第28話 淫魔の手管


 手に触れた感触は、とても滑らかで氷のようにひんやりしていた。これがメイアが言っていた、世界一美しい蟲と呼ばれる氷蛾が落とす最高級の絹布なのだろうか。氷蛾が生息するレイアス雪原の魔物の討伐必須レベルは最低でも50はいると聞いている。もう少しレベルを上げてから自分で採取しにいこう——。



「いやはや、この街に黒瞳がいると知った時は驚いて心臓が止まるかと思ったぞ」



 ——束の間の現実逃避は終了。


 領主が肥えた体をバスローブに包み込んできたため意識を現在に戻した。

 シャワーを浴びたくせにまだ脂でテカる髪をタオルで乱雑に拭きながら、下卑げびた笑顔を浮かべた。どすどすと動くたびに顎肉や腹が揺れて、振動が床を伝い、ベッドに腰掛けるユイにも伝わってくる。あんな巨体に乗っ掛られたりしたら確実に自分は潰れる。クレープ生地のようにぺしゃんこだ。


「ユージンめ、儂に隠すつもりだったな」


 領主はユージンのことが好きではないらしい。ぶつくさと文句を言いながらユイの側へと着実に近付いてくる。


「わ、私もお風呂をお借りしてもいいでしょうか?」


 ついにベッドにたどり着いた領主を見上げ、慌ててユイは口を開いた。逃げることはできないが、心の準備のために時間が欲しい。十分、いや五分でもいいので一人になりたい。

 ユイの願いは領主には届かなかったようで、脂肪で膨らんだ顔に気持ち悪い笑みを浮かべたまま「大丈夫だ」と首を振った。

 なにが大丈夫なのか、ユイが混乱していると領主は更に距離を詰めてくる。シャンプーと汗が混じった異臭に息をひそめる。


「儂は気にしない」


 あ、話が通じない。無理矢理、自分を攫ってきたがこの男は領主。この街を治める男なのだから少しぐらい会話は成り立つと思っていた。


(無理、絶対に無理。死ぬ)


 話が通じないということは、行為中にこっちが痛みなどで中止を訴えても「いや良いやよも好きのうち」と勘違いする確率が高い。

 ……もう腹をくくるしかない。初体験は痛いと相場が決まっているのだ。もし無理に受け入れて出血過多となってもアリスがいる。黒瞳、レアスキル持ちの女を見殺しになんてしない、と信じよう。


(でも、無理……生理的に)


 ユイは生まれてこの方、恋愛というもの興味はなかった。両親が不仲で喧嘩ばかりなのも相まって、誰かと付き合うなど考えたことがない。思春期のクラスメイト達に合わせて適当に好みを言っていたが本心はどうでもよかった。

 なのだが、領主の容貌は思わず顔をしかめたくなるぐらい生理的嫌悪を覚えた。こんな糞な状況になって、やっと自分にも好みというものが存在することに気がついた。


 現実逃避はやめないと、と思うが領主が近づくたびに思考は遠のいていく。


(メイア! アリス! ユージンさん!)


 ユイは脳裏で助けを求めた。

 太った指が器用にユイの服を脱がせはじめ、分厚い唇が首元に——。


(エリーゼさん! 助けてくれるって言ったじゃん!!)


 恥ずかしがるふりをして領主の胸を押し返した。これ以上、唇が肌に接近するのを阻止しながら、エリーゼの姿を思いはせる。なぜ、そこまで親交の無い彼女が思い浮かんだか自分でも理解できないが、エリーゼなら自分を救ってくれるという確信めいたものがあった。

 その時、



 ——ピロリーン。



 状況に見合わない、気が抜ける音が聞こえた。



『スキル【淫魔の手管】を発動しますか? 消費魔力は180です』



 脳内に響くのは男か女か分からない機械の声。それはユイにしか聞こえていないようで、領主は距離を縮めてくるのをやめない。懸命に押し返した。

 生臭い息が顔にかかり、ユイは悲鳴をあげた。



『スキル【淫魔の手管】を発動しますか? 消費魔力は180です』



 またもや響く機械の声。どうやらユイの判断を待っているようだ。

 スキルを使用したことはない。内容についても適当に流し読みしたので覚えてはいない。

 けれど、この状況を打破できるのはスキルだけ。ユイは(使う! 使います!)と心のなかで叫んだ。



『指定効力を選択してください』



(指定効力?! え、眠らせたり、麻痺させたりってこと?!)



『指定効力の選択はひとつです。【睡眠】【麻痺】どちらを選びますか?』



 麻痺で意識を無くすのは無理だ。

 ならば選ぶのは前者、【睡眠】しかない。

 眠らせたのならワンチャンある。昨日、しっかり私は相手をしましたよ? 眠っていて忘れたんじゃないんですか? が、できる。


(眠らせて! 睡眠!! 早く!!!)


 ユイは未知なスキルが持つ一縷の望みにかけた。



『スキルを発動します。スキル【淫魔の手管】。指定効力【睡眠】』



 すると、どこからともなく現れた光の粒子がユイを中心に集うと淡く輝き始めた。

 光はどんどん輝きを増して、ちゅうを広がり、部屋全体を包み込む。輝きが収束したのと同時にベッドが大きく揺れた。


「……助かった?」


 ベッドに倒れ込んだ領主は幸せそうな笑顔で、寝息をたてていた。

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