第8話 「今日は少し遅くなると思います。」
〇二階堂 海
「今日は少し遅くなると思います。」
玄関の外でそう言うと。
「分かりました。もし変更があれば連絡して下さい。」
リズを抱っこしたまま、咲華さんは柔らかい笑顔でそう言った。
「行って来ます。」
「いってらっしゃい。」
「あー。」
「いい子にしてろよ。」
リズの頭を撫でて、二人に手を振る。
…どこから見ても…完璧家族に見えてしまうはずだ。
後ろめたさを感じながらも…俺は咲華さんとリズと三人の生活が…心地良くてたまらない。
リズ専用のベッドを買って、俺の部屋から机が消えた。
まさに…寝室だ。
窓際にリズのベッド。
そして、大きなベッドのリズ側に咲華さんが寝て…ドア側に俺が寝る。
完璧に夫婦だし、家族だ。
…見た目は。
おやすみ。と言ってベッドサイドのライトを消すと。
驚くほどのスピードで…咲華さんは眠りに落ちる。
その寝息を聞いていると…時々…うっかり手を伸ばしてしまいそうになる。
そこに眠っているのが、自分の大事な人に思えて…
抱きしめたくなる。
「おはようございます。」
「おはよう。」
富樫と二人でのファイルのデータ化も、随分進んだ。
二人で黙々と進める傍ら…休憩の時は富樫がさりげないつもりでも、ぶっちゃけて探りを入れて来るのをかわすのが楽しかった。
「ボス、頭がおいでになられてます。」
「え?」
一瞬にして…冷や汗が出た気がした。
まさか…何かバレたか…?
「よ。」
部屋に入ると、親父がファイルを手にして立っていた。
「こっちに何か用でも?」
親父の手からファイルを取って、机の上に置く。
「冷たいな。何かないと来ちゃいけないのか?ああ、ありがとう。」
親父はそう言って富樫の持って来たコーヒーを受け取って。
「莫大な量あっただろうに…よくここまで減らしたな。」
富樫に労いの言葉をかけた。
「少し手伝おう。」
つい目を細めてしまった。
現場に出るのが好きな親父が、データ処理を手伝うなんて。
…何か裏がある気がする…!!
俺の部屋で、親父を交えて富樫と三人でのデータの打ち込みが始まった。
「…あー…懐かしいな。この事件…」
「親父、それ言い始めると進まないから。」
「…確かに。」
「はっ…でもその事件は確かに…」
「だろ?」
「富樫。進まないから。」
「す…すみません…」
なぜだろう。
親父が加わって助かるはずが、なぜか進まない。
「おー…これ、未解決なのか…おかしいな…」
「…親父。手伝う気ないだろ…」
「悪い悪い。暇なのは幸せな事なのに、つい事件のファイルを見ると血が騒いで…」
「……」
親父の言葉に富樫と目を合わせた。
二階堂を秘密組織ではなく、一般の警察組織として構成させる事を…
親父もそうだし、じーさんも…ずっと頑張って来た。
だが、秘密組織ではなくなるということは…今までの体制と大きく変わるという事で。
今までは秘密組織という事で警察の組織と言えども全くの別物。
それが事実上、警察に吸収される形になる事を良く思わない面々も多い。
それに…二階堂と警察が上手くやっていけるかどうか。
それが大きな問題だ。
それから黙々とデータを打ち込んだ。
さすがに歳を取っても出来る男の親父。
ありがたいほどに仕事が進んだ。
昼飯は富樫が近所のイタリアンをテイクアウトして来て。
夕方から夜にかけても、何となくだらだらと飲み食いしながら仕事をした。
ある程度先が見えてきたから今日はもう終わろう。と俺が提案したのは、20時を過ぎた頃だった。
咲華さんには遅くなると言ったが…今なら晩飯も残ってるか?なんて思ってると…
「よし。飲みに行くぞ。」
上着を手にした俺に、親父が言った。
「…もう帰ろうかと。」
「久しぶりに会ったのに、冷たいな。」
「…色々忙しくて。」
「プライベートがか?」
親父の肩越しに、『自分は何も!!』とでも言いたそうな富樫の顔が見えた。
「…まあ、そうだけど。」
別に突っ込んで聞いたりはしないだろう…と、正直に答えると。
「ほほお…それは興味深い。今夜じっくり聞かせてもらうとするかな。」
親父は、断らせないぞ。と言わんばかりに俺を指差して言った。
……マジかよ。
親父はしつこく俺をバーに誘ったが、『どうしても車で帰りたいから』と断った。
だが、親父は『話してたら飲みたくなるさ』と言って。
『飲んだら泊まればいい』とも言って。
親父が泊まる二階堂御用達のホテルの部屋に、俺を連れ込んだ。
バーカウンターがあるからな…
「みんな変わりない?」
バーカウンターの中に立って、俺は自分用にノンアルコールの飲み物を作った。
華音なら、こういう時に器用にアレンジするんだろうな…なんて思いながら、無難な味にした。
親父には、早く酔い潰れて欲しくて濃い水割りにしたが…どうかな。
「現場がない分、みんな身体を鍛えすぎて困る。」
「ははっ。いいじゃないか。」
「ドイツだけは忙しいから、みんなあっちへ行きたがって、それも困る。」
ドイツは…秘密組織のまま通して欲しいと言われて。
今は瞬平が主となって捜査機器の開発などをしているが…今後どうなっていくのか…
「そう言えば…泉がやたらと元気だ。」
「…いつもの空元気ってやつか?」
「ああ。桐生院の坊ちゃんと別れてから、ずっとだな。」
「……」
四月に仕事で来た時も…泉はやたらと元気で。
それは、華音の叔父にあたる聖と別れてからずっとだ…って、俺も気付いてはいた。
…去年のクリスマス前だったかな。
仕事の電話の最中、突然泣き始めて。
『…兄ちゃん…あたし…一生二階堂のために働くから…』
低い声で、そう言った。
負けず嫌いで、人見知りが激しくて、単純で…
だが、高い能力を持っている泉。
空が結婚して第一線を退いてからは、自分が…って言う気持ちは高くなっていただろう。
秘密組織じゃなくなるんだ。
どこに嫁に行ったって構わない。
そう親父からも言われてたのに…
「…泉の強がる姿を見てると…どうしてこんな特殊な家に生まれてしまったんだろうな…って、可哀想になるよ。」
「親父が言うかな。」
「ふっ。本当だ。」
「泉は…二階堂に生まれた事を誇りに思ってる。色恋に関しては…確かに壁はあるのかもしれないが…きっと、いつか…いい奴が現れるさ。」
「…そうならいいな。」
当然だが…
親父も父親なんだな…と思った。
泉の様子を黙って見ていられないんだろうな。
泉は…家族が大好きで。
小さな頃から、兄ちゃん兄ちゃんって後をついて来る金魚のフンみたいな奴で。
友達と言ったら…華月。
……華月。
思い出せば思い出すほど、窮屈な相関図に頭が痛くなる思いがした。
咲華さんは、華音の双子の妹で…華月の姉で…麗姉と聖の姪。
さくらさんの…孫。
俺とはそこそこに繋がりのある、桐生院家の面々。
むしろ、咲華さんと繋がりがなかった方が不思議に思える。
「志麻も桐生院のお嬢さんと別れてしまった。」
親父の低い声に、少しヒヤリとした。
「…理由を?」
さりげないつもりでも、少し声がうわずった気がする。
「長く待たせ過ぎたと言っていた。」
「…婚約して二年以上…どうして志麻は結婚に踏ん切りがつかなかったんだろう。」
「志麻とそんな話をした事はなかったのか?」
「ないな。志麻は…プライベートな事は誰にも話さないって富樫もぼやいてた。」
本当に。
富樫は現場帰りにポロッと『地元警察にめちゃくちゃ可愛い女性がいる』とか、『ドイツの現場で一緒になった女性と連絡を取り合っている』などと、実はアンテナを張りまくっている事を語ったりするが…
志麻は何も言わない。
咲華さんと婚約中も、うまくいっているとしか話さなかった。
とにかく、仕事に打ち込む志麻。
意外な一面を見たのは、DANGERのライヴに連れて行った時ぐらいのもんだ。
あの後、打ち上げにも参加して…久しぶりに一緒に飲んだが…
志麻はそこでも自分の話はせず、周りの酒の世話ばかりをしていた。
「志麻が待たせている間に、桐生院のお嬢さんには女性としての時間を無駄に過ごさせてしまったかもしれない。」
「……」
「幸せになって欲しい。」
「…そうだな…」
そう答えながら、罪悪感が湧いた。
俺と…偽物の結婚生活なんてしてる場合じゃないよな…。
ふいに時計を見て、グラスを持つ手を止めた。
結婚(偽物)してからずっと、あまり遅くなった事がない。
今日は最初から遅くなるとは言っておいたが、帰れるなら早く帰るつもりではいたし…
リズと二人きりで大丈夫だろうか。
「……」
親父に背中を向けるようにして、メールを打つ。
『今夜、やはり遅くなりますが大丈夫ですか?』
送信して間もなくして…
『お仕事お疲れ様です。大丈夫ですよ。リズちゃんはもう寝るだけです』
安心なような、少し寂しいような返信。
『そうですか。咲華さんも食事をとって先に休んで下さい』
『分かりました。お気遣いありがとうございます』
…他人行儀な言葉使いだが…
彼女があまりにも丁寧に返してくれるから、こちらも崩すわけにいかない気がしてしまう。
「…彼女に連絡か?」
背中から聞こえた声に、視線だけ動かして周りを見る。
…戸棚のガラスにスマホの明かり…
「彼女じゃないよ。でも連絡するって約束してたから。」
スマホをポケットに入れて振り返る。
「朝子も幸せになった事だし、別にいいんじゃないのか?誰かと始まっても。」
親父は前髪をかきあげて言った。
「…親父。」
「ん?」
「…あの時、俺の決断で死んでしまった一般人が…今もたまに夢に出て来るんだ…」
「……」
「そのたびに…俺には幸せになる資格なんてないって思う。」
「海…」
「なのに…癒されたいなんて…本当、俺って弱い男だなってつくづく思うよ…」
さくらさんに会って…俺は悪くないって言ってもらえて…肩の力が抜けた。
ずっと言えなかった心の中の塊を、紅美に吐き出す事も出来た。
だが…
それでも変わらない事はある。
『事実』だ。
その事実が…ずっと俺に重たくのしかかる。
俺が死なせてしまった一般人と。
その存在に気付く事もしてやれなかった…俺と紅美の子供。
朝子の事も傷付けた。
なのに…
今、咲華さんとリズと、こんなにも幸せに満たされた気分を味わって…
…どうかしてる。
だがそれはきっと…
偽物だから捨てられないんだ。
「…強い男なんて、そうそういないさ。」
親父がグラスを揺らしながら言った。
「…俺から見たら、親父は憧れに値する強い男だけどな。」
本当に。
昔から…憧れと尊敬の人物でしかない。
「嬉しい事を言ってくれるが…俺もそうでもない。一度織から逃げるように渡米した事があるしな。」
「…は?」
その告白に、俺は目を丸くした。
親父は何かを思い出したように小さく笑って。
「癒してくれる誰かがいるなら大事にしろ。彼女じゃないとは言っても…おまえがそこまで思う相手だ。きっと特別な何かがある。」
俺が入れた濃いめの水割りを飲み干した。
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