第32話 「疲れただろ。」
〇桐生院咲華
「疲れただろ。」
キッチンで洗い物を終えて、手を拭きながらリビングに行くと。
リズちゃんをベッドに降ろしながら海さんが言った。
「ううん。楽しかった……寝ちゃった?」
「ああ。はしゃぎ過ぎてたしな。」
「ほんと。いつもより笑ってたし。」
二人してベッドを覗き込む。
リズちゃんはいい夢でも見てるのか、時々くすぐったそうに笑って…
それがあたし達を笑顔にした。
二階堂家の皆さんが帰られて…
沙都ちゃんと曽根君は、渉さんと飲みに行くって出かけた。
「…泉に…酷い事言われなかったか?」
リズちゃんを見たまま、海さんが言った。
「全然。」
「本当に?」
海さんは疑ってるのか、あたしの顔を覗き込んだ。
「うん。泉ちゃん…あの人の事、心配して…気にしてた。」
「……」
「あたしの方が酷いよ。だって…」
「…だって?」
「……」
あたしはリズちゃんのベッドから離れてソファーに座ると。
「…一方的に、もう終わり。って言って…電話切ってそれっきりだから…」
「……」
初めて…海さんに打ち明けた。
「彼に…話を聞いてくれって言われたのに…聞かなかった。」
唇を一文字にして、少し上を見上げる。
そこに何があるってわけじゃないけど…少し思い出したあの日の事…頭の中で整理してみた。
ちゃんとした理由もないまま、入籍を先延ばしにするしーくんに…
あたしはもう…疲れ果てた。
朝子ちゃんを最優先する彼にも…嫌気がさした。
そんな風に思う自分にも…。
「…志麻を庇うわけじゃないが…あいつの仕事は本当に大変でね。」
海さんはそう言って隣に腰を下ろすと、あたしの肩を抱き寄せた。
「だから正直…咲華が志麻を待ち疲れたと言うと…俺達二階堂のせいでもあるって思わずにはいられない。」
「……」
本当は…
そうじゃない事。
…言えない。
「俺も現場に出始めると連絡が取れなくなる事があるけど…極力寂しい想いはさせないから。」
あたしに気を使ってくれたのか、海さんはすごく真剣な顔でそう言ってくれた。
「…ううん。大丈夫。怪我だけは…気を付けてね?」
「ああ…」
「……」
あまりにも海さんが…あたしの顔を見つめるから。
何か読まれてるんじゃないか…って、ドキドキした。
…あたしの醜い部分…
知られたくない。
「…さっき富樫からメールがあった。」
「…なんて?」
「……」
海さんはあたしの頭の上に顎を乗せて。
「…志麻がこっちに来てる。」
低い声でつぶやいた。
「……」
つい無言になったあたしに、海さんは。
「明日、会って話すつもりだ。」
そう言って…あたしの目を見た。
「俺はあいつの上司だから本音は言ってくれないかもしれないが…出来るだけ腹を割って話せる状態にはしたいと思う。」
「……」
本当は…
あたしがあの時、ちゃんと話を聞かなかったから…
話し合って別れなかったから…
彼に、想いを残させたままなんじゃないか…って、思ってる。
でも…あれ以上の堂々巡りは…もう嫌だった。
きっと、会って話をすると…あたしはまた彼の元に戻ったと思う。
だって…
有り得ない程…好きだったもの…
もう、戻ったとしても…上手くいく気はしなかった。
またあたしは朝子ちゃんを優先するであろう彼にモヤモヤして、イラついて。
そんな自分を大嫌いになって…笑えなくなる。
ただ、ひたすら待つだけの女なら良かったけど…
…そこに、嫉妬や疑心暗鬼や自己嫌悪が加わると…耐えられなかった。
「…大丈夫か?」
あまりにもあたしが無言だからか、海さんが心配そうに頬に触れる。
「大丈夫…うん…大丈夫…」
海さんの胸に頬を埋めて。
あたしは…心の中で繰り返す。
大丈夫…
あたしは…海さんの妻…
もう、あの頃の咲華じゃない…。
〇二階堂 泉
「泉ちゃん、大人になったね。」
わっちゃんが沙都とマネージャー連れて飲みに行くって言うから。
あたしも遅れて合流した。
そこで、いきなり沙都にそんな事を言われたあたしは…
「…褒め言葉なんだろうけど…沙都に言われるとガックリ来た…」
そう言って、カウンターに突っ伏した。
「えー、何でだよー。」
「子供に褒められたって…」
「子供って…僕22だよ?」
「……」
あたしはポリポリと頬をかいて、わっちゃんと苦笑いをした。
年齢じゃないっつーの。
「それにしても…海があんなに俺達の前でもお構いなしとは思わなかったな。」
わっちゃんが何かを思い出したように、首をすくめた。
「お構いなし?」
沙都がわっちゃんに首を傾げる。
「愛情表現。」
「ああ…」
…だよね。
あたしも驚いたよ。
兄貴…さらっと咲華さんの腰に手を回して抱き寄せたり…
額や頬や髪の毛に、事ある毎にキスしてたし…
外人かYO!!って何回心の中で突っ込んだ事か…
「僕も最初は驚いたけど、もう見慣れたかなあ。あの二人、すごくしっくり来てるし。」
…しっくり。
うん…そうなんだよ…
なぜか、志麻と一緒に居た時より…
咲華さん、自然体な気がした。
それに…
「…咲華さん…言ってた。兄貴の事、守りたいって。」
あたしがそう言うと、手元でグラスを揺らしてたわっちゃんが、あたしを見た。
「なんか…あれ聞いて、泣けちゃったんだよね。兄貴の事、そんな風に思ってくれてる人がいるってさ…ましてや、一般人だよ?」
あたしの言う『一般人』が違和感だったのか、沙都のマネージャーが何かコソコソと沙都に耳打ちした。
…て言うか…
沙都のマネージャー、鬱陶しい奴だな。
兄貴の事『ニカ』って、何でそんな呼び方?
『曽根』って名前だっけ。
「ま…今からだな。二階堂家はいいとして…問題は桐生院家と…」
「志麻だよね…」
わっちゃんの言葉を引き継いで言うと、隣で沙都が小さく溜息をついて。
「…でもさ…しーくん、サクちゃんの事すごく待たせてたわけだし…そりゃ仕事が大変なのも分かるけど…僕も連絡取らなくて失敗したから、サクちゃんの気持ち…分かっちゃうな…」
ブツブツと独り言のようにつぶやいた。
「…フラれると堪えるもん?」
あたしがビールを飲みながら誰にともなく問いかけると。
「堪えるさ。」
三人は同時にハッキリと答えた。
「……あ、そ…。」
「泉ちゃん、フラれた事ないの?」
「ない事はないけど…志麻みたいに落ち込んだりはない。」
「しーくん、そんなに落ち込んでるんだ…」
「…まるで別人よ。」
「うわー…あのハンサムが…?なんか…痛々しいぜ…サクちゃん、どんな振り方したんだろ…」
沙都と曽根がそれぞれそんな事を言ってると。
「俺は…一度空にフラれた時、かなりもぬけの殻になったぜ?」
わっちゃんが、静かな声で言った。
「…意外。」
沙都が目を丸くすると。
「男の方が弱いのかもな。別れた途端、思い出にすがるって言うか…それでますます忘れられなくなって。」
「…分かる…俺もそうでした…騙されてたのに…いい思い出しか浮かばないっていう…」
「…あー…思い当たり過ぎて痛いや…」
わっちゃんと曽根と沙都が順にそう言って。
あたしはそれに目を細めてビールのおかわりをもらう。
「そう考えると女子はつええよ。サクちゃんだって、あのハンサムと別れてすぐなのにさ…いくら酔っ払った勢いっつっても、ニカとくっつくなんて棚ボタみたいなもんだし、ハンサムの事なんて忘れてんのかもなー。毎日すげー笑ってるしさ。」
あたしは、その曽根の言葉に…
「…あんたバカじゃない?」
低い声で言った。
「え…えっ?」
「咲華さんは二年以上待ってたのよ?しかも志麻は咲華さんより妹を優先するし、普通のほったらかし具合じゃなかったのよ?」
もう…胸ぐら掴んで張り倒したいぐらい、腹が立つ!!
「そ…それはー…」
「何が棚ボタよ。志麻の事だって、忘れてるわけなんかないじゃない。」
「は…は…い…」
「これだから、経験の少ない男って…」
あたしが舌打ちと同時にそう言うと、曽根は真っ赤になって立ち上がって。
「けっ経験ぐらい、たくさん…」
「あるの?」
「あ…」
「あるのかって聞いてんの。」
「……ないです…ぅ…」
小声でそう言って、ゆっくり座った。
「どいつもこいつも…笑ってるから平気だなんて…バカじゃないの…」
…本当に。
笑ってなきゃ…やってらんない時もあるのよ。
だって…泣いても笑っても、何も変わらない。
だったら…あたしは笑ってる方がいい。
きっと…咲華さんもそうなんだ。
兄貴と幸せそうだ…って思ったけど。
今夜兄貴んちで、誰も志麻の名前を出さなかった事…たぶん、少し不自然だった。
だから咲華さんは時々…伏し目がちになって唇を噛みしめてた。
だけど、次の瞬間には笑顔で。
そうしてなきゃ…辛いんだよね?って…思った。
志麻は…きっと、ずっと泣いて落ち込んでの繰り返しで。
本当、あたしから見たら…いい加減立ち直れよー!!って、腹が立ったりもするんだけど。
それほどの…愛だったんだよね?
でも、あたしも咲華さんも…
笑うから、愛が少なかったってわけじゃない。
…どうか、元気でいて欲しい…って。
あたしが思う事じゃなくても…思ってしまう。
祈ってしまうんだよ。
「曽根、咲華さんに変な事言ったら承知しないからね。」
「そ…曽根って…俺年上…」
「あ?」
「い…いえー…何でもないですー…」
「曽根さんの負けー。」
「沙都君助けてよ~。ズミちゃんが怖い~。」
「ちょっ…ズミちゃんって何よ!!そんな呼び方やめてよ!!」
「だって、ニカはもういるからさあ。だったら、ズミちゃんかなって。」
「あんたはあたしの名前を呼ぶな!!」
「えー!?」
あたし達は…そのまま四人でバカ騒ぎをした。
実はこの時、もう志麻がこっちに来てる事も知らずに。
翌日、兄貴と志麻の間に巻き起こる嵐を予想する事もなく。
「曽根!!ピザ買って来い!!」
「え~!!ズミちゃん、俺年上だっつーの!!」
「曽根さん、泉ちゃんのパシリ…」
「ふぁああああ…俺もう帰っていいか?」
本当に…ただのバカ騒ぎをした。
〇朝霧沙都
「おかえり。」
「あれっ…海君、まだ起きてたの?」
僕が家に帰ると、海君が一人で飲んでた。
「サクちゃんは?」
「とっくに夢の中。」
「ははっ。そうだよね。」
僕もグラスを持って、海君の向かい側に座る。
「トシは?」
「女の子のいるお店に行くって。」
「相変わらずだな。」
「まあ、でも健康男子だよね。」
海君と小さく乾杯する。
「…あ、戻したんだ。」
テレビの上に飾ってあるノン君と紅美ちゃんの写真を見て笑う。
「ああ。泉が来た時、隠してくれたらしいな。サンキュ。」
「泉ちゃんにバレたら、芋づる式に陸兄に話しが行っちゃいそうだもんね。」
ノン君と紅美ちゃんが付き合ってる事は…まだオフレコらしくて。
だから、泉ちゃんが来た時、僕はとっさに写真を隠した。
泉ちゃんと紅美ちゃんはイトコだから…
もしかしたら、後で知ったら怒るかもしんないけど。
だけど…
いくら紅美ちゃんと別れたからって…
いくら紅美ちゃんがノン君と付き合い始めたからって…
僕だって、今も紅美ちゃんを守りたいって思ってる。
だから…二人がまだ隠しておきたいって言うなら、全力でそれを守るつもり。
「…ねえ、海君。」
「ん?」
「…サクちゃんと結婚して…紅美ちゃんの事、吹っ切れた?」
「……」
僕がグラスの縁を指でなぞりながら問いかけると。
海君は優しく笑って。
「そうだな…ビックリするぐらい、吹っ切れてる。」
首を傾げた。
「正直…もう誰とも恋はしないし結婚もないなって思ってたけど…」
「酔っ払って結婚って、どういう事?」
笑いながら問いかけると。
「…朝起きたら、二人とも裸で抱き合ってた。」
海君は前髪をかきあげながら、思い出し笑いをした。
「…それはー…」
「頭の中真っ白になったよ。」
「…そうなるよね…」
「おまけに、何の記憶もない。なのに指輪をしてる。咲華のスマホには婚姻届を書いてる俺や、教会で式を挙げてる俺達の動画が残ってて…オマケにリズがいた。」
僕は一瞬白目をむいて。
「それ…僕なら倒れちゃうレベルだ。」
大袈裟に身体を揺らした。
「…有り得ないって思った…腕の中に彼女がいるのを見てすぐ浮かんだのは…『部下の婚約者に何てことを!!』だったからな。」
「…サクちゃん、その事については?」
「もう関係ない。別れました。ってキッパリ言われた。」
「…そっか…でもそれから…二人は本当の夫婦になったんだよね。随分早い展開だったみたいだね?」
「そうだな…リズのおかげかもな。」
そう言って、海君はクスクスと笑った。
「あの子を囲んでると…自然とパパとママになってしまった。」
「あー…そっかあ…でも、海君とサクちゃんてお似合いだよ。」
「…俺も意外とそう思ってる。」
「ははっ。ごちそうさま。泉ちゃん、言ってたよ。」
「何を。」
「サクちゃんが…海君を守りたいって言ったの聞いて泣いたって。」
「……」
「僕が思うに…サクちゃん、しーくんとの時はそんな事思わなかったんじゃないかな。って…まあ勝手な憶測なんだけどさ。きっと…海君の優しさを身近で十分感じてるから、そう思うようになったんだろうなって…えっ?」
突然、海君が立ち上がって…僕の隣に来ると、僕を抱きしめた!!
「え…ええっ…えっ?うっ…海君?」
「…サンキュー、沙都…」
「……海君?」
「…明日、志麻に会う。」
「あ…そう…なんだ…」
「…ガラにもなく…緊張してる。」
「……」
そう…だよね…
いくら別れたって言っても…しーくんとサクちゃんは…婚約までしてたわけだし…
んー…
海君…上司って立場だから…難しいのかな…色々…
僕は海君の背中をポンポンとして。
「海君を守りたいって言ったサクちゃんの気持ちに応えなきゃだね。」
笑顔で…そう言った。
〇桐生院咲華
「……」
珍しく…眠れない。
あたしはリズちゃんと寝室に入ったけど…海さんは、もう少し飲むってリビングに残った。
さっき玄関のドアが開く音がしたから…沙都ちゃんが帰ったのかな。
曽根君はお酒を飲むと、もっとうるさくなるから…きっと一人。
…明日、海さんが…しーくんに会う。
そして…あたしと結婚した事を…打ち明ける。
「…大丈夫…かな…」
小さく独り言。
あたしとしーくんの別れ方は…酷かったと思う。
一方的に電話を切って…スマホの電源を落としたまま。
そして、しーくんのメールアドレスを拒否設定して…
…とことん、拒絶した。
酷い…酷いよね…
あの時は、そうするしかないって思ったけど…
今思うと…本当、酷い。
もし自分がそうされたら…落ち込むどころの話じゃないよ…
そう考えたら…
やっぱり、仕事でミスしたのは…あたしのせいなのかな…
泉ちゃんに聞いた時は、あたしと別れたぐらいで、しーくんはミスしない。
そう思った。
だって、しーくんにとってあたしは…朝子ちゃん以下。
だから…朝子ちゃんと縁を切られたって事なら…ミスしても不思議じゃないって思うかもしれない。
けど…あたしと別れたぐらいじゃ…
だって、何度も入籍を延期するほど…
結婚に踏み込める相手じゃなかったって事だもん。
「…ダメだ。思い出すと落ち込む…」
うつ伏せになって、枕に頭を沈める。
…あたし、今も…
今でも…悔しいって思ってる?
こんなに幸せなのに…
朝子ちゃんに負けた気がしてるなんて…
どうして?
もう、関係ないじゃない。
そう言えば…
朝子ちゃんの結婚相手が、映君だっていうのを華月に聞いた。
映画を観に行った日、華月はあたしにアレコレと探りを入れて来て。
それが、華音からの電話のせいだって分かってたけど…
あたしは、絶対に別れた理由を口にしなかった。
ただ『待ち疲れた』としか言わなかった。
すると、華月が『海君と婚約解消した朝子ちゃんが幸せになったばかりだから、まあ…マイナスにはならないよ…』って。
あたしはそれを聞いて…華月でさえ知ってたんだ…って、もはや笑いしか出なかった。
しかもそれが、今となっては堂々とイトコって言える位置関係になった、東 映君。
結婚式をしたわけじゃないし、朝子ちゃんが婚約解消したばかりなのに映君とくっついたからって事で、あまり公けにしてなかったらしい…
…婚約解消したばかりなのに、くっついた…か。
「…あたしもだよ…」
バッと起き上がって、ベッドの上に座り込む。
華月の情報では…
しーくんが映君の事をあまり良く思ってなくて、朝子ちゃんがちょっと気を使ってたとか…
…そう言えば、朝子ちゃんも言ってたっけ…
兄は彼の事を好きじゃないみたいだから、言いたくなかったのかも。って。
「……」
あたし…どうして自分の疑う気持ちを信じてしまったんだろう。
そりゃあ…入籍を延ばされてばかりな事には…ウンザリしたけど…
しーくんは、優しかった。
カッコ良かった。
…大好きだった。
なのに…
「…んまっ…」
はっ。
リズちゃんの声がしてベッドを覗き込む。
「…寝言か…」
その寝顔を見ながら…少し反省した。
今の生活に何の不満もない。
なのに…少し、しーくんの事思い出してしまった。
…すごく好きだった…って。
…もう…
過去形だよ…。
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