娼婦ユイの日常

萩原なお

第1話 神様と名乗る少年



「やあ、こんにちは。驚いたかい?」



 洗練された雰囲気を持つ少年が疑問形で語り掛けてきて、百瀬ももせゆいは驚きに身体を硬直させた。


(……ここは?)


 状況を理解できず、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。自分はつい先程まで教室で授業を受けていたはずだ。古文の担当教師である松岡が平家物語の一節を口頭で説明し、それを聞きながらノートの端に可愛くもない猫の絵を描いていた。それなのに欠伸あくびを噛みしめた瞬間、目の前には真っ白な空間が広がっており、自分は仁王立ちで立ち竦んでいた。


「……君は?」


 唯は少年の硝子がらすの瞳を見つめて、問いかけた。

 すると、人形のようにがらんとした双眸そうぼうが愉快そうに弧を描く。少年は唯の質問には答えずに「驚いたようだね」と満足そうに笑った。


「君以外もいるんだよ」


 その言葉に唯は周囲を見渡した。少年が言う通り、両隣に見知った顔が並んでいるのに気付く。いや、見知ったも何も先程まで同じ空間で授業を受けていたクラスメイトである。

 左隣にいた柚木ゆのきじんも唯に気付いたようで「え」と小さく呟いた。どうやら彼も自分と同様に気付けばここにいたらしい。日本人にしては目鼻立ちがくっきりとした顔は不安からか嫌に蒼白い。


「百瀬、ここって」


 その問いに唯は首を左右に振った。


「ごめん、分からない」


 気付いたら自分もここにいたのだ。陣が望む回答が出来ず、唯はまつげを伏せた。すると視界に入る光景は白一色で、それは床も同様なのだと気付く。

 しゃがみ込んで床を指先で撫でてみた。指先に伝わる感触は大理石のように冷たい。

 しかし、不思議な物質である。艶々と輝いているのに影すら浮かばず、目も痛くならないので唯は首を捻った。

 どんなに考えても理解する事が難しい。答えが見つかない歯痒い気持ちを押し留め、唯はスカートのすそを正しながら立ち上がった。

 にやにやと嫌らしい笑みを浮かぶ少年に話しかけようとした時、右肩に衝撃が走る。


「唯ちゃんもここにいるんだね!」


 場に似合わない浮かれた声を発したのは後藤ごとうりょうだ。抱きついた状態のまま、ずいっと顔を近づけるので頬に明るい猫っ毛が触れて、生理的な嫌悪感から唯は顔を痙攣ひきつらせた。嫌いではないが軽薄で女好きなこの男の事を唯は好きになれない。


「ごめん。離れて」

「えー。そんなこと言わないでよ。悲しいなぁ」


 体に巻き付く腕を解き、一歩後ろに下がる。距離を取ろうとしての行動だが良は気にする素振りを見せず、楽しそうに垂れ目を細めた。

 ふいに良が顔を持ち上げた。唯に対しての甘い笑顔とは打って変わり、白けた眼差しで口角を下げる。


「陣もいるんだ」


 ぶっきらぼうに言うと嫌そうに眉間に皺を寄せた。なぜ、そこまで嫌悪丸出しなんだろうと不思議に思い、その視線の先を辿ると陣が呆れた表情を浮かべているのが視界に入る。


「百瀬が困ってる。離してやれ」

「え、嬉しいと思うけど」


 ——誰が。


 つい、本音が口から出そうになり唯は唇を強く結ぶ。代わりに陣が唯の心を代弁してくれた。


「嬉しくはないだろ」


 唯は無言で頷いた。


「え、二人もここにいるの!?」


 良を挟んだ反対側で結城ゆうき蓮司れんじが声を上げた。少女の様にくるっとした目を大きく開き、一目散に三人の元へ走って来て、なんの躊躇もなく良を突き飛ばした。


「蓮司、わざとだろ!」


 尻餅をついた良が髪と同じく脱色させた眉毛を持ち上げた。痛かったのか目尻にはうすらと涙が溜まり、尻を擦っている。

 それに対し、蓮司は「あ、ごめん」と言う。あたかも息を吸って吐くように述べられた言葉に、涼しい表情は絶対に悪いと思ってはいない。

 いつもの優しい学級委員長からは想像もできない姿に唯は驚きに顔を強張らせた。


「ここってどこだか分かる?」


 蓮司は首を傾げながら問いかけてきた。彼も気が付いたらこの空間にいたらしく、現状を理解していないようだ。


「分からない。俺も百瀬も、そこにいる女好きも気が付いたらここにいた」


 女好きとは今もなお床に尻餅を付いている良のことを指した言葉だ。


「俺達だけ?」


 唯と陣は同時に頷く。


悪戯いたずら、にしては可笑しいね……」


 蓮司は眉根を寄せた。


「悪戯もなにも、こんな空間、興南こうなんにないだろう」


 入学してまだ半年しか通っていないが陣の言葉通り、興南高校に——自分達が知らないだけかもしれないが——このような空間は存在しない。


「……夢?」


 唯は先程から脳裏を過ぎる言葉を無意識のうちに口にした。


「さっき皮膚を捻ったけど痛かったよ」


 唯の独り言に蓮司は首を左右に振り、左手を見せた。甲には抓った跡がはっきりと浮かんでいる。


「痛みもきちんとある夢とか」

「うーん。夢、にしてはなんかリアルなんだよね」


 蓮司は困ったように頬を掻いた。


「夢としか考えられないと思うけど」


 はいはーい、と床に伸びた良が仰向けの状態で手を挙げた。唯達三人の視線が自分に向かったのを確認すると今度は両手を後頭部を支える為に回す。


「なんでそう思うんだ?」


 陣が少しトゲのある言葉で問いかけた。


「ここにさ、俺が先にいたんだよ」

「先に?」

「そ。で、気が付いたら近くに唯ちゃんとお前がいて、その次に蓮司が居た」

「どう言う事だ?」


 何度も問いかけてくる陣に苛立ったのか良が上半身を起こし、溜め息を吐く。


「だーかーらー。最初は俺一人だったのに少しずつ、知らない間に人が増えてるのっ!」

「知らない間に?」

「そ。みんながくる前にあいつに聞いたんだよ。ここはどこなんだ、悪戯か? って」


 良は少年を指さした。


「それで何て答えたの?」


 陣の代わりに蓮司が問いかけた。視線を少年へと向けた時、先程自分が居た場所にまた新たな人物が立っているのに気付いた。


「奈津?」


 蓮司は驚きに瞠目どうもくした。そこに居たのはりんとした雰囲気を持つ幼馴染——春日かすが奈津子なつこだったからだ。

 奈津子は豊かな胸を隠すように腕を組み、少年を威圧するかのように立っていた。


「奈津!」


 蓮司が奈津子に向かって手を振るが、勝気な少女は現状に怒りを覚えているらしい。返事を返す事もなく、眉間に皺を寄せながら少年を不愉快そう睨みつけていた。


「なんでここに私がいるの?」


 奈津子は喉の奥から声を絞りだした。冷静を装っているが震える声音と鋭い眼差しからは怒りが滲み出ている。


「あ、奈津子ちゃん」


 奈津子の存在を視認した良が語尾にハートマークを付ける勢いで声を弾ませると立ち上がり、奈津子の方へ駆け出した。けれど、クラス一冷静だと称される奈津子は良を視界に入れると米神こめかみに血管を浮かせ、舌を打つ。


「あんたに話しかけてないから話しかけないで。不愉快」


 目が合った相手を射殺しても過言ではない剣幕に唯と陣はそろって一歩下がった。蓮司だけは慣れているためか呆れた表情を浮かべている。

 あまりにも酷い言葉だが良は足を止めて、その場で楽しげに笑声をあげると頭の後ろに両腕を回した。


「えー、ひっどいな」

「酷くない。不愉快なのは真実よ」

「そんな奈津子ちゃんも俺は好きだよ」

「私は大嫌い」


 冷たくあしらわれながらも良は嬉しそうににやけた笑顔を浮かべるがそれ以上、奈津子に近付くことはなかった。

 良がこれ以上近づかない事を確認してから奈津子は少年へと視線を戻した。


「ねえ、答えなさい」


 その問いに少年は答えない。代わりに天使の美貌を喜色に染めた。


「何が楽しいの?」


 にこにこと笑う少年に奈津子は声を荒げた。


「あんたがしたってことは分かってんのよ」

「無駄だと思うよ」

「話しかけないでって言ったはずだけど」

「無駄な事は止めないと。だってその餓鬼、俺が何度質問しても笑うだけで一言を話さなかったし」


 良の言葉に唯は内心首を捻った。無言を貫く少年は、先ほど確かに言葉を発した。その言葉を先にこの空間にいた良も聞いているはずなのに彼は話さないという。

 自分の聞き間違いかと不思議に思っていると少年は林檎のように赤くれた口唇をゆるりと持ち上げた。



「さて、役者が揃ったところで本題に入ろうか」



 軽くまろやかな声音で歌うように言葉を発し、少年は唯達を見渡すと両の掌を合わせた。

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