二十五

 寺を辞し、山門を出れば、美弥は朝の光に包まれていた。

 眩い陽射しを全身に浴びて、香流は遠く城下を見晴るかす。

 そして「香流殿」と呼ばれた名前に、ふいと首を向けた。


「はい。 なんでしょう、御当主」


 意図なく柔らかに答えれば、銀正が真っ直ぐにこちらを見返してくる。

 琥珀の目が、涙に洗い流され澄み渡って輝くのを、ああ美しいものだと眺める。

 銀正は曇りない面差しでそっとまぶたを伏せると、芯の通った声で言った。


「私は、まだこのいを、今すぐに手放すことは、きっとできない」


 董慶を救えなかった己を責める心に決別することは、難しいだろう。

 しかし、


「だがもう、あの方を思う心に拘泥して、あの方の願いをないがしろにしないと誓おう」


 自責に溺れ、何にも報いることのできない生き方はしないと誓おう。


「私は、あの方が願ってくれたように、強くあらねば」


 最期まで生き切ることを諦めない進み方を選ぶために。


「……私に向けてくださった、あなたの心を、悲しませないためにも」


 終わりは、小さく伏せるようにして呟いた声に、香流は風そよぐような涼やかな目元で笑みを描いた。

 背を伸ばし、真っ直ぐに銀正を見上げ、その目をひたに見る。

 向けられる真摯な意志に報いるように、「御当主、」と答えを返した。


「すぐさま御心をうつろわれよなどと、そのような押し付けがましいことは、私も願いませんよ。 あなた様の心は、あなた様のものだ。 どうか、今ある御自身のあり様を、大切になさってください」


 移りゆくことは、生者の業だ。

 だが、せめて心だけでも忘れがたい過去に寄せていたいと願う想いを否定することなど、香流にはできない。

 自分は言うべきことを言った。

 あとをどう進むかを選ぶのは、銀正の領分。

 ただし、


「あなた様が選ぶものを、私は見ております。 あなた様がどの道を行くのか、ずっとそばで見守っております」


 傍に居ると、申しましたでしょう?

 そう言って破顔すれば、銀正は眩しげに目を細め、優しさと寂しさの入り混じった笑みを返した。

 そこにはまだ、香流の解せない銀正の葛藤が見て取れたが、ただ今だけは見守っていようと、香流は言葉を封じた。

 きっといつか、そばにいようと追いかけてさえいれば。

 この人の全てを共に見ることができる日が来るだろうと、祈りを込めて。


「(あなたは隠し事がお好きですからね)」


 自分はそれを見破り続けて見せようと腹に決めて、香流は山門から続く階段を降りる。

 続いてくる気配を感じながら、香流はそれにと、言葉を継いだ。


「御当主だけが、後ろめたく思うことはありません。 董慶様だってずるいのです。 あの方は、自分は自身を犠牲にすることを躊躇ためらわぬくせ、人には生きろと押し付ける」


 まぁ、だから、直接の言葉にせず、あのように言って願いをそこに込めたのでしょうけれど。

 里の狩士たちが『照れ隠し』だと揶揄からかっていたのを思い出しつつ、銀正を振り返って見る。

 銀正はきょとりと首を傾げ、それから悩ましげに空を見た。


「確かに…… 言われてみれば、そうとも言えるが」


「でしょう?」


 くすくすと可笑しげに声を転がし、香流はふいと遠い目をする。

 その先に董慶の気恥ずかしげな背中を見据え、山から吹き下ろした風に頬を寄せた。




「己をかけて人を救うことは、美談でもありますが、自身を思ってくれる誰かを悲しませる行いでもあります。 だから、董慶様も、簡単にはするなと言いたかったのでしょう。 でも、きっとその覚悟を、否定した訳ではない」


「一度死の淵をさ迷い、生き返ったあの人だからこそ、誰かを悲しませた申し訳なさも、それでも後悔はなかったという回顧も、両方持ちえたのでしょう」


「それを、どうにか、大切な後進たちに伝えたかったのでしょう」




 あの方は、存外不器用でしたから。


 目を上げれば、銀正が香流を見ている。

 そこにぽつりと置き去りにされたような遣る瀬無さをはらませ、琥珀の目を揺らしている。

 だから、香流は言った。

 その目に一つの手を差し伸べるように、伝えることにした。




「銀正殿、私はあなたが損なわれれば、悲しいですよ」


「だから、あなた様が御自分に価値を見いだせず、ないがしろになさるのを黙ってみてはおれません」


「私にとって、あなたはそういう人ですよ」




 言葉だけでは、救えない心も多かろうが。

 だがせめて、あなたを見つめる者が確かにここにいるのだと表明するように、香流は伝えた。

 それは、どのように銀正の内側に落ちたのかは分からなかったが。

 琥珀の目はぎょっと見開かれたあと、朝日にちかと照り返り、白い肌が仄かに赤みを帯びて、首筋までその色に染まった。

 何か、平衡を欠いたように体の重心を崩す銀正。


「そ、それはどういう、」


 しどろもどろに問うてくるので、香流は肩を竦めて前を向いた。


「意味は、自由にお考え下さい。 私は私の言葉で、あなた様の心を縛るつもりはありません」


 自分は、ただ伝えておきたかっただけ。

 言葉で人をかせにはめるつもりは毛頭ない。

 だから、受け取り方は自由だとうそぶいて、とんとんと軽快に階段を下って行った。

 残された方は、ゆだった頭を抱えてうめき声を上げる。



「(これだけ人を揺さぶっておかれて、あなたがそれを申されるのか!?)」



 心中叫ぶ声は、勿論香流には届かない。

 野分のわきの如く荒れ狂う銀正の心の内。

 だがそれを察することなく、香流は朝の城下に足を向ける。

 一日が始まる。

 その始まりに間に合うように早くと振り返り、銀正を手招くのだった。




 *




「おーい!」


 右治代家への道すがら、行く先の遠くから、香流と銀正は呼ばれた。

 見れば、昨日市中で出会った鍛冶師の男と奇児の娘が、寄り添うように手を振っている。


「……知り合いか?」


「昨日の騒動の前に、少しありまして」


 確認に首を縦に振りながら、香流は手を振り返した。

 男は目の見えない娘を伴い、ゆっくりと近づいてきた。


「よかった、行き違いにならんくて。 昨日の嬢ちゃんに、あんたが右治代家の嫁だって聞いてたんだ。 それで朝一番に家に行ったら、ここの寺に行ってるって聞いたもんだから」


 大きな荷を背負った男が、自分の陰にもじもじと隠れる娘の背を押して、香流を見る。


「この子が、どうしてもアンタに渡したいものがあるって言うから」


「渡したいもの、ですか?」


 不思議そうに返しながら、香流は娘の前に膝をつく。

 娘は目が見えないながらも気配を察したのか、目の前に来た香流の顔に、じっと閉じた目を向けた。


「おはようございます、水世さん。 香流です。 なにか、私に御用でしたか?」


 怯え癖の強い娘をいたわるよう、香流は優しく問う。

 娘はその声音にほっと息を吐いたかと思うと、ふところから小さな紙包みを取り出した。

 小さな声で「これ……」と差し出されたものに、香流は目をぱちりと瞬かせる。

 紙の包みは、とても軽そうに思われた。

 娘の小さな手の中に納まるほどのそれをしげしげと見つめていると、娘はその包みを開いてみせる。


「……これは、」


 ころんとてのひらに転がり出てきたものが、玲瓏な音を奏でる。

 薄そうな金属の玉に、輪になった紐が結び付けられたそれは、


「水琴鈴」


 娘が、小さいながらも嬉しそうな声で呟く。


「父さんに作ってもらったの。 昨日父さんが危なくなったのを、おねぇさん、助けてくれたんでしょう? だから、父さんを守ってくれたのと、…………私の髪、ほめてくれたお礼」


「鍛冶が専門だが、まぁ、鋳物いものもやっててな」


 色付けも何もない地の色で申し訳ないんだが、と男が頭をかく。

 二人を見上げて再び娘の掌へ目を戻した香流は、「水琴鈴」と繰り返した。

 鈴はまるで、壺中に落ちる雫のような澄み渡る響きを奏でる。

 耳を優しく透過してゆく柔い音に、香流はほうと表情を緩めた。


「とても、きれいな音ですね」


「この鈴は、魔を払うって言われてるの。 きっと、おねぇさんを悪いものから守ってくれるよ」


 鈴を褒められて嬉しそうにする娘が、ぽつぽつと言ってはにかむ。


「それは…… とてもありがたいものですね」


 そう、香流が笑みと共に返した時だった。


「あの、」


 背後で、細い声が上がる。


「すまない、この鈴、私にも一つ譲ってくれないだろうか?」


「え?」


 男の戸惑い声に振り返れば、銀正が眉を下げた顔で親子に目を向けていた。


「譲ってって……」


「代金はちゃんとお払いする。 私にも、これを売ってほしい」


 いぶかしげな男に、銀正は懐から財布を出しながら言った。

 香流はきょとと首を傾げ、銀正を見上げる。


「御当主もこれが欲しいんですか?」


「……いや、その」


 じっと見ていれば、歯切れ悪く銀正が俯く。

 そうして後ろめたそうに口元を覆って、ぼそぼそと言うことには、


「結局、祭りの土産を買うというあなたとの約束は守れなかったから、せめて何かを差し上げたくて」


 守りになる鈴なら、私も渡しておきたいと思ったのだと、恥じらい気味に顔を背ける。


「その…… 同じもので恐縮だが」


 そう言って肩を落とす銀正に、香流は娘と顔を見合わせる。

 じっと二人固まっていると、娘のほうがこてんと首を傾げて、閉じた瞼を震わせた。

 香流はぱちぱちと瞬きして、もう一度顔上げる。

 つまり、銀正は祭りの土産を渡せなかったことを気に病んで、この鈴を自分からも香流にくれようとしているのか。


「(そんなこと、)」


 もう気になさらなくても構わないですよと、声をかけようとした時だった。


「参ったな…… 悪いんだが、今手元にはこれ一つっきりしかないんだ」


 なりゆきを見ていた男が、気の毒そうに頭をかいて言った。

 これから、国を出るつもりだったからと続いた言葉に、香流はそっと立ち上がる。


「あの、美弥をおちに?」


 おずおずと聞くと、男は重々しく頷いて娘を引き寄せた。


「ずっと、準備はしてたんだ。 祭り明けは人の出入りも多いから、それに合わせて出て行こうと思ってな」


 この国で、業人は出国が厳しく制限されるから。

 香流が銀正に目をやると、琥珀の目は困ったように頷いた。


「どの国もそうかもしれんが、美弥は特別業人の出入り…… 特に、出国に厳しい。 狩司衆による見張りもあるくらいだ」


「それは……」


 本来飢神の狩が仕事の狩司衆が、役人の仕事に深く絡むことはない。

 それだけ美弥は閉鎖的なのだと、香流は眉間を渋く深めた。


「ということで、悪いな、お兄さん。 今回は諦めてくれ」


 何となく意味ありげな顔で男が銀正に断りを入れる。

 それに銀正は気落ちした様子で「それなら、仕方ない」と財布をしまった。

 その顔に何となく後ろめたさを覚え、香流は御当主と呼びかけようとして、しかし、その前に。




「もしかして、この人が、おねぇさんのいい人?」




 小さな声が、足元から上がる。

 すいと目線を落とせば、娘が疑問顔で大人たちを見上げていた。

 三人は顔を見合わせる。

 何も返事が返ってこないのに焦れた娘が、くいくいと父親の着物を引っ張った。


「父さん?」


 見えない自分の代わりに、どうなのかと娘はたずねる。

 そういえば、香流は許嫁が奇児だと、娘に教えていた。

 男は娘のそばに膝をつき、「綺麗な髪の方だよ」と答えて言った。


「綺麗な、銀髪の若武者だ」


 立ったままの二人を見上げ、男はにいと笑う。


「まさか、助けてくれたのが守護家の当主夫婦とは思わなかったよ」


「いえ、まだ許嫁です」


 冷静に訂正を返すと、なぜか横の銀正がなんとなく気まずげな気配を漂わせる。

 そんな空気を察することない香流は、ですから、と娘の前に再び腰を下ろして微笑んだ。


「今はまだ、振り向いていただけるよう、手を尽くしている最中です」


 目を閉じたままの娘の顔が、おやと驚きに伸びる。

 男もおやおやと顎を撫で、ついでに言うなら、背後の銀正は動揺して固まったのだが、香流には見えていない。

 男がおやおやおや、と銀正へ視線を投げる。

 頭を抱えそうな銀正。

 頭上のやり取りなど知らない娘は、じいと一考したあと、銀正がいるあたりを見上げた。


「おにぃさん」


「……え? あ、なにか?」


 急に声をかけられ、銀正はおたおたと答えた。

 その声音にくすりと笑い、娘は小さくはにかむ。


「おねぇさん、あなたの髪を、とてもきれいだって言ってたよ。 私の髪も、ほめてくれたの」


 昼の海みたいだって、言ってくれたの。


「良かったね、おにぃさん。 こんな人に好いてもらえて」


 娘の言葉に、銀正は一瞬何かに詰まった。

 しかし、ゆっくりと相好そうごうを緩めると、


「……ああ、勿体ないことだ」


と、優しい笑みで返した。

 それを見上げていた香流は、ふと胸が動いたような気がして、心の臓の上を手で覆う。


「(はて?)」


 小さく疑問を浮かべているうちに、横の娘がその小さな手を銀正に向かって差し出した。


「いいよ、おにぃさんに、これ、あげる」


「え?」


 包みを手渡され、銀正が戸惑った声を上げる。

 その気配を笑いながら、娘は言った。




「それ、おにぃさんから、おねぇさんに、わたしてあげて」


「その代わり、おにぃさん、おねぇさんのこと、守ってあげてね」


 ちゃんと、いい人、守ってあげてね。




 幼い願いに、銀正が鈴に向けた手を震えさせる。

 そしてぎゅうと包みを確かに受け取ると、鈴持つ手を引き寄せて、強く頷いた。


「ああ、必ず」


 真摯な声に、娘が嬉しそうに笑う。

 二人のやりとりを見守っていた香流は、呆けたように棒立ちだった。

 それを男はおやおやおやおやと検分して、にんまり笑みを深める。

 これはなにやら面白そうだと揶揄いたそうな目が、若い二人を見守っていた。


「あ、そうだ」


 不意に声を上げた銀正が、また懐から財布を取り出した。

 そしていくらかの金子きんすを取って、男に手渡そうとする。


「え?」


「鈴の代だ。 私から渡す以上、ちゃんと対価をお支払いしたいから」


 受け取ってくれという金額は、鈴一個の対価とするには、大げさな額にも見える。

 案の定男は弱った様子で、「こんなにたくさん、もらえねぇよ」と全額返そうとした。

 しかし、銀正も譲らない。

「いいんだ、旅銀としてくれ」と、真剣な様子で男の手を押しとどめる。

 そして悩ましく眉をひそめ、視線を落として「本当は、関を抜けるのに一筆書いてさし上げたいが、」と呟いた。


「私と関わりがあると知れると、国を出してもらえなくなる可能性が高いんだ」


「それは……」


 なぜと問かけようとしたが、苦しそうな様子が昨夜の問答を思い起こされ、香流は続きを飲み込んだ。

 これは聞いてもこの人を困らせるだけだと。

 そこで少し考え、ふと思い当たって手を打った。


「そういえば、騒動後にお話したときにうかがったのですが、十雪様は、関の番に就かれているのですよね」


 狩士は関守のような公的な役割は果たさないが、飢神の警戒のために、国境や関の警護の番に配置されるのだ。

 要所や街道にも見張りに立ち、旅人を守っている。


「ああ、あの者なら、確か今日も番のはずだ。 人が多い時期で、大勢駆り出されるから」


「では、私が十雪様に一筆書きましょう。 あの方は気の良い方ですから、きっと良くしてくださいます」


 銀正に懐紙かいしをもらい、男の持っていた筆を借りて、香流は十雪に便りをしたためた。

 最後に証として髪紐を解き、紙に添える。


「香流がどうぞ、けがを養生くださいと言っていたと、伝えてください」


 男に言伝を預け、銀正と二人、手を振って親子を見送る。

 小さくなって行く影を見守ったあと、香流はさてと言うように銀正に向き合った。


「それで、その鈴、いただけるのですか?」


 揶揄いを滲ませて問えば、銀正が真剣な面差しで包みを差し出した。


「受け取って、いただけるだろうか」


 どこか自信なさげに、しかし、なにか願うように、差し向けられる。

 それを心穏やかに見据え、香流は手を伸ばした。


「あなたの御心を、受け取らぬいわれなどありましょうか」


 ありがとうございます。

 二人の手の内で、魔を払う音がころりと鳴る。


「どうか、あなたに害なすものを、この鈴の音が払ってくれることを願おう」


 そして、私も。

 何かを決意するように、銀正は静かな眼差しに香流を映した。

 それは、何かの転がり始めのように香流には思えた。

 だが今は、多くを聞こうとはするまい。

 ただこの人の美しい芯を信じようと心に決め、大切に鈴を受け取った。

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