第53話 「行って来ます。」
〇二階堂咲華
「行って来ます。」
「行ってらっしゃい…あ、海さん、待って待って。」
リズと手を繋いで、玄関先までお見送り。
季節は…春。
先月一歳になったリズは、もうすっかり歩き回って…目が離せない。
「いい子にしてろよ?」
海さんがリズの頭を撫でる。
「なるべく早く帰る。」
そして、あたしの頬にキスをする。
「気を付けてね。」
手を上げて富樫さんの車に乗り込む海さんの姿を、リズと二人で手を振りながら見送る。
九月に帰国して…あたしとリズだけは二ヶ月桐生院に滞在した。
本当は海さんと一緒にアメリカに戻りたかったけど…
…ちょっと色々あって。
でも、沙都ちゃんと曽根君と共にアメリカに戻れたから…良かったのかな。
彼らは今また、新作リリースと共に長いツアーが始まって。
しばらく不在。
意外とリズと仲良しな曽根君は、毎日のように『赤子の写メ!!』って、リズの写真を要求してくる。
いい加減、赤子って呼ぶのやめてよって言ってるのに。
リズは沙都ちゃんの歌が大好きなのか、リビングで沙都ちゃんの歌を流してると、とても笑顔になって身体を揺らせる。
その姿が可愛くて、ついつい…ずっとCDを流してしまう。
海さんはもう何度…同じ動画を撮ったか分からない。
少し風の強い午後。
リズはお昼寝中で、あたしは日本で撮った莫大な数の写真の整理をしていた。
コンコンコン
玄関のドアがノックされて、一度窓から外を見て…
「……」
少し躊躇したけど…ドアを開けた。
「…こんにちは。」
そこに立ってたのは…しーくん。
「…お久しぶり…」
「少しだけ、いいですか。」
「……」
正直…家に入ってもらうのは…抵抗がある。
だけど、何か言いたそうなしーくんを拒むのも…
「ここは開けたままで。」
あたしが悩んでると、しーくんは玄関のドアを大きく開けたまま…そう言った。
「…どうぞ。」
しーくんはリビングのベビーベッドで寝てるリズの顔を覗き込んで…少し切なそうな顔をした。
あたしはそれを見ないフリをして…お茶を入れた。
「…やっと、色々冷静に考えられるようになりました。」
二人で向かい合って座って…
しーくんが言葉を出したのは、あたしが沈黙に耐えられなくて、お茶を一口飲んでからだった。
…敬語で喋られるのは…当然。
当然なのに、何だかチクチクした。
「今更、こんな事を話すのもどうかと思ったのですが…俺の中でも区切りをつけたくて。」
「…何?」
「…朝子の事です。」
「……」
あたしは…朝子ちゃんを優先してしまうしーくんにイライラした。
いつだって朝子ちゃんが一番で…あたしは何なの?って、やきもきした。
あの日、どうしてアルバムなんて見てしまったんだろう。
気付かなきゃ良かった。
…二人に、血の繋がりがない事なんて。
「私には、本当に…朝子という妹がいました。」
それから…しーくんは。
その妹さんが、ある日突然いなくなった事。
ご両親がとても悲しそうな顔をされていた事。
リビングから、女の子のいる家の気配がなくなった事。
とにかく…何かが変わった事。
それらを…ゆっくりと話した。
「ある日突然、母から『朝子が帰って来た』と…一人の女の子を紹介されました。」
「……」
「それが…今の朝子です。」
やっぱり…朝子ちゃんは…
「あなたはお兄ちゃんなんだから、朝子を守るのが任務よ。と母に言われました。それが私に与えられた…最初のミッションでした。」
「……」
朝子ちゃんは…
ある事件に関わっていた人の娘で…
しーくんのお父様が…朝子ちゃんの本当の親を射殺したそうだ。
かなり厳重にブロックされて、閲覧できなかったその事件を調べるために…しーくんは渡米したと言った。
「なぜ、朝子と私に血の繋がりがないと…?」
「…気付いたか?」
「はい。」
「……」
窓から入る風が、しーくんの前髪を揺らす。
あたしは少しうつむき加減に…
「…アルバムを…見せてもらったでしょう?」
つぶやいた。
「…写真で気付いたのですか?」
「ええ。赤ちゃんだった朝子ちゃんと…その次に写ってた朝子ちゃんは、違ってた。」
「……」
「似てたけど…違ってた。」
あたしの言葉にしーくんは小さく溜息をついて一度目を閉じると。
「…さすがですね。」
意外な言葉を出した。
「え?」
「……いえ、何でもありません。」
しーくんはそれから少し黙って。
ゆっくりとお茶を手にして…飲んで。
「…実は、しばらくの間…家の近くまで来て生活の様子を見ていました。」
ゆっくりと…そう言った。
「……」
「あなたが…ボスを見送る姿…愛しそうに娘さんを抱き上げる姿…」
「……」
「私は…それらを見て、意外なほど自分がそれを夢に見ていなかったんだと気付きました。」
「…え?」
しーくんはゆっくりと視線を上げて。
「あなたを二年以上も待たせておきながら…その間、私は今のあなたの日常を思い描きもしていなかったようです。」
あたしの目を見て…小さく笑った。
「ボスから告白された時は、これは私と作るはずだったのでは?と強く疑問に思いましたが…」
「……」
「作るも何も…きっと私は今まで通り二階堂にばかり目を向けて、あなたに辛い想いをさせてしまう所でした。」
それは…
しーくんの優しい嘘だと思った。
束の間の、あのマンションでの時間。
あれは…捜査の一環だったと後で知っても…あの時の彼は、笑ってた。
あたしと居る時間を、精一杯…幸せに過ごしてくれてた。
あたしの目から、ポロポロと涙がこぼれるのを見て。
しーくんが…立ち上がった。
「……どうか…お幸せに…。」
「……」
「…咲華さん。」
あたしに深く…深く頭を下げた彼の声も…少し涙声だった。
ずっと…流れなかった涙。
だけど今は…それが止まる気がしない程…次々と溢れ出る。
しーくんはベビーベッドのリズをじっと見て…
優しく…そっと頬を触って、玄関から出て行った。
「ふ……っ…」
あたしは…止まらない涙を拭う事もせず。
ひたすら…座ったまま、泣き続けた。
しーくんの事…大好きだった。
優しい笑顔。
何をするにもスマートでカッコ良くて…
物静かな彼が、あたしを見て笑うのが、なぜか分からなくて困ったりもしたけど…
彼が笑うのが…嬉しかった。
優しい手が大好きだった。
首を傾げて不思議そうな顔をするのも…少し強引にあたしを抱き寄せるのも…
全部全部…大好きだった…。
「…しーくん…」
もうそこに居ない彼の名前をつぶやいて。
「…ありがとう…」
あたしは…
涙を拭って、顔を上げた。
〇二階堂 海
「……」
俺はその二人の会話を…開けっ放しになっている玄関のドアの脇に立って聞いていた。
今朝、本部に行くと志麻が…
「ボス、お願いがあります。」
俺の目を見て、言った。
「何だ。」
「今日の午後、ご自宅に伺わせて下さい。」
「……」
あまりにも唐突に、予想外の申し出をされた俺は…
少しの間、志麻を見つめたまま返事をしなかった。
「奥様と、お話がしたいのです。」
「……」
咲華と結婚して七ヶ月。
娘のリズは先月一歳になった。
何の不満もない…幸せな日々。
「私と奥様が話す事は許されませんか?」
「…いや、そうじゃないが…」
あれから志麻は…二階堂のために、アメリカでもドイツでもイタリアでも…そして日本でも。
今まで以上に動いて、俺を…二階堂を助けてくれている。
「奥様のお気持ちが揺らぐのではと心配ですか?」
それは…少し挑戦的にも思えた。
だが、志麻が挑発して来るには理由があると思った。
まだ…終わっていない。
志麻と咲華は、終わっていないんだ。
「分かった。」
俺がそう答えると。
「ボスにも、来ていただきたいのです。」
「え?」
「奥様に気付かれないよう、話しを聞いていて下さい。」
「……」
「お願いします。」
それがなぜなのか…
俺にはよく分からなかった。
だが…
二人の会話は…
朝子が志麻と血の繋がりがない事から始まった。
それを咲華が写真を見て気付いたと言う事に…驚いた。
確かに朝子は…東家とは血の繋がりがない。
だが、そういった事は二階堂では珍しい事ではない。
…朝子の事で…二人は別れた…?
それから志麻は…
毎朝、うちの近くに来ていた事。
咲華との未来を夢に見ていなかった事。
そして…幸せに、と告げて家を出て来た。
俺は玄関脇で壁にもたれて。
腕組みをして、それらを全部聞いた。
志麻は俺の前で深く一礼すると。
「…ありがとうございました。」
小さくつぶやいて…歩いて行った。
開いたままのドアから、咲華のすすり泣く声が聞こえた。
…志麻と別れた理由を…話したがらなかったのは、朝子が絡んでいたからか。
俺の許嫁だった朝子。
咲華は色々気を使って言えなかったのかもしれない。
志麻に与えられた最初のミッション。
それが朝子を守るという事。
周りから見ても、志麻の朝子に対する接し方は、単なる妹思いの兄としては度が過ぎていたのかもしれない。
だが、それがミッションとなると話は違う。
…志麻は、根っからの二階堂体質だな…
少し複雑な想いは残ったが、本部に戻って仕事をした。
明日からドイツに行く志麻は、富樫と仕事の調整についてミーティングしていた。
…俺が思わなくてもいい事だろうが…
志麻には、幸せになって欲しい。
それは、償いの気持ちとか、そういうものではなく。
ただ単に…弟のように育って来た志麻に。
普通に…兄のように…そう思う。
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