。落石にみまわれたときは、運命の残酷さに胸が張り裂けそうだったわ」

「落石……?」


 クレバンの記憶はおぼろげだった。

 ジュスティーヌと自分を隔てたのは野盗ではなかったか?

 だが、彼はすぐに思い直した。

 彼女はきっと二人の関係の転落を、落石に喩えているのだと。


「でも、あなたはここにいる。そしてワタシも。もう大丈夫よ。ワタシたち、ずっと傍にいられるわ。もう決して独りにはならない」


 悠然と立ちあがるジュスティーヌを、恍惚と見上げた。

 その眼前に陶器のような白い手が差し伸べられた。


「ほォら、一緒に行きましょう? 〈ガラスの靴〉の許へ」


 瞬間、恐怖は融けて消えた。

 自分が何者なのか、なんのために〈ガラスの靴〉を欲するのか。

 そんなことはどうでもよかった。

 ただジュスティーヌと共にいたかった。

 ただ欲しいという気持ちだけがあった。

 だから迷わなかった。


「ああ、行こう」


 クレバンは差し伸べられた手をとり立ちあがった。



――



 濁った意識のなかを、パチパチと貫く音がある。

 それを煩わしい、心地好い、と思う間もなく、綿のような疲れが睡魔を連れて意識をとざそうとする。


「……ん」


 それをかろうじて繋ぎとめたのは、ジュッと水気の弾ける音だった。胃の腑に熱がともり、それ以上の痛みが脳天にまで衝き抜けた。


「う、ぁ……」


 呻きをもらし、レイラは固く目を瞑った。

 すると、大丈夫かと女の声がした。

 腹を押さえ片目を開けると、見知らぬ女が覗きこんでいた。よく整った顔立ちをした、若い女だった。しかし左の顎下から右のこめかみにかけて斜めに刻まれた紫紺の裂傷が、せっかくの美貌を台無しにしていた。


「飲め」


 女はレイラの頭の下に手を入れ、口許に水筒を近付けた。

 レイラは抵抗なく飲み口をすすった。たちまち冷たい水が流れこんでくる。ごくごくと喉を鳴らしながら飲んだ。その度に腹が痛んだものの、灼けるような熱は鎮まっていくような気がした。


 もういいと手ぶりで制すると、女は水筒に栓をした。次いでこちらの身体を支えたまま、食欲はあるか訊ねてきた。

 これには頭を振った。

 腹は減っている。空腹で目が覚めたくらいだ。だが今は、食事を摂ることさえ、ひどく億劫に思えた。


「そうか」


 女は目を逸らすと、敷き詰めた葉の上にレイラを横たえた。

 焚火の前にすわり直し、そこに突きたてられた枝を手にとる。枝は川魚を貫いていた。頭から脂が滴り、皮がカリカリに焼けて、実に美味そうだった。


 女がそれにかぶりつくと、レイラは辺りを見回した。岩肌を剥きだした天井や壁が見て取れた。頭上からは緩やかに湿った風が吹きつけてくる。

 ここは――おそらく洞窟の中だ。

 レイラは女に視線をもどした。

 やはり、その顔に見覚えはなかった。

 だが女のほうには面識があるらしい。焼き魚を貪る横顔からは、どこか頑なに視線を合わせまいとする雰囲気が感じられた。


「……お前は」


 だから慇懃な仮面は捨てることにした。


「さっき助太刀に来た一人か?」


 女の眼差しがかすかに揺れ動いた。

 それが一瞥となる前に、なんとか堪えたようだ。口のものを呑みこむと、眼前の炎を見つめながら口をひらいた。


「助けたわけじゃないけど」

「そうか」

「ウェイグ、……もう一人の男は?」

「あんたをここに運んで、それっきり」

「……そうか」


 レイラは自嘲的に笑い、天井を見つめた。

 胸に手をやると、皮膚から伝わる熱が温かい。けれど、もっと深いところが凍えて、しゅんと縮こまったような気がする。

 それを悔やむ資格などない。あるはずがない。

 利用するために築いた関係だったのだから。


「……あんたは、金が欲しいの?」


 その時、女がぽつりと言った。頭上から迷いこんだ風にもかき消えてしまいそうな声音で。

 レイラは女を見やり、おもむろに瞬いた。


「いいや」

「〈ガラスの靴〉そのものが欲しいの?」

「いいや」

「じゃあ、何が欲しい?」

「何も」


 答える度に、女の顔は歪んでいった。眼差しに怒りが燃えていた。犬歯を剥きだし、唸り声を上げれば、突然、地面を殴りつけた。


「ふざけるな……」


 女は震えだした。その両目に涙が溜まっていった。


「どうして、どうしてそんな奴が〈ガラスの靴〉を奪うんだッ! 金なんかいらないくせに、何も欲しいものなんてないくせに……」


 俯けば、滴がひとつ地面に落ちた。

 レイラは、茫然とその様を眺めていた。


「そんなに綺麗な顔をしてるくせに……!」

「……ッ」


 しかし、その一言を耳にした瞬間、レイラの顔つきは変わった。

 索漠さくばくとした心に、突如荒々しい風が吹いた。それはたちまち渦を巻き唸りはじめた。


「好きでこんな顔になったわけじゃない」


 かろうじて絞りだした声を、女は耳ざとく聞いた。涙の伝う顔をあげ、片目だけをすがめた。


「恵まれたものを悔いるのか!」

「……お前にアタシの何がわかる」

「解らない、解りたくもない! ボクはこの顔になって多くを奪われた。家族を喪って、恋人に見限られて。人としての道を鎖されたんだ!」

「それはアタシの所為じゃない」

「解ってるさ。でもあんたは、人々の希望を奪ってる! その綺麗な顔さえ悔いるなんて、傲慢だッ!」

「黙れ……」

「なに?」

「黙れと言ったんだッ!」


 突如、大音声が洞窟の中を圧迫した。

 残響がざわざわと空気を鳴らした。

 その後には、喧しいほどの静寂がやってきた。

 レイラはそれを瞋恚しんいの意思でこじ開けた。


「これ以上、この顔のことを言ってみろ、その首刎ね飛ばすぞ」


 痛みを堪え、起き上がった。

 あるいは痛みによって起き上がった。

 痛いのは裂けた腹ではなかった。

 決して癒えることのない心だった。


「……」


 女は怒鳴り返されると思っていなかったのか、目を剥いたまま黙っていた。

 レイラは嘆息し、腹の疼きに顔をしかめた。後退り、壁にもたれかかった。


「お前、アタシの力を見ただろ?」

「え? あ、ああ」


 レイラの怒気が霧散すると、女はバツ悪そうにこちらを盗み見た。

 それを見返しながらレイラは、確かに暗い眼差しだと感じた。

呪痕カルマ〉もちがどんな迫害を受けるかは、レイラも知っている。〈ウズマキ〉と恐れられようとも人の世に融けこんできたのだし、彼女自身〈呪痕〉を負って生きてきた。


「魔獣に傷付けられた者は〈呪痕〉を負う。すでに傷付いた者が新たな〈呪痕〉を刻むことはないがな」


 レイラは包帯の巻かれた腹に手を載せる。滲みだした血の感触が生ぬるい。


「アタシの背中には〈呪痕〉がある。でも〈ウズマキ〉を名乗るより前に、魔獣に襲われたことはない」

「は?」


 何を言っているのか解らないというように、女は顔をしかめた。

 当然だ、とレイラは思った。


「……教えてやるよ。理不尽に恨まれたんじゃ堪らないからな。目に見えるものばかりがすべてじゃない。流布することばかりが真実でもない。この世に希望なんてないってこと」


 女は、人々の希望を奪っているとレイラを責めた。

 実際、レイラは多くの命を手にかけてきた。中には無辜むこの冒険者もいただろう。一人ひとりに、とうとい願いがあったかもしれない。


「アタシが〈ウズマキ〉になった理由も」


 それでも。

 進まずにはいられない道がある。

 それを邪魔されるわけにもいかない。


「……今から七年前。アタシはまだ十四歳だった」


 だからレイラは語らずにはおれなかった。


「そしてあの女……ジュスティーヌと出会ったんだ」


 かつて存在した無垢なる少女――の物語を。

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