第四章 遠い日の思い出②

「どういうこと? さっき直進してたよね、私達」

「はい、それは間違いないかと。うーん」

 弓納は顎に手を当てて少し俯く。

「どうしたの?」

「さっき芥川さん。私はここの管理人だー、みたいなことを言ってましたよね。それに彼女は魔術のようなものを使うことが出来る。つまり、彼女はこの空間を色々弄ったり出来るんじゃないかと仮説を立ててみました」

「そんな。もしそれが本当なんだったら、このまま彷徨っててもどうしようもないじゃない」

「元より彼女はそのつもりなのかも。そうすれば外で自分を邪魔する人がいなくなりますから。どうしましょう、いっそ大人しくそこら辺の本でも開いて読書に耽りましょうか」

「冗談じゃないっ! そんなことしてたら餓死するって」

「それもそうですね」

「もう弓納さん、結構呑気ね」

 日夏は呆れたように言うと、弓納は屈託なく笑った。

「いえ、こういうのは割と慣れてるので」

「慣れてるって、貴方普段どんな日常を送っているの」

「それは企業秘密です」

「……まあいいわ。それより、何か策はないの?」

「はい、実はですね。あるんです。出る方法」

「え、あるの?」

「はい。でも、これは中々の悪手というか、強引な方法なのであまりやりたくはないのですが……」

「背に腹は変えられないわよ」

「そうですね。ではこれは不可抗力だということとさせていただきます」

「それで、一体どうするの?」

「とても簡単なことです。これは以前、風変わりな御仁から聞いたことなのですが、まあ見ていてください」

 そう言うと、弓納は近くにあった明かりへと歩を進めた。


「あり得ないったらあり得ない」

 いつの間にか弓納と日夏の前にいた芥川は苛立たしそうな顔をして弓納を睨めつける。

「やっぱり怒らせてしまいましたか」

「当たり前よ。”図書館を燃やそうとするなんて”愚劣な行いにも程があるわ」

「そう言われると、とても辛いです。正直なところ、自分も断腸の思いでしたので。まさか焚書の真似事を自分がするなんて」

「……ここはね、本の冥界でもあるの。禁書と蔑まれて燃やされたりバラバラにされたりした本達をここに収蔵している。そしてその管理は、この図書館、私の大事な使命の一つ。貴方達の行為は、知性も理性もないケダモノの所業よ。分かっていまして?」

「ちょっと勝手なこと言わないで、図書館に閉じ込めたのはそっちでしょ。これしか方法がなかったのに、こっちが悪者だなんて、そんなの納得いかない。ソフィー、聡明な貴方なら分かるでしょ? これは、元はといえば貴方の行為が引き起こそうとした結果よ」

「う、それは、だって貴方が……」

 芥川はしどろもどろになりながら、目を泳がせる。

「さて、それはそうとしてどうしましょうか? 貴方はこうしてここに再び姿を出したわけですが……降参?」

 降参、という言葉を聞いてそれまで泳いでいた芥川の目は再び弓納を見据えた。

「甘いわね、まだよ。奥の手くらい持ってるんだから」

 眉根をしかめた芥川が手にしていた本の一ページを開くと、そこから黒々とした煙を放って何かが飛び出してきた。空中を漂っていたそれはやがて地に降り立ち、重々しい咆哮を放つ。

 咆哮を放った者を覆っていた煙が晴れる。それは異形の獣そのものであった。獅子と山羊の頭、尻尾の蛇、片方だけ不自然に生えたコウモリのような羽。あえて自然の摂理に反するかのような姿のその獣は、しかし、そこで確かに体を振動させ、喉を鳴らし、生暖かい吐息を漏らしていた。

「な、何よあれ」

 日夏が後ろに下がろうとしてつまずき、尻もちをつく。

「ねえ二人共、キマイラって知ってるかしら?」

 芥川は獣の脇腹を優しく撫でながら言った。獣は心地よさそうに静かに唸る。

「確か、ギリシャ神話に登場する伝説の獣、ではなかったですか」

「その通りよ、弓納さん。本当はもっと穏便にことを済ませたかったのだけど、こうなったら仕方がない。殺すなんて物騒なことはしないわ。でも貴方達を気絶させて、私に関する記憶を吸い取らせてもらいます」

 芥川は目を逸しながら言った。

「困ります。学生生活に支障が出てしまいそうですね」

「軽微なものよ、私との関わりなんて。でもそうしないと、貴方達は諦めてくれないから。ホントはこんな、いいえ、何でもありません」

「ソフィー、貴方」

「ああ安心して。この子に貴方達を肉体的に傷付けるようなことは出来ないから。でも」

「精神的な攻撃を加えることは出来る、とか」

「そうよ弓納さん。キマイラは最後は勇者に退治されてしまうのだけど、貴方達は英雄に《ベレロフォン》はなれるかしら」

 行きなさい! その呼びかけと共に三頭の獣は咆哮をあげ、弓納目掛けて突進していく。弓納はそれをギリギリまで引きつけてから、一気に横に跳躍して躱した。

「ふふ、いつまでそうして躱し続けるつもりかしら、弓納さん?」

 獣は体を捻ってその巨躯の向きを変え、再び弓納目掛けて覆い被さるように襲いかかった。

「弓納さん!」

「大丈夫です、問題ありません」

 弓納は身を屈めて書架が所狭しと立ち並ぶ一角に飛び込む。

「障害物を使っての鬼ごっこ、かしら。いいわよ、受けて立つわ」

 芥川は口元を微かににやけさせる。

「行きなさい、鬼から逃げる悪い子を見つけてくるのよ」

 言われたままに獣はのそのそと書架が立ち並ぶ空間へと入っていった。

 芥川と日夏のみになった広場に嫌に静寂な間が続く。三頭の魔獣は追うのに手間取っているのか、ゆっくり追い詰めることを楽しんでいるのか、時々微かに鳴き声を発していた。

 日夏が立ち上がる。

「あら、どうするつもり?」

「もちろん、貴方を抑えてあの化物を止めさせるのよ」

「ふふ、いいわよやってみなさい」

「この、甘く見ないでよ」

 日夏は震えていた足を力強く蹴リ出して芥川に向かって駆け出した。

「やあっ!」

 日夏は芥川に掴みかかろうとするが、肩に手が着こうとした目前でヒョイと躱されてしまう。日夏は勢いあまってつまずきそうになったが、すんでのところで体勢を立て直した。

「運動神経には自信はないけど、流石に今のに捕まるほどノロマではないわよ」

「おのれ、文学少女め。やるじゃない」

「諦めないつもりね。いいわ、気の済むまで来な――」

 言いかけた直後、大きな物体がまるで野球ボールのような軌道を描きながら、しかし受け止めるものなく無残にも地面に叩きつけられる。

 叩きつけられた物体は呻き声を発しながら体をピクピクさせる。今にもその3つの口から泡を吹きそうである。

「えっ!?」

 自らの放った曲者が再起不能に陥った様を見せつけられ、芥川は思わず声が裏返ってしまう。

 キマイラの飛んできた方向を目をやると、右足を突き出したままの弓納が立っていた。

「的が大きくて何より。これなら百発百中です」

 突き出した足をゆっくり戻しながら弓納は言った。

「うそ、冗談でしょ」

「さて芥川さん、もしかして奥の奥の手とか隠してたりしないですよね。そんなのあったら、流石に私も参っちゃいますが」

 芥川はその場に力なく座り込み、再び脇の獣を見やる。そして観念したかの様に俯いて目をそっと閉じた。

「ないわ。キマイラは私のとっておきよ」


「私の負けね、いいわ。あの誰も来ない退屈な書庫に大人しく収まりましょう」

 その場に座り込んでいた芥川は弱々しく言った。

「まあでも、これはきっと罰ね。アリス、日夏さんの迷惑なんか考えずに飛び出しちゃったもの。所詮私は人の所有物。自分の自由なんか求めてはいけない立場だったのよ」

「あの、芥川さ――」

 弓納が言おうとするのを制して、日夏はズカズカと芥川の前に立った。

「やっとちゃんと話が出来る」

 日夏は言った。

「ごめんなさい、日夏さん。私――」

「ごめん」

 日夏は頭を下げる。その様子に芥川はキョトンとした表情をする。

「え」

「貴方の気持ちも考えないで自分の都合のいいことばかり考えてた。今まで放置してたのにいなくなったら戻って来いだなんて虫のいい話よね。だから、もう戻って来いだなんて言わないわ」

 日夏は頭をあげてしっかりと芥川の目を見据える。

「今まで本当にありがとうね。貴方を手放すのは惜しいけれど、それが貴方の、ソフィーの意志なんだったら私はもう……」

 日夏は踵を返し、そのまま図書館の出口へと歩を進めた。

「さような――」

「待って!!」

「っ!?」

 芥川は思い切り日夏の腰に飛びつく。その勢いで二人は地面に転んでしまった。

「あっつう……ちょ、ちょっといきなり何するの!」

「また、一人にするつもり?」

「え?」

「私ね、本当のこと言うとこの高校に来る前から貴方のことを遠くから見てたの。でも、真っ向から話をすることなんか出来なくて。だって、貴方が書斎に来なくなったのは私のことを嫌いになったからだと思ったから。だから、どんな顔して会えばいいか分からなくて、もしかしたら嫌な顔されるかもしれないかと思うと、だからっ!」

 ぽん、と日夏は芥川の頭に手を置く。

「やれやれ、そういうことか。この困ったさんめ」

「アリ、ス……?」

「もう、勘違いしないでよね。私は貴方のこと嫌いになったなんていつ言ったのよ」

「うう、それは」

「全く、変わってないわね。変わったのは外見だけか」

 それを聞いて芥川は頬を紅潮させつつも、眉間に皺を寄せる。

「な、そ、そこまで言うことないじゃないの。この飽き性!」

「なっ! なんでそんなこと知ってるのよ。このストーカー野郎!」

「野郎じゃないしストーカーじゃない! あんた昔からそうだったじゃない!」

「ち、違うし! 見聞深めてたんですー。得意げに本の化身だか図書館の化身だか恥ずかしいこと豪語しておいて、そんなことも分からないの、この馬鹿娘!」

「ばかあ!? この私に馬鹿って言ったわね!? 身の程を知りなさい、この阿呆娘め。私の叡智の百億分の一にも及ばない癖に!」

「はん、叡智だって? そんな偉そうなもの持ってる癖に小娘の私と同レベルの争いするんだー」

「キーッ!」

 芥川が顔を紅潮させて日夏に掴みかかる。日夏も負けじと彼女に応戦した。

「ふん、酷い有様ね。お前なんかこうしてやるわ!!」

「いい度胸ね。その細い腕でどこまで出来るか見ものだわ!」

「なにぃ~!」

 二人は恥も外聞も忘れたと言わんばかりにお互いの髪を掴んではクシャクシャにする。その様子を見かねてか、弓納は二人に呼びかける。

「あの、二人共。喧嘩は駄目です」

 しかし、二人は目の前の案件をこなすことで精一杯らしく、弓納の呼びかけなど全く意を介さなかった。

 何事も耳に入れようとしないその様子に、弓納は自分の中で何かの線が切れるのを確かに感じた。

「ですからいい加減に」

 弓納は腹にありったけの力を込める。そして、これまでの鬱憤を晴らすかのように叫んだ。

「やめてくださああああああああああいっ!」

 建物を揺らそうかというほどの大きな声に、醜い取っ組み合いをしていた二人はそれをやめて咄嗟に耳を手で覆った。


       ○


 気がつけば見慣れぬ図書館は姿を消し、いつもの学校図書館へとその風景が変わっていた。館内は相変わらず静寂に包まれており、時折、夜鳥のさえずりが聞こえてくる程度である。

「ねえ、芥川さん」

 寝起きの如くかき乱れた髪に涙目の日夏が芥川にそっと語りかける。

「グスン。何よ」

 知性というより野生味を感じる姿に涙目の芥川がそれに応える。

「今度さ。二人で話しない?」

「……う、うん」

 芥川はぎこちなく何度もコクリと頷く。

「一杯話したいことがあるの。あの書斎から出てきてそれなりに色々あったから」

「それは私も。貴方に聞かせたいことが沢山ある。でも正直困った」

「何が?」

 芥川は首をかしげる。

「だって、沢山有りすぎて却って何を話せばいいか分からないから」

「ぷ、何それ」

「わ、笑わないでよ。自分で言ってておかしくなるじゃないか」

 そう言いながら芥川につられて日夏もクスクスと笑い出す。

「ああ、あの。いい雰囲気になっている所申し訳ないのですが」

 図書館の片隅で佇んでいた弓納がおそるおそる二人に語りかける。

「ああ、ごめん、弓納さん。そうだね、いつまでもこうしてる場合じゃなかった」

「ええ、それもあるのですが……」

「……どうしたの?」

「周りを見てみてください」

 言われて、二人は辺りを見回す。そこら中に本が散乱してしまっており、この空間だけハリケーンに見舞われたかのような様相を呈していた。

「あ、これ。あの時の」

「見つかったら大目玉だと思いますが、どうしましょう」

 日夏は徐ろに芥川の方を向いた。

「本を元通りに治す魔法みたいなもの、ないの?」

「あの図書館の中ならともかくだけど、そんな都合のいいものはないわ。まあこれは、地道に片付けるしかないわね」

「うそ……」

 日夏はうなだれる。

「大丈夫よ、二人共。本は傷一つ付いてないから」

「いや、それはよかったけどそういう問題だけじゃないから」

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