第32話羽柴結衣の過去 前編

羽柴結衣は部活動の同じ友人たちと別れ、家へと続く最寄り駅で1人降りた。

時刻は20時になる5分程前。


体は適度な倦怠感に包まれ、帰宅後の入浴を思うと楽しみでしょうがなかった。

立ち上る湯気を肌に感じ、足先から徐々に湯に包まれ体中がゆっくりと弛緩するあの瞬間を思い出すだけでも、自然と口角が持ち上がり、喜びが湧いてきて家までの道のりを苦に感じることもない。


しかし、ここ最近の結衣はそんな呑気な想像をすることも減っていた。

原因は明白だ。

柳光流という転校生が現れてから結衣の心には不快と不安が頭の多くを占めるようになった。

それまで自分に実害があった訳ではない。

彼と出会ったのは転校してくる一週間ほど前、それからしばしば連絡が来るものの、丁寧に断ってきた。

ただそれだけのことなのだ。


それでも彼がやって来たことで少なからず変化が起きている。

同じクラスのサッカー部の田中君は彼が来てから気が大きくなっている……と思う。

柳くんと話している時の彼はまるで憧れている人と接しているようだ。

自分が憧れる人に接してもらえることで、その喜びを、その凄さを周囲に認めさせようと必死にアピールしているように思う。


過去に結衣にも同じようなところがあった。

だからそんな気がするのだ。

だから”あの時”クラスメイトは牙を剥いたのだろう。

”こういう人だろう”と思っていた人の別の一面を見てしまう時、いつだって恐怖を感じる。

それは取り残されたと感じる疎外感から来るのだろうか?

それとも自分の知らない姿に裏切られたと憤るからだろうか?

それとももっと小出しにして欲しいと思う不満からだろうか?


結衣は小さい頃ハムスターを飼っていた。

毎日ひまわりの種を両手で愛らしく食べるハムスターが好きだった。

しかし、ある日生物図鑑に載っていたエサの中にコオロギがあり、興味本位であげてみた。

それは見たこともないハムスターの姿だった。

コオロギの跳ねる音を聞きつけるとそれまでの緩慢な動きが鳴りを潜め、獲物を追う狩人になっていた。

素早い動作でコオロギを捕まえると、頭から食べてしまった。

無残にも両肢は残されていた。


自分が愛でていたハムスターのそんな姿を見た時、結衣は号泣して家族を驚かせた。

両親は話を聞きすぐに受け入れたが、結衣にはハムスターの野生的な一面が恐くて恐くて仕方がなかった。


いつだって知らない一面を急に知る時は恐いのだ。

更新情報に脳が追いつかないのかもしれない。

田中君の新たな一面を引き出した柳くんも必ず持っている。

人間誰しも持っている。

ただ、それを近い内に自分の予期しないタイミングで柳くんからさらけ出されてしまう恐れがある。。

そんな考えが肝心の湯船に浸かり頭を空にして味わいたい時でさえも、隙間風のように結衣の頭入り込み掻き乱していく。

そのせいで結衣は風呂場で満足に体を休ませることができなくなっていた。


特に今日は一日を通して恐かった。

物心付く頃から一緒にいた男の子が善良だったこともあり、何度も忘れてしまいがちになるのだが”男性は恐い”というのが結衣の考えだった。

いや、それは正確ではないだろう。

”人は恐い”というのが17年間生きてきて結衣が学んだことだった。

朝練が終わり教室に顔を出してからの自分を見る周囲の奇異の眼差し、そして柳とその取り巻きたちの”言葉の暴力”。

相手を慮ることのない言葉。

心無い言葉。

その一言を浴びる度に心の有り様が平常とは別のものへと"歪む"のだ。


”言葉の暴力”とは本人の望まない心のありようにさせられる点でその通りだと思えた。

今日の出来事を思い出しながら、汗を含んだ弓道着を学校指定のバックとは別に抱え、いつもの道を結衣は歩いている。

幼い頃から見慣れた景色とはいえ既に20時を超えている。

前方の人気のない道路には電信柱など死角が多く恐怖を煽る。


今日一日経験しただけなのに、後ろから柳たちが「やぁ、偶然だね」などと、おちゃらけて現れでもしたらどうしようなどと考えてしまう。

街灯も等間隔にはあるが、返って電柱の影を強調しているだけのように感じる。

そこから目深に帽子を被った男が現れたらどうしよう?などと想像が膨らんでしまう。

今の結衣の心理ははまるで怖いテレビ番組を見た後に、お風呂場でふと後ろが気になってしまう状態だ。


自身の外見が秀でたものであると”今は”もう思っていないし、ストーカーや不審者に狙われているとも思っていない。

ただ潜在的に夜道というものは誰もが恐怖を覚えるはずだ。

男性が不審者や幽霊とするなら、女性は痴漢と変質者がそれにプラスされると思う。


万が一のために利き手ではない左肩にバックを2つ担ぎ、利き腕はスマートフォンを握っている。

いつでも110番を押せるよう準備しておこうか?

それとも電話をしているフリをしてみようか?

どちらも防犯に有効だとテレビでやっていた。


電話しているフリは流石に恥ずかしいので、ボタン一つで自宅に電話できるように備えておくことにしよう。

そんなことを考えながら変える私は自意識過剰だろうか?とも思ってしまう。

しかし恐い目に遭ってしまう時はいつだって突然なのだ。。

それはもう経験している。


いつから自分はこんなに臆病になってしまったのだろう?と車通りのほぼない道の真ん中で考え込む。


少し前の自分はもっと単純だったはずだ。

男女に垣根なく話すことができたはずた。

喜怒哀楽を素直に顔に出し、口にすることができたはずだ。

今は人の動作に1つに特別な意味を持たせている気がする。

どんどん人間関係が複雑になっていき、自分の手を離れて物事は動き出していると思ってしまう。

以前は自分のことは自分中心に回っていたはずなのに。

好きな人とだけ、気の合う友人とだけ一緒にいることができればいいのに……


部活動の疲労そしてここ数週間に起こった出来事で混乱している頭が、次第に深く深くへと自分を誘っていく。

 

幼い頃の私にはいつも隣の同じ男の子がいてくれた。

同い年で家が隣ということもあって何をするにも一緒だった。

両親が惣菜屋を営んでおり、2人とも手が離せない時はよく隣の彼の家でお世話になったものだ。

私が風邪を引いた時がそうだ。


彼のお母さんはびっくりするほど美人で明るくて優しい。

私のお母さんがこの人だったらいいのにと何度も思った。

側にいてくれたのは彼は2歳年下の妹の面倒をよく見る子だった。


その延長線上に私がいたのかもしれない。

私にも何かと面倒を見てくれようとする男の子のことが、当時は嬉しくも疎ましくもあったことを思えている。


小学生の頃は学校から帰ってくると、妹を連れて公園に行くとよく私も誘ってくれた。

それが嬉しくて喜んで付いていくものの、妹や私の手や服に付いた砂場の泥のことばかり彼は気にするのだ。

自分のことは二の次で妹と私のことを優先させる彼が遠い存在に感じてしまい、拗ねて先に帰ってしまうことが多かったと思う。

同い年なのにまるで年の離れた人のように感じることが多かった。


それでもそのことを彼に直接不満を言ったことはなかったと思う。

何故か口にすることができなかった。

ひょっとしたら言ってしまうことで、彼ともう会えなくなる気がしたのかもしれない。


ここだけの話、2つも歳の違う妹と同じ扱いをされることに、許せない気持ちもあったのだと思う。

今だから言えるが、このころにはもう彼は私の特別だったのだと思う。

次の日になると、彼はまた遊びに誘ってくれるのだ。

そんな彼の気持ちが嬉しくて、私は前日の不満など忘れて付いていくのだ。

 

そんな彼との関係が少し変わったのは小学3年生頃からだろうか。

彼の外見が他の男の子と比べて特別整っていることに気付いてからだ。

気付かされたといった方がいいかもしれな。


それまで家が隣同士ということもあり登下校はもちろんのこと、学校でも仲の良かった私達は、2人で1セットのような扱いだった。

もしくは妹の紅美ちゃんと3人で1セットだった。

私もそれが当たり前だと思っていた。


それが友達の女の子たちが彼のことをカッコいいと頻繁に言うようになった。

そのセリフを耳にする内に自分もそう認識するようになった。

彼は私と他の女の子とでは明らかに態度が違っていた。。

妹と同じような扱いはなくなり、友達として自然に話しかけてくれるのだ。

男友達と同じように。

それは私以外の女の子にはあまりみられない態度だった。


彼は外見でチヤホヤする子に対し苦手意識があったようだ。

それは男の同級生にも女の同級生にも言えた。


私は彼の容姿が優れていると認識した後も、態度を変えることはなかった。

彼のことを見慣れ過ぎていたせいもあるだろう。

しかしそれよりも彼が格好良いということを素直に認めたくなかったのかもしれない。

もしくは彼を遠目から見守る子たちに見せつけたかったのかもしれない。

私は彼とこんなに仲が良いんだよと。


それでも私だけを特別視することに抵抗はなかったのだろうか?

よく私と彼は付き合っていると噂話を流された。

小学生の頃だから、ただの茶化したものだ。

私は否定していたが、彼はどうだったのだろう?


彼は大人しく真面目な性格だったこともあり、一見するとクラスの誰とでも仲良くやっているように見える。

しかし、そんな彼が自分から話しかける友達は男の子の中でも限られていた。

共通点があるとしたら、どの子も彼の外見に頓着していなかったように思える。

性格もよく格好の良い彼と仲良くなりたがる子は学年中に沢山いたと思う。


授業中や休み時間によく彼が遊びは会話に誘われているのを目にしたからだ。

しかし彼はそれにあまり興味を示さす、少数の友人たちと一緒にいた。

彼の特別な友達ということで私は、女の子には羨ましがられ時にケンカにも発展した。

この頃の私は気が強く言い返さないと済まない性格だった。

自分の陰口だと分かった途端に相手に口喧嘩をふっかけていた。

それが例え男の子だろうと関係がなかった。


彼と仲の良い友人というだけで悪口を言われることに、我慢ができなかったのもあった。口喧嘩は私が勝った。

どんな時も。

何しろ大事になればなるほど、喧嘩の原因である彼が心配して私に気にかけてくれるのだから。

ケンカの根本の彼が現れることで相手の子も有耶無耶にしかできなくなってしまう。

この時は相手の子が不憫に思えた。


ただ、この結末に私は納得がいかなかったし、私だけを評価して欲しい願望が強く芽生えることとなった。

彼はケンカの原因に自分が関係しているのを薄々察しているようで、そのうち休み時間になると教室の窓から大人しく校庭を見ている姿が多くなったことを覚えている。

肩身の狭そうな印象が強くあった。

帰り道によく”言いたいことがあれば皆に言えばいいじゃん”と彼に言っていた記憶がある。

そんな時彼は”僕にできるかなぁ”と力なく笑っていいたと思う。

ただ一度だけ”その内結衣も同じような目に合うかもね”と彼は言った。

”何で?”と問う私に”だって結衣は可愛いから”と俯き気味に顔を赤くしていた。

彼としては何気ない会話にしたかったのだろうが、”え”っと私が言ってしまったことで妙な沈黙が生まれた。

今でも彼の赤い顔に真一文字も唇そしてランドセルの肩から伸びるベルトを力強く掴んでいる両手をハッキリと覚えている。

その後は私も顔を真赤にして会話も少なく帰ったと思う。

 

そんな関係に再び変化が生じたのが小学6年生の頃だった。

今度は私が変わる番だった。

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