第6話 非モテ男、神様に脅される

「おはよー、樹」

 明くる朝、天の無邪気な声が、布団の中の樹の耳に響いた。

「お、おはよう……」

 それに応じる樹の声は、やはりおっかなびっくりなものであった。それもそうだ。昨夜の天の怒り様と言ったら、まるで天地がひっくり返らんばかりであったのだから。

「朝ごはん用意したからさ、ほら冷める前に食べて食べて」

 それでも、今の天の様子からは、昨夜の嚇怒の色は微塵も見られない。樹はいざなわれるままに食卓についた。

 樹がパンにイチゴジャムを塗って食べている間、天はずっと目笑していた。昨日のあの怒りは、もしかして夢だったのかも……などということを、樹は思い始めた。それは殆ど願望のようなものであったが、とにかく、今の樹はそのような希望的観測に縋りつくより他はなかったのである。

 樹がパンを口に入れようとした、まさにその時であった。

「次はこれじゃ済まさないからな」

 まるで冷たく光る刃のような、ぞっとするような声が、左の耳元から聞こえた。どうやらその時、樹は縮み上がって身震いしたらしかった。


 それを聞いてからというもの、樹はすっかり天に怯えるようになってしまった。そも、彼は人ならざるものだ。一度ひとたび嫉妬に狂ったからには、どのような手段に出るか分かったものではない。思えばきっと、連絡先を交換しようとした時にスマホが起動できなかったのも、天の仕業だったのだろう。次はこれじゃ済まさない、ということは、真利子のことを諦めなければ、もっと過激な方法で妨害すると宣言しているようなものである。

 そのような憂苦を他所に、真利子の方は意外にも樹を気に入ったようで、また会いたいそうである。樹は悩んだ。次に天が妨害してきたら、それこそ何が起こるか分かったものではない。樹自身は、彼女のことをどちらかといえば気に入っていたし、先輩も二人の仲が進展するように力添えする気まんまんである。

 樹の懊悩呻吟おうのうしんぎんは甚だしい。彼女のことを拒む気はないし、先輩の顔も立てたい。けれども、真利子や先輩の身を案ずればこそ、軽々しく会うことはできない。それに、いい加減、ちゃんとした人間の伴侶を得なければ、結婚して家庭を築くことなどできようもない。何処かで、天との恋愛ごっこに見切りをつけなければならないのだ。

 

 そうして、真利子から送られてくるメッセージに対して、のらりくらりとはぐらかすような返信をし続けてきたある日のことであった。

 仕事を終え、駅に向かう樹。その視線の先に、見覚えのある女性が現れた。

「あれは……森沢さん?」

 目を細めて見てみたが、間違いはない。森沢真利子その人である。その後ろには半休で早上がりした例の先輩の姿があった。

 樹はすぐさま身を隠そうとした。今会うべきではない。瞬間的にそう思ったのである。だが、近くに脇道などはない。

「おうい、林!」

 樹の危惧に反して、先輩の方が、こちらに気づいてしまった。何も知らない先輩は腕を大きく振っている。

「駄目です! 来ないでください!」

 樹は、声を張り上げた。無関係な通行人が驚いて樹の方を振り向いてしまう程の大声で、樹は叫んだ。

 だが、それがすでに遅かったということを、樹は知ることとなる。

末喜ばっき、商の妲己だっき、周の褒姒ほうじ……主を惑わす淫婦をちゅうさん」

 背筋を撫でる冷気と共に、樹の背後から、声が聞こえた。後ろを振り返らずとも、樹にはその声の主が把握できる。彼が列挙したのは、古の王を惑わせた悪婦たちの名であった。

 そう、そこには、激烈に嚇怒した天が立っていた。その手には、銅のような金属でできた杖が握られている。

「ここに誅罰を賜わす」

 天が杖を振るうと、真利子の体を突如煙が包んだ。やがてその煙が霧散すると、そこに真利子の姿はなかった。

 まるで、魔法を見ているようだった。いや、最早比喩表現などは不適であり、魔法そのものであるとしか言いようがない。真利子は一体何処へ消えてしまったのか、樹は左右に視線を振ったが、何処にも彼女の姿はない。

「うわあああっ!」

 絶叫したのは、先輩であった。先輩は足元にあるを見て叫んだのである。

 先輩の見たものは、地面をのたうち回る蚯蚓みみずであった。

「な……」

 樹はその時、天と初めて会った時に、彼が見せた奇術を思い出した。彼は不思議な力で、木の枝を蛇に変えて見せたのである。木を蛇に変えられるのなら、当然人間を蚯蚓にしてしまうことも……

「だがまだだ。元凶はお前だな?」

 低く、脅しかけるような声色で言いながら、天は先輩の方に杖の先を向けた。先輩は腰が抜けているのか、地面に尻餅をつきながら動けないでいる。

伯嚭はくひ郭開かくかいが如き奸物佞臣かんぶつねいしん、誅すべし」

 天が挙げた名は、敵国と通じて主君を誤らせた奸臣たちのものである。天が杖を振るうと、先輩の体も、先程と同じように煙に包まれた。それが晴れると、やはり先輩の姿は消えてしまい、代わりに地面には蚯蚓がその細長い体をくねらせていた。

「あ……あ……」

 あまりにも常識を外れた光景に、樹は声を発することができないでいた。全身の震えは愈々いよいよ止まらず、その場から動くことも叶わない。

「ふふ……樹のことは僕が守るから……」

 薄ら笑いを浮かべる天の姿からは、ただ狂気のみを感じ取ることができた。

「う、うわああああああ!」

 樹は、もう耐え切れなかった。彼の心は、最早目下の現象を咀嚼するに堪えなかったのである。居ても立っても居られなくなった樹は、逃走を始めた。逃走……何から? 一体何から逃げようというのだ。天から? そもそも神を相手に逃げおおせることなどできようか。樹は、脇目も振らずに走った。遮二無二走った。走りながら、樹は今までのことを後悔した。そうだ、全て間違いであったのだ。人ならざる、神などというものと恋愛ごっこに興じるなど……

 その樹の体を、衝撃が襲った。どん、という音と共に、樹の体が吹っ飛ばされる。天が何かしたのか、とも思ったが、そうではなかった。樹は赤信号に気づかず車道に飛び出し、運悪くやってきた車に轢かれたのである。

 救急車のサイレンが、樹の耳に入った。それを最後に、彼の意識はぷつりと切れてしまった——


 担架で運ばれる樹を、天はじっと黙したまま眺めていた。蛇が、蛙を睨むような、そのような目で……

「逃がさない……」

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