第五章 少女と夕日

「それは難儀なことになったわね」

 秋月と得体の知れない異形との件の翌日の朝、弓納はさやを連れて北宮神社を訪れ、そこで望月に昨日起きたことを話した。さやには自分の部屋に行ってもらっているが、彼女も色々と気を遣ってくれたのか、事情を聞かずに素直に入っていってくれた。

「さやちゃん、どうしたものかしら」

 ぼそりと望月が呟いた。

「望月さん。まさか」

「え、ああいやいや。今更彼女を放るようなことはしないわよ。でも、このまま手をこまねいていたら不味いわね。うーん」

 少し望月が唸った後、はあと観念したかのようにため息をついた。

「ここに結界を張ろうかしら」

「結界、ですか?」

「そう。まあ実は今も変なのが近づかないようにちょっとした結界を張っているのだけどね。壁みたいのじゃなくて、認識に訴えかけるやつ」

「行こうとすると不快な気分になるような、行かない方がいいと感じさせるような、あれですか?」

「そうそう、そういうやつ。今までのは悪意のない人間や妖異の類には影響ないやつだったのだけど、今度はそんなのとは比にならない強力なやつをかけるわ。とりあえず、だから、解呪の方法を教えておくわね。ごめんあそばせ」

 そう言って、望月は弓納の額に人差し指を当てて目を閉じながらぶつぶつと何かを唱え始めた。弓納がじっとそれが終わるのを待っていると、やがて望月は目を開けて「終わった」と言って指を離した。

「どうかしら?」

「あ、はい。何か色々と入ってきました。バッチリです」

「よろしい。実は太君には以前勉強のために解呪の方法を教えてあるから後は連絡だけしておけばいいとして、天野君には、まあ一先ず連絡だけしておきましょう。それにしても」

「どうしました?」

「天野君は何処をほっつき歩いてるんだか」

「天野さん、ですか?」

「そう。一回連絡を寄越したきり、ここに全く顔を出さないの。全く、こんな時に」

「何か事情があるんでしょう」

「そうね。何か取り込み中だったみたいだし。それにしても間が悪い」

「ははは」

 弓納は力なく笑う。彼に何か正当な事情があったにせよ、天野がここに来たら間違いなく望月から詰られるのだろう、そう思うと弓納は天野に同情せざるを得なかった。

「さて、私もそろそろと積極的に打って出ようかしら」

「何か当てはあるんですか」

「一応ね。なので、少しの間ここを空けます」

「あの、ではさやは」

「ここにいてもらいます。出来れば小梅ちゃんにはここにいてほしいのだけど、大丈夫かしら?」

「はい。今日は日曜日ですし、問題ないです」

 そう言いつつ、生徒会の仕事があったので弓納は携帯で連絡を入れておくことにした。ちょっとズル休みになるけど、さやのためだ。ちょっとした背徳感に駆られながらも、今日急な用で休む旨を生徒会の人間に伝えた。


       ○


 二階建ての北宮神社の社務所は大きく分けて共用スペースと神職の者が寝泊まりするための居住スペースの二つが存在する。共用スペースはその名の通り共用で利用出来る空間のことであり、普段客士が出入りしている広間もこちらに置かれている。一方で、居住スペースは神官である望月が普段の生活をするのに利用されているもので完全にプライベートな空間であり、それ故居住スペースは神域ではないとされる。この二つのスペースを明確に仕切るためのシンボル、つまり鳥居のようなものは存在しないが、渡り廊下によって分けられていることでそれとなく境界が示されている。

 弓納は珍しくその居住スペースの方に足を踏み入れた。今まで入ったことは数える程しかなかったが、さやがここに来てから何度か行く回数が増えたなあ、などと弓納は思った。そうは言っても、特にこれといって興味を引く何かがあるわけでもなく、共用スペースと対して変わりない構造である。ただ気になるのは望月の部屋であったが、そこに無断で入れば例え弓納であっても彼女は容赦なく恐ろしい仕打ちを与えるであろうことは容易に推測出来た。

 二階の階段を登り、南に面したさやの部屋の前で弓納はコンコンとノックをする。どうぞ、と中から声がしたので弓納は開き戸を空けて中へ入った。

「どうしたの、小梅?」

 さやは中に入ってきた弓納に言った。部屋は質素な割に女の子らしく、窓際には可愛らしい熊のぬいぐるみや今時の女子高生が置いているようなシュールなキャラクターが鎮座していた。

「うん、ちょっとさやの様子が気になっちゃって」

「私? 全然元気だよ」

 そう言って屈託なく笑ったかと思うと、少しだけ目を伏せた。

「なんてね。何かね、元気は元気なんだけど、ちょっと不安なんだ」

「さや」

「小梅。昨日の夜さ、何かあった?」

「え」

 弓納は一瞬硬直した。あの時、さやは目覚めたけど、明らかに寝ぼけていた。起きた時もそうだ。真夜中の出来事を覚えている気配はなかった。

 でも、さやは薄々感づいているんだ。

 何もなかったといえば嘘になる。だけど、話したところで、さやが心配するだけだ。

「ううん、何もなかったわけじゃないかな」

「やっぱり」

「でもさやが気にするようなことじゃないと思うよ。ちょっと夜中に騒いでいる人がいたから、それを懲らしめにいっただけだし」

 弓納はそれとなく誤魔化した。あんな夜の出来事を知らないなら、知らないままでいい。彼女をそんないらないことに巻き込みたくはない。

「そっか、それならよかった」

 そう言った後、さやはハッとして「いや待って」と一人呟いた。

「いやいや、よくはないよ。懲らしめにいったって穏やかじゃないと思うんだけど」

「それは大丈夫だよ。近所の斎藤さんっていう腕っぷしの強いおじさんと一緒に行ったし」

「何だ、一人で行ったのかと思ったよ」

「あはは。それよりさや、お腹空かない?」

「あー」

 さやはお腹をさする。

「凄く、お腹が空きました。そういえばもう二時だもんね」

 壁にかかった時計を見ながらさやは言った。

「じゃあ下で何か適当に作るね。あまりちゃんとしたものは作れないけど」

「私も作る。いやむしろ私が作るよ」

「ええと、じゃあ一緒に作ろっか」

「賛成!」


       ○


「シチュー?」

 社務所に入るなり太は言った。今日は特に顔を出す予定もなかったが、望月からさやの身に起きたことと、結界を強めるという連絡が来たことで、気になって神社にまで足を運んでいた。

 望月だろうか。これまでも度々料理の匂いがすることはあったので、それ自体特に気に留めるようなことではなかったが、二時過ぎという時間帯にあたって太は何も食していなかったこともあり、ことさら腹の虫が刺激されてしまった。

 無意識にその匂いの発生源まで歩いて行く。そして、そこで歩みを止めた。

 渡り廊下。確かあちら側は望月が生活してる所ではなかっただろうか。太は息を呑み、そして首を振って踵を返した。

 だが、一度引き起こされた腹の空虚感にどうにも耐えられなかった。生活が不規則になりがちな太にとって、いつもならこれより遅い時間帯に昼食を摂ることはざらではないが、今回は鼻腔を蠱惑する匂いがそれを許さなかった。

 一旦、神社を出て近くで何か買って食べよう。太はそう決心して社務所を跡にしようとした。

「あれ、太さん?」

 唐突に後ろから声をかけられた。

 太が振り向くと、渡り廊下には弓納が立っていた。エプロン姿をしている所を見ると、どうやら料理の主は弓納であったらしい。

「弓納さん」

「望月さんなら今はいませんよ」

「ああ、うん。そうみたいだね。望月さんから連絡があった。それより、その姿は」

「ああこれですか? 丁度お腹が空いていたので、少し料理をと」

 一応望月さんには連絡を入れておきました、と弓納は付け加える。

「そうだね。お昼時だもの」

 太のお腹から微かに音が鳴る。それを聞き逃さなかった弓納は笑って、「よかったら食べますか?」と言った。

「うーん、えっと、謹んでいただかせていただきます」

 恥辱と喜びがないまぜになった顔で太は言った。


「それにしてもさやが元気そうで良かった」

 居間で食事を摂った後、縁側で弓納と二人になった時に太は言った。

「昨日のこと、望月さんから聞きましたよね」

「うん。そのことはさやには?」

「いえ、話してはいません。でも、自分が原因で何かあったことは薄々感づいてるみたいです」

「そっか、さやは勘が鋭いからね」

 あまり一緒にいた期間は長くはないが、さやは細かなことにも気が付いた。以前、ちょっとした遊びで推理ゲームをしたことがある。正解率が数パーセントなどと呼ばれる問題で自分も弓納も解けなかった問題であったが、さやはそれを少し考えた後、「あっ」と言ってあっという間に解いてしまった。普段は朗らかでそんなことをおくびにも出さないが、実際の所彼女は内々で色々と考えているのだろう。

「これからどうするべきか考えないといけません。何となくですが、少しずつ良くない方向へ向かっているような気がします」

「そう、だね」

 真夜中に起きた事件。これは何者かがさやを狙っていたということだ。そういえば、弓司庁の日向という男がさやを探していると言った。では、これは弓司庁の仕業なのか。

「一体、さやが何だって言うんだろう」

「太さん?」

「ううん、何でもない。さて、僕も、自分の出来る範囲で何か考えてみないと」

「二人共、話は終わった?」

 二階から降りてきたさやは言った。彼女は食事が終わった後、二人で話があることを察してか「ちょっと部屋掃除しときたいから」と言って二階へ上がっていた。

「うん、大丈夫。もう終わった」

「そっか、じゃあそっちいくね。お話混ぜてー」

 さやは縁側まで来て弓納の隣に座った。西日に照らされた白銀の髪が煌めき、まるで舞台照明に照らされたかのように、一層彼女の美しさを際立たせた。


 しばらく三人で他愛のない会話をした。大学や高校で起きた珍妙な出来事や市内のとある公園で五つ葉のクローバーがあったことなど、特にとりとめもない会話の連続であったが、不思議と話題が尽きることはなく、あっという間に時間が過ぎていく。さやは相変わらず楽しそうであったし、そんなさやの様子を見て、太と弓納の二人は少しだけ安堵した。

 束の間の会話の間が出来た時、ふと、さやは縁側から外の庭へ出て空を見上げた。

「この時期は日が落ちるのが早いね」

 言われて二人は空を見上げると、空は夕暮れの景色を帯び始めていた。太は腕時計で時刻を確認したが、既に時間は四時過ぎを指している。

「ああ、もう四時だったのか」

「そんなに経ってたんですね」

 弓納もそんなに話していたとは思っていなかったようで、少し驚いているようであった。

「ねえ、二人共」

 さやは少しの間の後、ゆっくりと弓納と太の方を振り向いた。

「私、はじめや小梅、詠子さんや天野さん達と会えてよかったです」

「どうしたの? 突然」

「ううん、何でもない。ただ、言っておかないとー、って思っただけ」

 そう言った後、「やっぱり駄目だ」とさやは首を軽く振った。

「ごめんなさい。あのね、やっぱりもやもやするから聞いておこうと思います」

「え」

「私が今外に出れない理由。それって、神社をお留守番にするのが問題だからなんじゃなくて、私を守るためなんでしょう」

「……それは」

「うん、そうだよ」

「弓納さん?」

「太さん。もう嘘をついても仕方がないみたいです」

 確かに、さやは賢いからそれらしい嘘を並べ立てたところで穴を突かれてしまうだけだろう。大体、神社を留守に出来ないのであればさやが来る前は一体誰が留守番をしていたのかという話になってしまう。望月が何処まで考えてそう言ったのかは判然としないが、少なくともそれではさやを騙すことなどは出来ないであろう。

「あの時何となく分かったよ。小梅や詠子さんは普通じゃない何かを相手にしているんだなあって」

「あの時?」

「うん、昨日小梅が公園に行った私を連れ戻しに来てくれた時」

「あ」

「あの時ね、ぼんやりとだけど少しだけ意識があったんだ。夢かと思ったけど、小梅に抱きかかえてもらった時の感覚は覚えてる」

「そうだったんだ」

「ごめんね。皆に迷惑かけてばっかり」

「さやが気にすることなんかじゃないよ。これは、私達が決めたことだから」

「うん、ありがとう。ホントにありがとう。あのね、私時々思うことあるの。もしも、もしもだよ」

 そう言って、また束の間沈黙した後、白銀の少女はゆっくりと口を開いた。

「もしも私がここの子供だったらどんなに良かっただろうって。学校に通って、神社の手伝いをして、料理を作って」

「さや」

「私が何の変哲もない子だったら、そんなことも出来たのかな。友達と他愛のない話をしたり、何かに打ち込んだり、恋をしてみたり」

 そう言って、気恥ずかしくなったのか、さやは少し頬を染めながら笑った。

「何てね。そんな私の妄想でした」

 夕日に照らされた彼女は息を呑むほどに綺麗で、しかし、どこかに消えてしまいそうな、そんな儚さを感じさせた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る