第九章 かむひの日の神①

 夜が明けて、日向が北宮神社を訪れた。既にそこに結界は張られていない、何故なら結界を張って守るべきものがそこからいなくなったからだ。

 客間に通された日向は、太から渡されたお茶を口へと運ぶ。

「ありがとう。美味しいよ、太君」

「あ、いえ、どうも」

 唐突に礼を言われ、太は目を逸らす。前はすれ違っただけであったが、今回はまじまじと日向を見ることになった。

 日向は男の太から見ても魅力的な男性であると思った。爽やかで清潔感を感じる淡い黒髪、端正な顔、体つきに安心感を感じさせる声音。まるで日本男児というものを体現したかのような佇まい。もし仮に自分が女であったとしたら、間違いなく惚れていたであろうと太は思った。

「日向さん、申し訳ないですが、無垢な男の子を口説きに来るのは次の機会にしていただけないかしら」

「はい?」

 日向は首を傾げる。望月は彼女の言葉の意味を理解していないらしい日向の様子に呆気に取られた。

「いえ、何でもありません。それより、そろそろさやについて教えていただけないかしら」

「はい。その約束でしたね」

 日向はそう言って柔和な顔をしたかと思うと、すぐにキリとした顔になった。

「少し話は長くなりますが、よろしいでしょうか?」

「ええ」


 ……気の遠くなるような昔の話です。かつてとある地に、とある集団が降り立ちました。「あまはらの民」と称する彼らの目的は混沌とした地上、彼らの言葉で「葦原の中つ国」と呼ばれる土地を自分達のものにすることでしたが、しかし、そこには既に多様な習慣を持つ人達が、神がいました。

 そこで、彼らは手始めに自分たちが降り立った地の周りの郷や邦を支配していきました。もちろん、突然現れた異邦人達に逆らわなかった者がいなかったわけではありません。しかしそんな抵抗も虚しく、最終的にはあまはらの民にその多くが降っていきました。従わねば、待っていたのは滅びでしたから。

 彼らの支配下に下った土着の民は、特段、奴隷のような仕打ちを受けたわけでもなく、むしろ、手厚い厚遇を受けました。それだけ聞けば聞こえはいいかもしれませんが、一つ、引き換えに要求されたものがあります。

 それは、「あまはらの民」となることです。これの意味する所は、自分達の文化を捨て、習慣を捨てよということ。それはつまり、自分達の存在、根幹となっている人生の羅針盤たるものを百八十度転換することに他なりません。昔の人達にアイデンティティというものがどれほどあったかは知りませんが、これまでの生き方を否定して、新しい生き方に変えろ、というのは普遍的に酷なことではあったでしょう。

 しかし、それしか生き残る術はありませんでした。ですから、彼らは少なくとも表面的にはそれに従いました。

 ところで、土着の民には彼らの信奉する神というものがいました。ではそれら神々はどうなったのか。あまはらの民は元々神霊の類です。よって、同等の存在であり、敵対者たる土着の神は棄却されるのが当然の成り行きであったでしょう。土着の民も、それは多かれ少なかれ覚悟していた筈です。

 ですが、それら神々が棄てられることはありませんでした。彼らは依然として信仰を受け続けることを許され、土着の民もまた、彼らを信仰し続けた。

 何故それが許されたのか? それは、あまはらの民の目的があくまで中つ国を自分達の支配下に置くことであったからです。無闇に滅ぼす必要などありません。自分達に帰順するのであれば、その支配下に組み込めるのだから。

 そして、それこそが彼らの狙いでした。ミソロジー……神話体系という言葉がありますね。つまりは、神々とそれを信奉する民の成り立ち、その関係性、系譜の総称です。無論、土着の民も、独自の神話体系を有していました。

 それを、あまはらの民は解体しました。土着の神の信仰を許す、しかしそれは、自分達の神話体系の中に組み込まれた神として、です。この辺りは巧妙に出来ていたようです。ただ降った全ての神を自分達の下として位置づけてしまえば、土着の民は納得しないでしょうから、適度に適切な位置づけを行った。それが功を奏したのか、あまはらの民は土着の民を少しずつ取り込んでいき、次第に中つ国における一大勢力を築いていきました。

 そんな折、あまはらの民に脅威を抱きつつある勢力がいました。彼らの名はかむひ。といっても、これは私達がそう呼んでいるだけで、実際の所なんという名だったのかは分かりません。ですがともかく、彼らは肥大化していくあまはらの民に対抗するために、周りの勢力と連合を組み始めました。

 あまはらの民の方はかむひの結束が固くなる前に攻め落としてしまいたかったようですが、しかし時の経過と共に彼らの内部も一筋縄というわけにいかなくなっていたようです。

 時に、あまはらの民に二人の王がいました。一人の王はこう言いました、「この土地は元は自分達のものではない。今まではよかったが、このような支配を続けていけばいずれは恐るべき反逆に遭うだろう」と。しかし、もう一人の王はこう言いました「では、あまつ民の悲願を諦めろというのか」と。つまりは、時の経過によって土着の民と対等の存在として共存しようと考える者達も生まれてきていたわけです。何故そういう考えの者が生まれたかは判然としませんが、一説には、神性を失い人に近付きつつあるあまはらの民がこのまま侵攻を続ければ、いずれは手痛い目に遭う可能性があったからとも、人に近付きつつある過程で、そこに芽生えた人間らしい感情が故とも、言われています。

 さて、二人の王がいた期間は、戦いというものはありませんでした。それは、共存派の王が上手く立ち回っていたからです。最早あまはらの民と並ぶ大きな勢力となっていたかむひにも頻繁に出向き、とりあえずの不可侵の約束を交わしていました。このまま二者が争えば数え切れない犠牲が出るかもしれない。そんなことは嫌だから平穏無事に時が過ぎれば、そう思う人もいたことでしょう。

 ですが、そんな平穏な期間は唐突に終わりを告げました。共存派の王が突如失踪を遂げたからです。共存を疎ましく思うもう者に暗殺されたとも言われていますが、真相はハッキリとはしません。ともあれ、これでその均衡を保つ者はいなくなりました。残ったもう一人の王は周りの勢力を呑み込み始め、遂にかむひとの決戦の火蓋が切って落とされたのです。

 力は互角でした。彼らは互いに持てる力を全て費やしてぶつかり合いましたが、一向に決着は付きません。その様子に業を煮やしたのか、遂に、神霊達が彼らの争いに加わる事態となりました。

 酷い有様でした。人と人との争いであった筈が、いつの間にか戦いの主体が代わり、神々の戦争と化していましたから。

 野は荒れ山は枯れ川は穢れ、栄えていた筈の文明は荒廃してしまいました。そしてその末に、あまはらの民は勝利を勝ち取りました。

 あまはらの民は残ったかむひの者達を自分達の勢力に取り込みました。拒めば滅亡、服せば繁栄、その原則はやはり生きていたのです。ですが、神は許さなかった。自分達を滅ぼしかねたかむひの神々を信奉することを、あまはらの民は許さなかったのです。かむひに関するものの痕跡が徹底的に消されていくと共に、かむひの神々は力を失い、一柱また一柱と姿を消していきました。そして、彼らの中心として座していた太陽を司る女神も遂に眠りにつきました。

 そうして、かむひの神話体系は崩壊しました。かむひだった生き残りの者達も時を経て自らをあまはらの民の眷属だと称するようになり、後世の神話や歴史に登場することはありません。名実共に、かむひは存在しなかったものなりました。

 それから永い時が立ちました。最早神秘は秘匿され、それを行使するものは普通ではないと認識されるようになった時代、それは、眠りから目覚めました。

 何が原因だったのかは分かりません。時が来たから自然に目覚めたのかもしれませんし、誰かの仕業によるものかもしれません。ですが、ただ一つ変わらない事実は、彼女が目覚めてしまったという事実です。

 ここまで話せばもうお分かりになっているかもしれません。目覚めたのはかむひの日の神、もう一柱の大日孁貴。つまり、貴方達がさやと呼んでいる少女です。


 望月は目を見張って日向を見る。

 日向は話し終えたからか、さっきまでの引き締めた顔を緩めてまた柔和な笑みを作った。

「少しは驚かれたでしょうか? これが、私達がさやを血眼にして追っている理由です。彼女は、今のこの国を揺るがす存在になり得る。ですから、弓司庁はその可能性を潰すために今こうして立ち回っているのです」

「何故」

 太が口を開いた。

「はい?」

「さやがそんな存在であったというなら、何故貴方達は彼女を今の今まで放っておいたのでしょうか。そんなに危険だと認識しているなら、いつまでも目覚めないようにちゃんと封印してしまえばよかった筈です」

「そうだね、太君、君の言う通りだ。でもそれは出来なかった。何故なら、僕達は彼女の祠を見つけられなかったからね」

「見つけられなかった?」

「そう。今の今まで、僕達は彼女の眠っている場所を見つけることが出来なかった。それは、敗北を確信した時の彼女の最後の抵抗だったのかもしれない。加えて他に解決すべき案件なんて山ほどあったから、次第に彼女に対する優先順位は下がっていってしまったんだ」

 日向は目を閉じる。

「それにね。もうかむひだった人達も、神々もいない。だから、彼女が目覚めた所で一人ぼっちだ。今更目覚めた所で大した脅威にはならないだろうと思っていた」

「なのに、今は血眼にして探しているのですね」

「ええ、お恥ずかしい話ですが色々と、致命的な浅慮をしてしまった結果です。確かに、かむひの人達はいなくなったと言いました。ですが、それは表面上の話。実際にはいたのです。頑なに信仰を持ち続け、彼女の復活を待ち望む者達の末裔が。そして僕達は彼女の力を見誤っていた。目覚めたさやは、確かに当初の見立て見通り力の大部分を削がれ、加えて記憶まで失っていたみたいですね。ですが、削がれて残った力の部分を過小評価していました。貴方達がさやと呼んでいるあの子は目覚めたばかりでまだ本調子ではないかと思われますが、それでも先日弓司庁の一人、勘解由小路晴が為す術もなくやられてしまいました」

 さやに、ということは先日の魔女の姿をした女の子だろうか。太は思った。彼女は浮かれた外国人でも何でもなくて弓司庁の一員だったということに、驚きを隠せない。

「かむひの末裔が何を考えているかは分かりません。ですが、もしその目的がさやの力を取り戻すことなのだとすると、それを看過するわけにはいきません。例え、その末裔の者を斬ってでも、私たちはそれを食い止めます」

「成程ね、話は大体分かりました。ところで、私から質問したいことがあるのですがよろしいかしら」

「何でしょうか?」

「日向さん。もしさやを捕まえたら、貴方はどうするつもりですか?」

「基本的には封印するつもりです。彼女のための神殿を整えて、その中に入ってもらう」

「そう。基本的には、とはどういうことでしょうか? まるで、他の選択肢があるかのような物言いですね」

「意地悪を言う方ですね。ですが、その通りです。もし仮に彼女がことさらに事を荒立てないと誓約してくれるのであれば、僕達も手を出すつもりはありません。無駄な争いをして、大事な人を失ってしまいたくはないですから」

「そうですか」

 随分とあっさりとした答え。望月としては少し拍子抜けした気分である。弓司庁から何人も派遣されて来るほどの重要事項だというのに、傍観が可能ならば、ただ傍観に徹すると言っているのだ。

「あの」

「どうしました? 何か質問があるなら聞きましょう」

「数日前のあの日、黒衣の人影がさやを攫って廃墟のホテルへと向かっているのを見かけました。あれは、何なのでしょうか?」

 日向はその問いに首を傾げる。

「似たようなものが秋月さんの報告にもありましたね。しかし、私はそれについてはよくは分かりません。ただ、魔法陣を使った魔術を行使しているという話なので、大陸から来た異邦人なのかもしれません。何故さやを狙うのか、そちらも要調査対象です」

 事態を引っ掻き回されて、面倒事にならなければいいのですが。日向は何か思案するように、そう呟いた。

 それから日向と望月はいくらか情報のやり取りをして、日向は滞在先のホテルへと戻っていった。どれもさして重要なことではない些末なことであったが、その中に一つ面白い情報があった。

 本居正一。とある旧財閥系創業家の元会長。その人物が今ここ菅原市に来ており、さやを狙っているのだという。「彼がかむひの末裔なのかもしれない」と日向は言っていた。

「これから、どうしましょうか?」

「そうね。今は、闇雲に探し回るのは止めた方が良いかもしれない。一旦、状況を整理しましょう」

「さやは、どうするつもりなのでしょうか?」

「分からないわ。彼女が今何を思っているのか、それは、あの子にしか」

 望月は乾いた外の景色を見ながら、ポツリと言った。

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