十二章 旅人たち
谷道を抜けるまでに、日は暮れてしまった。
街へ到着する頃には、欠けた月からあえかな明かりが零れ落ちていた。当然、石組みの壁に挟まれた立派な門は、ぴったりと口を閉ざしている。
ラーナはハガーを壁に寄りかからせると、疲れをものともせず、門に拳を叩きつけた。
「誰か、誰かいない? いるなら開けて! 病人がいるんだ!」
必死の訴えも虚しく、叫びは闇に吸いこまれ消えていく。
「くそッ……!」
嘲笑うような葉擦れの音ばかりがうるさく、拳はじんと疼いて、徒労感に圧し潰されてしまいそうになる。
だが、諦めてなるものか。
疲れがなんだ。虚しさがなんだ。
ラーナは身も心もすり減らし、声を張りあげ続けた。
「……うるせぇぞ」
すると、ようやく声が返った。
痰の絡んだ汚い声だった。
「いる、いるんだな? そこにいるなら門を開けて!」
「だから、うるせぇって……」
声はペッと痰を吐きだした。カチンときた。
「うるさいとはなんだ! 病人がいるって言ってるのに!」
「うるせぇったら、うるせぇんだよぉ!」
相手もよほど頭にきたらしい。怒号はビリビリと空気を震わせた。
ラーナは気圧され顔をしかめた。
同時に、違和感を覚えた。
見られ、てる……?
視線を感じるのだ。
恐るおそる気配を辿った。
街道を挟んだ木立の中、道端の巌の陰、街を囲う壁の上――。
上下左右と見回し、やがて傍らに目を留めたとき、ラーナはたまらず跳びあがった。
「わあっ!」
「叫ぶな! 頭に響くんだよ……ッ!」
ハガーが頭を抱え、顔をしかめた。
「ごめん! ハガーさん、起きたんだね」
「ああ、夢ん中から叩きだされたよ。あんまりうるせぇからな」
「熱は!」
ラーナは慌てて額に手を当てた。ちっとも熱くなかった。
「あれ?」
奇妙な発疹の痕もない。
「なんか迷惑かけたみてぇだな」
そう言って立ちあがるにも、難儀する様子はなかった。ただバツが悪そうに視線を逸らしただけだ。
「具合悪くないんだね……?」
緊張の糸が解けた。
ラーナがたまらずへたりこむと、ハガーは苦笑した。
「悪くねぇよ。すっかり元気だ。ただ気持ちがな、その……」
それは傍から見ていても判った。気を失う直前の剣幕は、尋常ではなかった。
「野盗って言ってた」
「ああ。急に思い出しちまってよ、野盗に襲われたときのこと。あの時も山沿いの道だったから……」
「そうだったのか……」
ハガーが負った心の傷は、ラーナが想像していた以上に深刻だったようだ。野盗に襲われ重傷を負い、仲間も喪った。その悲しみや恐怖は過去ではない、未だにハガーを蝕み続ける今なのだ。
ラーナも魔獣に襲われた際の恐怖は、未だ消えない。師の許で獣狩りの知恵と技を叩きこまれるうち、それも薄らいではいったが、山籠もりを始めたばかりの頃は、小動物を見ただけで震えが止まらなかった。
「旅、続けられる?」
ハガーの旅を光輝あるものにしようと彼を誘ったが、それすらも苦であれば無理強いはできない。
しかしハガーは頑として首を横に振らなかった。
「〈ガラスの靴〉は必ず手に入れる……」
ラーナは、二度は訊ねなかった。
「わかった。ボクがハガーさん助ける。力になる。だから安心して」
ハガーが愛する人を守りたいと望むように、ラーナもまた大切な人を守りたかった。
『一つしかなかった人生に、もう一つの道ができたような気がしてな』
ハガーの言葉が、今更ながら胸に響いた。
――
あれからハガーが気を取り乱すことはなく、旅は順調に進んだ。体調も悪くなさそうだ。怪我の具合を訊ねれば、ハガーはぐるりと肩を回してみせた。
「あれから数日経ったからな。痛みがないわけではねぇが」
よかったと笑いながら、内心ラーナは気を揉んでいた。
確かに数日経てば人の身体は変わる。傷は塞がり、痛みもひくかもしれない。
だがハガーの傷は、骨が覗くほどの重傷だった。数日で治るわけがないのだ。
それでも彼の動機を知っていれば、焦燥を察すれば、諦めようとは言えなかった。
旅の終わりが近づいていれば、なおさら。
臥竜山脈は果てがないかに思われていたが、いよいよその端が遠方に見てとれるほどになった。東の地平は
「あれが〈悪魔の手〉だ」
恐ろしげな名前とは裏腹に、それはさほど険しそうには見えなかった。標高が低く傾斜も緩やかで、山肌を覆う蒼い霧のようなものは常緑樹だろう、狩りに困る心配もなさそうだ。
「いよいよだね」
「ああ。だが目的は、〈悪魔の手〉に辿り着くことじゃねぇ。〈ガラスの靴〉だ」
二人は今一度、訳文を確認する。
『悪魔の手は右。甲は東。平は西。無名指の先。鱗片の怪。胎の中』
改めて読み直してみると、〈悪魔の手〉さえ知っていれば、解読にも希望がもてる内容だ。
「手の甲は東に当たる。逆に手のひらは西ってことかな」
「だろうな」
「でも、この右って? その後の文章もよく解らない」
「鱗片の怪からあとはオレも解らん。だが、右ってのはおそらく右手のことだな。〈悪魔の手〉は右手。そんで、甲と平の方角を鑑みて眺めたとき、薬指の先になんかあるってことじゃねぇか」
「ああ、なるほど」
となれば、進路は限られてくる。
「しばらく街道を進んで、その後、西へ向かう?」
「そのほうが安全だろうな」
「西へ入ったら野宿だね」
目視できる範囲で街道は東や南へ続いていても、西へは繋がっていないようだ。
「問題ねぇ。異能の力と国営猟師の腕があるんだぜ」
「それもそうだ」
二人は互いの拳を軽く打ち鳴らすと、街道を南下しはじめた。
やけに往来の少ない道だった。
およそ平坦で歩きやすい地勢にもかかわらず、人影が見当たらない。
何かあるのか、そう訝りはじめたときだ。
「なぁ、あそこ」
ハガーが、街道のはるか先を指差したのは。
「なにかある?」
しかしラーナの目には、平坦な道が続いているようにしか見えない。
「あそこ、隅のほうだ。なんか光ってるぞ」
ラーナは目を凝らしながら、少しずつ立ち位置を変えた。
「あ」
すると、確かに何かチカチカと光るものが見て取れた。それもおそらく一つではなかった。
「行ってみようぜ」
「うん」
近付いていくと、その正体が明らかになる。
「宝石だ」
傍らに袋が転がっていて、中にも宝石が入っていた。少量の硬貨もあった。
「冒険者の財布みてぇだな」
「吊り紐が切れたのかな」
ハガーはどうだかなと腕を組む。
「こんな端っこに荷物を落とすかね」
端くらい歩くのではないかと思ったが、ラーナはすぐにその考えを改めた。
ボクなら絶対に、こんなところは通らない。
何故なら街道の東側は平地で見晴らしが良いが、宝石の落ちている西側には鬱蒼とした森が広がっているからだ。賢明な旅人なら、野生生物や野盗を警戒し、森側からは距離を置くはずである。
ラーナは辺りに目を凝らし、やがて程近いところに血を擦ったような赤黒いシミを見出した。
それを指摘すると、ハガーは身をすくませた。
「野盗の仕業かもしれねぇな……」
「いや、違うと思う。賊だったら、金目の物置いてくはずない」
すぐさまハガーの肩に手を置き宥めた。
……ハガーさん、〈ウズマキ〉や野盗の襲撃を受けた所為で、血に敏感になってるんだ。
ラーナは己にそう言い含めたものの、血痕が何を意味するのかは解っていなかった。血痕は森の中にまで、ぽつぽつと続いていた。
「……先急ごう」
それを見ていたら、怖気がこみ上げてきた。早急にこの場を去りたかった。
ところが、ハガーは待てと手をかざした。
「確かに野盗ではないかもしれねぇが」
おもむろに散らばった宝石を回収すると、森の中を見据えた。
「この血痕、誰か襲われた可能性は高いよな」
「……」
ラーナは答えず、怪訝な眼差しを向けた。ハガーが何を言いたいのか解らなかった。
続く一言は、いっそうラーナを当惑させた。
「……行こうぜ」
「え、行くって?」
「助けに行かねぇかって言ってんだよ」
「ちょっと待って。それこそ野盗に襲われるかも」
ラーナはほとんどパニックに陥っていた。
ハガーは野盗を恐れていたはずだ。
目の前で仲間を殺され、心に深い傷を負ったのでは――。
「だがよ、放っておけねぇだろ。見ちまったんだからよ、知らんぷりじゃ後味悪いぜ……」
ハガーの言い分はわかる。
なにか好くない事態が起きているのは間違いない。被害者がいるなら、助けたいと思う気持ちはラーナにもある。
しかし敵――だとして、その規模や戦力も解らないのだ。二人で追跡するにはリスクが大きすぎはしないか? ましてハガーは深刻なトラウマを抱えている。
「なぁ、行かねぇか?」
ラーナは迷った。
〈ガラスの靴〉を手にするために、この提案を呑みこむ必要性は皆無だ。むしろ障害にしかならないだろう。
だが〈ガラスの靴〉入手は、ハガーが幸福になるための最終目標だ。彼自身、後味が悪いと言ったように、ここで誰かを見捨てることは、彼の幸せに暗い影を落とすことになりはしないか?
おそらく、それは自分自身のしこりにもなる。
ラーナは自分の顔に触れる。
瞼を閉じれば何度でも思い出せる、痛みや悲しみがあった。
その代償にいま力がある。
「……わかった」
魔獣によって、狂わされた人生。
〈
だが、いま隣にはハガーがいる。
失われたはずの繋がりがある。
幾つもの不幸が、やむを得ない無数の選択が、自分をここに存在させている。
〈呪痕〉もちとなった事も、いつか振り返れば、その時の自分の幸福に繋がっているかもしれない。
「恩に着るぜ」
否、もうすでに繋がっているのだ。
ハガーの笑顔を前に、ラーナは確信した。
……これが、ボクの進むべき道だ。
目標が定まれば、あとは行動するだけだ。
ラーナたちは慎重に森へ踏み入り、さっそく観察をはじめた。
「足跡がある」
そうして見出せたのは二種類の足跡だった。
どちらも深い。爪先が特に。走った跡だ。
共通点はそれだけだった。
一方は、右より左のくぼみが深く、歩幅に乱れがある。
もう一方は、窪みが左右均一で歩幅はみじかく一定だ。
「こいつ、左に得物を持ってるな」
バランスの悪い足跡を指差し、ハガーが言った。
ラーナも同じ考えだった。
「もう一人は猟師みたい」
「だな」
猟師は正確な距離を測るために、歩幅を一定に保つ。
「たぶん襲われたのは猟師のほうだな」
血痕は猟師の軌跡と重なっている。
もう一方の足跡は、それと平行しており、猟師の足跡を追ってきたのだと判る。
「なんだ、消えたぞ……?」
ところが、猟師の足跡と血痕はすぐに途絶えた。襲撃者の足跡だけが続いていた。
「いや、待って」
そこで声をあげたのはラーナだ。
「折れた枝がある。向こうにも」
不自然な折れ枝がぽつぽつと残されているのを見つけたのだ。まるで一本の道のように、それは一方向へ続いていた。
「なんだろ?」
手にとって観察してみると、表面に擦ったような痕があった。樹皮が僅かに剥がれ、そこにかすれた赤いシミが残されている。
「このシミ、血か……? 裏はきれいだ。横も損傷が少ない」
「ロープ引っかけた痕に見える」
「罠か?」
ラーナは周囲を見回した。
この辺りは茂みが少ない。土はほとんどむき出しになっていた。
「杭や支柱を打った穴はなさそう」
ハガーは腕を組んだ。
「妙だな。すると何の痕だ?」
ラーナも腕を組みうつむいた。
杭の穴がないということは罠ではないし、野営のための屋根でもない。折れ枝には木の実すら成っておらず、食用に折ったとも考えられない。血のようなシミが残されているのも不可解だった。
「とりあえず、注意して進もう」
「うん」
折れ枝の詳細は不明だが、幸い、何者かの痕跡は充分に残されていた。
産毛一本にまで感覚を研ぎ澄ませ、二人は黙々と森の奥へ歩を進める。
次第に足跡の間隔は狭まり、爪先の抉れは浅くなっていった。折れ枝はある地点を境に姿を消した。
ラーナはふと空を見上げた。
密な常緑樹の森は、歩ける場所が限られ空も狭い。黄昏時にはまだ早いが、筆をひいたような薄い雲が窺えるばかりで、おおよその時間さえ把握できそうになかった。早めに野営地を確保したほうがよさそうだ。
「ハガーさ……」
ところが声をかけた途端、ハガーがこちらに手を向けた。
黙れという意思表示なのはすぐに判った。
出かかった言葉を呑みこむと、かすかに木の焦げた匂いがした。
耳を澄ませば、遠くパチパチと薪の爆ぜる音も聞こえてくる。
誰かいる。
二人は頷き合い、木陰から木陰へ忍ぶように歩きだした。
人影はすぐに見出せた。
辺りに樹木がぽつぽつと佇む、やや開けた土地だった。
焚火に手をかざし、倒木へ腰かけた後姿が窺える。傍らに立てかけられているのは剣だ。猟師を追っていた襲撃者に違いない。
血の気がひいていく。
どうすると目配せすれば、ハガーは考えこむ素振りを見せたが、やがて手ぶりで行こうと合図を送ってきた。
ラーナは拳を握り、顔の傷を意識しながら頷いた。
二人は木陰を出た。相手を刺激しないよう、十歩ほど離れた木の横で立ちどまった。
「よ……」
ハガーの声は、
「ひッ!」
すぐに悲鳴となった。
二人の背中を氷柱が貫いた。
無論、錯覚だった。
実際に突き刺さったのはナイフだった。
ハガーの顔の数インチ横――樹木に刺さったそれは小刻みに振動していた。
「……何者だ?」
相手はすでにこちらへ向きなおっていた。若い男だった。
太腿から短剣が抜かれる。錐状の刺突剣が剣身をあらわす。
ラーナのこめかみを冷たい汗が伝った。
「ま、待って……」
かろうじてしぼり出せた声は、それだけだった。
男の眼差しには、慈悲も容赦もなかった。油断なく眇めた目は、それ自体が一刃の剣のようだった。
「何者だと訊いている」
「りょ、猟師だ」
ハガーが答えた。
男はハガーを一瞥すると、すぐさまラーナへ視線を戻した。
「お前は?」
「ボクも」
正確には猟師ではないが、説明が難しい。
男は片眉をつり上げ、威圧的な表情を形作った。
「二人とも猟師?」
「そう」
怪訝な様子だが、二人とも目立った武器を携行していないのを見て取ったのだろう。おもむろに切っ先を下ろした。
「猟師二人がこんな所に何をしに来た?」
「道でこれを見つけた。なんかあったかと思って来てみたんだ」
ハガーが宝石の入った小袋を掲げた。
すると男は、腰に手をやって「なるほど」と呟いた。
「また早とちりしてしまったかな……。えっと、わざわざ届けに来てくれたんですね」
突として男から殺気が霧散し、拍子抜けするほど爽やかな微笑を向けられた。
頬が緩むと、よく整った顔立ちの青年だと判った。
ラーナとハガーの二人は、目を丸くして顔を見合わせた。
「すみませんでした。どうぞ、こちらへ」
美青年は剣片手に焚火の奥へ回りこんだ。
すっかり警戒を解いたわけではないようだ。こちらが倒木に腰を下ろすまで、彼は決して座ろうとしなかった。
「驚かせて悪かったな」
「いえ、驚かせたのはこちらのほうです。職業柄、疑うことばかり覚えてしまって」
そうこめかみを掻いた青年の目には、未だ
「じゃあ、おあいこって事にしてくれ」
「ええ」
男同士が微笑み合った。
ラーナにとっては、居心地の悪い空間だった。
表面上は穏やかに見えても、二人の言葉や眼差しは未だ牽制を続けている。
それが恐ろしいのだ。人間の表裏を垣間見ると、身がすくんでしまう。
「申し遅れましたね。俺はウェイグ。ウェイグ・アンダーボルト。冒険者です」
「ハガーだ。よろしくな」
「ヴァン。よろしく……」
それぞれ短い自己紹介を終え、ラーナは、ウェイグと名乗った若者をますます恐ろしく感じた。
冒険者。
つまりは〈ガラスの靴〉を求める競争者だ。
「冒険者ってことは〈ガラスの靴〉を探してるんだな?」
ハガーが直截に訊ねると、ウェイグは探るような眼差しを寄越した。
「まあ……」
ところが、その眼差しからふいに覇気が失せた。
疲れたように目を伏せ、爆ぜる炎を見下ろした。
「なんかあったのか?」
ハガーは、そこに鋭く問いかけた。
「道中、血痕を見たぞ」
と畳みかければ、ウェイグはおもむろに目を上げ、剣の鞘に指を這わせた。
攻撃の意思表示ではなさそうだ。
指先から伝わってくるのは、殺意でなく寂寥。
瞳を染めあげたのは孤独の色だった。
ラーナには、それがきっと生身のウェイグ・アンダーボルトという人間だと判った。胸から恐れが滴り落ちていく。
「実は」
だが、それも束の間だ。
ウェイグの発した一言で、濾しだされた恐怖はふたたび胸に吸いあげられた。
「野盗に襲われて、ここまで来たんです」
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