第33話 「おはよう。」

 〇二階堂 海


「おはよう。」


「おはようございます。」


 昨夜…沙都と飲んだが酔えなかった。

 緊張していたのだろうか。

 寝室に入ると、咲華も…目は閉じていたが、恐らく眠ってはいなかったと思う。

 いつも聞こえてくる寝息とは違っていた。



 今朝はいつも通り…リズに離乳食を食べさせて、咲華と朝食をとった。

 トシはいつ帰って来たのか、相当遅かったのか起きて来ず。

 沙都も俺が出かける頃にやっと眠そうな顔で二階から降りて来た。



「富樫。」


「…はい。」


 椅子に座って声をかけると、富樫は少し緊張した面持ちで俺の前に立った。


「…志麻は来てるか?」


「…はい。恐らく…昨日は帰っていないと思われます。」


「え?ずっとここに居たのか?」


「地下のデータ室にこもっているかと…」


「……」


 無意識に…指を組んで指輪を触っていた。

 今までも…志麻が徹夜でデータ閲覧をしていた事はあったじゃないか。

 二階堂では珍しい事ではない。

 俺だって…現場が立て込む時には、そうする事があった。


 …ただ、今は…

 徹夜してデータを見なくてはならないほどの現場は、ない。

 それだけで…

 志麻が仕事以外の事を考えたくないと思っているのが…分かる。



 …どうせ来週には帰国して言うつもりだった。

 それが少し早まっただけだ。

 何てことない。

 正直に…話して…

 頭を下げるだけだ。



「……」


 意を決して立ち上がると。


「ボス…私も…ついて行ってよろしいでしょうか。」


 富樫が眉間にしわを寄せて言った。


「…昨日、志麻と何か話したか?」


「何があったのかと聞いても…自分がバカなだけだ、と言い張って…」


「…別れた理由は言わなかったのか。」


「あの日…と何か話しかけたのですが、結局は結婚に踏み切れず待たせ過ぎたせいだと。」


「……」


 それだけじゃない気がする。

 だが、二人が口にしない理由を無理矢理聞き出そうとするのも悪趣味だ。


「一人で行くよ。」


 前髪をかきあげて言うと。


「どうか…私も同行させて下さい。」


 富樫は鬼気迫るような表情…


「志麻は…普通ではありません。」


「……」


「ですから…どうか、同行させて下さい。」


「…分かった。」


 富樫の迫力に押された。


 志麻が普通じゃない…?

 それほどに…咲華との別れは志麻の精神を蝕んだと言うのか?



 富樫とエレベーターに乗り込んで、地下二階に降りる。

 データ室に向かいながら…

 俺は、志麻しま瞬平しゅんぺい薫平くんぺい、弟のように育った三人の事を思い浮かべていた…。



 富樫とエレベーターで地下に降りて。

 いくつか並んだ部屋の一番奥にあるデータ室に向かった。


 俺は…今となっては…華音と紅美を祝福できるが。

 あれが、紅美とちゃんとした最後の別れの時間を持ててないままでいたら、今も引きずっていたかもしれない。

 実際、無理矢理終わらせた後の俺は…酷く荒んでいた。

 一般人を死なせてしまった件も大いに手伝っていたが、結局はどちらも捨てきれない想いで。


 紅美にも…引きずらせた。



「……」


 ドアの前に立って、小さく息を整えた。

 …志麻に会うのはいつぶりだ?

 六月に一度帰国した時に会って…それ以来会っていないか。



 ドアを開けて中に入ると、腰高のパーテーションで仕切られた8つあるデスクの一つに、志麻がいた。

 他には誰もいない。


「…志麻。」


 その横顔に声をかける。

 今までなら、ドアが開いた瞬間にはこっちを見ていたはずであろう志麻は…

 呼ばれて初めてその存在に気付いたと言わんばかりに、俺を見てゆっくり立ち上がった。


「…ご無沙汰しております。」


 深々と頭を下げた志麻を見て…俺は少し呆然とした。

 あれほど…身なりもきちんとしていた志麻が…

 富樫が言う『志麻は普通じゃない』が分かる気がした。


 …こんな状態の志麻に…打ち明けていいものか、少し悩んだ。

 悩んだが…隠し続ける方が残酷だ。


 俺は志麻の前まで進むと。


「…志麻。」


 志麻の目をしっかりと見つめた。


「…はい。」


 志麻の目をしっかり見つめるが…そのうつろな視線に、俺の胸は痛んだ。


「……」


 無言で、志麻の足元に土下座をした。


「…ボス…?」


 志麻が不思議そうに声をかける。


「…これは…いったい…?なぜ…そのような…」


 志麻は困惑したように、俺と…入口に立ったままの富樫を交互に見て。


「なぜ…ボスが私に…?」


「…志麻…聞いてくれ。」


「……」


「…八月の半ば…ある女性とバーで知り合った。」


「……」


「お互い…ものすごく酔っ払って…翌朝目覚めたら…一緒にいた。」


 志麻は…何か察したのか…

 眉間にしわを寄せて、俺を見下ろした。


「一緒にいただけじゃない。酔っ払って…婚姻届を書いて…教会で式を挙げて…施設から子供も引き取ってた。」


「……」


「俺が…結婚した相手は…」


「……」


「…桐生院咲華だ。」


「……」


「……」


「……」


「……」


「……」


 俺の言葉の意味が、ようやく飲みこめたのか。

 志麻は長い沈黙の後、小さく…


「……え…っ?」


 本当に小さく…声を上げた。


「…すまない。」


「………ど…どういう…事…でしょ…う…?」


「……」


「……結婚…?」


 志麻は呆然とした声でつぶやくと、俺の左手の薬指に指輪を見付けて。


「…咲華と…?」


「……ああ。」


「…結婚…」


 ひたすら…咲華の名前と、結婚という言葉を小さく繰り返した。


「志麻の婚約者と、何てことを…と思ったが、彼女から志麻とは別れた事を告げられた。」


「……」


「それでも…有り得ないという気持ちはあった。だが…時間が経つにつれて、お互いの気持ちが…」


「う…」


「……志麻…?」


「う…ううあ…」


 そのただならぬ様子に、富樫が志麻に駆け寄った。

 その時…


「うわああああああああああああ!!!!!!」


 志麻は大声を出して頭を抱えると。


「志麻!!」


 俺と富樫が止める間もなく、走ってデータ室を出て行った。

 そして…


「志麻!?」


 志麻はデータ室のドアを外から開かないようにして。


『緊急事態発生。シャッターを下ろします。』


 緊急時に降ろされる、地下と地上を遮断するシャッターを…作動させた。



 〇東 志麻


 咲華に別れを告げられて…二ヶ月…

 集中力に欠け過ぎている俺は…現場でミスをし…

 あれ以来、ずっとデスクワークだ…


 …情けない。


 解っている。

 自分が全て壊した事だと。

 解っているが…自分で自分をコントロールできない…



 …ある事件の資料を探していたが、日本では見付けられなかった。

 それがどうしても気になって…渡米した。

 そこで…富樫さんに会って…酷く心配された。


 仕方ない…か。

 最近は食べる物も味が分からない。

 どうやって息をしていたかさえも…


 何があった?と聞かれ…

 あの日…と、別れて初めて…咲華との間にあった色々な事を思い返した。

 咲華が言った、『あなたは日本にいたのに、あたしには会いに来なかった』という言葉が…

 本当に…深く…刺さった。


 富樫さんに『あの日』と言ったものの…

 いったいどの日の事を話していいのか、何もまとまらなくて。

 ましてや…

 朝子に対して恋心があると疑われてた…なんて…


 …言えない。


 そうなると、朝子と血が繋がっていない事も…疑われてしまう。



 ホテルに帰る気力もなく、そのままデータ室で一夜を明かした。

 見たいデータはかなり強力にブロックされていて。

 そうなると…もう俺も意地になって…

 朝までかかって…何とかその資料を見る事が出来た。


 …色んな線と点が繋がって…

 溜息をつきながら…これもまた…自分の胸の内におさめておこう…と思った矢先…

 …ボスと…富樫さんがやって来た…


 そして、ボスは…


「志麻…聞いてくれ…」


 俺に…

 とても…とても…

 信じられない話をした。


 …咲華と…咲華とボスが…

 …結婚した…と。



 もう俺と咲華は終わっている。

 だったら仕方ない。

 仕方ないんだ。

 咲華が誰と恋を始めようが…

 仕方ないんだ。


 …本当にそうか…?


 なぜ…

 なぜ、ボスなんだ?

 ボスだって現場に出るじゃないか。

 俺みたいに連絡がつかない事はある。

 俺はダメで…ボスはいいのか?


 なぜ。



 瞬時に…色んな黒い感情が頭の中に渦巻いた。

 気が付いたら、俺は奇声を発してデータ室を飛び出して。

 …地下と階上を遮断するシャッターを作動させて…



「…咲華…」


 駐車場から、ボスの家に…車を走らせた。




 〇桐生院咲華


「ばっ。」


「あはは。リズちゃん、いないいない~…」


「ばっ。」


「ふふっ。上手よ~?」


 あたしとリズちゃんは…今日も前庭でくつろいでる。


 沙都ちゃんは事務所から呼び出されたって、眠そうな顔のまま出かけて行って…

 曽根君はいいの?って言ったんだけど。

 ツアーの時、かなり頑張ってくれたからいいんだー。って。

 …沙都ちゃん、優しいなあ。



「あー。」


 リズちゃんに頬をピタピタと触られて、気持ちいいなあって思った。



 …夕べは…あまり眠れなくて…

 それはきっと、海さんもそうで…

 だけど今朝はいつも通り、リズちゃんにご飯を食べさせてくれて…笑顔で仕事に出かけて行った。


 …しーくんは…

 海さんから告白されたら…

 どんな…反応するんだろう…


 上司だもん…

 怒れない…よね…?

 我慢するしか…ない…よね?


 …あたし…

 酷いのかな…

 しーくんを捨てて…さっさと幸せになっちゃうなんて…


 リズちゃんの頭を撫でながら、小さく溜息をつくと。

 突然、黒い車がすごいスピードで走って来て…うちの前で停まった。

 驚いてリズちゃんを抱きしめると。


「……咲華…」


 運転席から…

 一瞬…誰か分からないほど…

 やつれて…顔付きも変わってるしーくんが降りてきた。


「……」


 あたしはリズちゃんを抱きしめたまま、しーくんを見つめた。


「咲華…」


 しーくんは一歩ずつ…ゆっくりと…あたし達に歩を進めてる。

 あたしは…


「…久しぶり。」


 一度下を向いて…そして、顔を上げて、しーくんの目を真っ直ぐに見た。



「……その子は…」


 しーくんの視線が、あたしの腕の中にいるリズちゃんに向けられた。


「…覚えてる?しーくんが助けたんだってね。」


 あたしはリズちゃんの顔を覗き込みながら。


「リズちゃん、リズちゃんの命を救ってくれたお兄さんよ?」


 そう言って…身体の向きを変えて、リズちゃんの視線がしーくんに向くようにした。


「……」


 しーくんは…リズちゃんを見て、あたしを見て…リズちゃんを見て。

 …目を細めた。


「…お茶飲む?」


「……」


「あ、その前に…車、そこだと邪魔だから…ガレージに入れてもらえる?」


 あたしの言葉に、しーくんは少しの間無言で立ち尽くしてたけど…

 やがて…ゆっくりと車に乗ってガレージに移動した。

 あたしはそれを見届けて…家の中に…


「……」


 テーブルの上に置いてたスマホのディスプレイに、海さんからの着信が何度も…

 それを手にした途端、メールが入った。


『志麻に閉じ込められた。あいつ、家に向かうかもしれない。気を付けて。』


「……」


 閉じ込められた?

 海さん、無事なの?


 返信をしようとしたけど…あたしは一度外を見て、スマホをポケットにおさめた。

 しーくんはもうそこまで来てる。

 …刺激しない方がいい。



 リズちゃんを抱えたまま、キッチンでお茶を入れる。

 テーブルにそれを置いた頃に…しーくんがゆっくりと家に入って来た。

 リズちゃん用にリンゴジュースも用意して…あたしは椅子に座る。



「…お茶、どうぞ。」


「……」


 しーくんは…リビングの入り口に立ったまま、あたしを見てる。


「あー。」


「ん?飲む?」


 リズちゃんにジュースを飲ませてると…ゆっくりと近付いてくる人の気配がした。

 あたしはあえて驚いたり怯える事はしなかった。

 …内心…とても怖いと思ったし、罪悪感も…すごかったけど…



「……なぜ…」


 とても長い沈黙が続いた後…しーくんが、口を開いた。


「なぜ……」


 口を開いたものの…それ以上の言葉が出て来ることはなくて。

 あたしは、リズちゃんの口元をガーゼタオルで拭きながら。


「…しーくんが…話し合いたいって言ったのに、一方的に電話を切って…ごめんなさい。」


 顔を見ずに言った。


「……」


「きっと…あの後で会って話したら…あたし…きっとまたあなたと付き合ってたと思う。」


 本当に。


「…もう、戻りたくなかったの。何かを疑ったり…何より…あなたを嫌いになりたくなかった…」


「……」


 顔を見るのが怖くて…あたしは下を向いたまま。

 あたしを見上げるリズちゃんに小さく笑いながら…話を続けた。


「あなたをそう思う自分にも、嫌気がさしたし…」


「…幸せなのか?」


 ふいに問いかけられて、あたしは顔を上げた。

 目が合うと…しーくんのうつろな目には涙がいっぱい溜まってて…

 …あたしは…胸を刺されるような気持ちになった。



「…酔っ払って…ボスと結婚して…血の繋がりのないその子と……」


「……」


 さっきまで…怖いって思ってたのに。

 あたしは、しーくんから目を離せなくなった。

 付き合ってた頃には見せてくれなかった顔…

 こんなに…溢れんばかりの涙…

 …こんなに…

 こんなに苦しんでたの…?



「…幸せなのか?これは…俺と…創るはずだったものじゃないのか…?」


「しーくん…」


 とうとう涙がこぼれ落ちてしまって…しーくんはうつむいた。


「俺が…どんなに咲華を愛してたか…それを今…いくら話したところで…届かない…」


「……」


「届かない…仕方ない…俺は本当に…咲華をずっと待たせて……」


「……」



 それから…少しの間沈黙が続いた。

 リズちゃんは笑わないあたしを不思議そうに見上げて、キョトンとしてる。


 …どう声をかけたらいいの…?

 あたしは…確かに目の前にいるこの人の事を…有り得ないぐらい愛してた。

 あたしにはもったいない、カッコ良くて優しい人…

 しーくんの隣に居る自分を好きになれるよう、頑張ろうって思えた。


 一緒に行った『あずき』や、ほんの少しの間だったけど…仕事で借りたマンションでのお泊り。

 教えてもらった…あの景色。

 小さくても力強く光る家々の輝き…

 あの夜景を、あたしは…今も簡単に思い出せる。


 あたしは…本当に、この人の事が大好きだった。

 その指先の動きまでを、愛しく感じていた。

 しーくんの触れる物すべてを、羨ましいなんて…

 それほど…本当に大きな気持ちを持てた。


 まさか自分から別れを告げるなんて、もしかしたら、海さんと酔っ払って結婚した事より…驚きだ。



 …だけど。


 それほどの事だったのよ。

 あたしの中では…

 それほどの…事だったのよ。


 大好きだったからこそ…

 小さなシミのような点は、連絡を取れない日々が続くほど…大きく育ってしまった。


 朝子ちゃんを大事にするのは当たり前。

 そう思うのに…

 あたしより大事なの?

 どうしてあたしを優先してくれないの?なんて…

 自分が醜く思えて仕方なかった。


 こんなの、どうって事ない…って。

 そう言い聞かせる強さが…あたしにはなかった。


 しーくんを…信じ切れなかった。



「…昨日…ある事件のデータを…調べるために…こっちに来て…」


 しーくんが、うつむいたまま…低い声で話し始めた。

 その声に反応したのか、リズちゃんがしーくんの方を向いて手をパタパタとさせる。


「それを…見て…ついさっき…ボスに…ボスに会う寸前…その子の事を…思った…」


「…え?」


 しーくんは顔を上げてリズちゃんを見ると。


「…リズ…俺が…その子を…孤児にしてしまったんだ…だから…俺がその子の父親になりたい…って…」


 手をパタパタさせているリズちゃんに…手を差し伸べた。

 驚いたあたしは、とっさにリズちゃんを抱きしめてしまって…

 それが…


 彼を拒絶した事に…なってしまった…。

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