十六

 銀正の外出を見送ったあと、香流は午前の掃除を始めていた。


「香流様、先ほどから上の空ですよ! それで掃除の勤めが果たせるとお思いですか!」


 きっちりと髪と袖をまとめた阿由利が、仁王立ちで箒を握りしめて言う。

 その覇気に気押されて、ぼんやりしていた香流は肩をすくめた。


「申し訳ない、少し考えごとをしておりました故」


 つい、と謝って適当に広縁を拭いていた手に力をこめる。

 香流のそんな様子を見て、阿由利はふんふんと腕を振るった。


「もうっ 今日は祭りの本宮。 朝のお勤めさえ終えれば、昼からは外出が許されるのですよ!? お祭りに行くためにもぐずぐずなどしている暇はありません、早く終わらせねば!」


 いやにやる気がみなぎっていると思っていたが、なるほど、そういうことか。

 そんなところはまだまだ幼いなぁとちょっとばかり笑って、香流は雑巾を水桶に突っ込んだ。


「阿由利殿」


「なんです?」


「少しお聞きしたいのですが、美弥の祭りは一体どのような様子ですか? 私の里は山奥故、都のお祭りなど行ったこともないのです。 ですから、想像もつかなくて」


 香流の里にも、五穀豊穣を願う祭事はあった。

 だがそれらは大抵神社の神事のみで、派手なものではない。

 家でも普段より良い食事が出るだけで、こんな大きな都会の祭りとは比べものにはならないことくらいは、香流にも分かっていた。

 祭りの祝いのために右治代家は宵宮の前日から大騒ぎであったし、一体どれほどのものだろうと、気後れもしていたのだ。


「あら、そんなこと。 私にお聞きにならずとも、昼から共に祭りへ向かえばよいではありませんか」


 ちりを掃きだしながら阿由利が言うが、香流は「え、」と答えに詰まった。


「え?」


「え、っと、」


「……まさか香流様。 折角の祭りに、屋敷から出ないおつもりですか?」


 じとりとした目が寄越されて、明後日に視線を逃がす。

 朝方銀正とした約束を言うのもはばかられ、うーんと唸ってから別のことを呟いた。


「いえ、だって、私如きが遊びになど。 お許しが出ないと思っておりましたから」


 まさかそんなことと、考えもしなかったのですよと返せば、


「……はぁ~」


 呆れ気味なため息が返され、阿由利がふんぞり返った。


「香流様は頓珍漢な方ですね。 お勤めごとには前のめりでいらっしゃるのに、こと御自分の余暇のこととなると途端に適当になさる」


 そんなことでは損な役回りばかりになってしまいますよ。

 年下の阿由利に諭され、香流は「はい」と肩身をせばめた。

 なんだか物言いが苑枝に似てきたなぁと思うのは、気のせいだろうか。

 気を取り直して掃き掃除を再開した阿由利は、きらきらとしたものをまき散らしながら祭りについて教えてくれた。


「さしもの私も、秀峰の祭りは存じ上げませんが、この美弥の祭りは近隣諸国でも随一の規模ですよ! この時期に合わせて多くの店が立ち並びますし、芝居も多く行われます。 当主様が率いられる狩士行列も、とても華やかで勇ましいのですから!」


「ほぅ」


 確か、秀峰の祭にも、狩司衆の行列が出ていたはず。

 兄の真殿も、若手として招集されたことがあったのだ。

 自分は都まで行けなかったから見れはしなかったけれど、


「(あの方が狩司衆を率いる姿は、どのようなものでしょうね……)」


 今朝方、白い羽織を翻して出て行った男を想う。

 確かに、その先頭に立つ姿は見てみたいものだと、香流はぼんやり思った。


「行列は昼から始まりますから、きっと見るのも間に合います。 ですから、早くお勤めを終わらせましょうね!」


 阿由利が気合を入れて手を握りしめる。

 それに困り顔で断りを入れようとしたとき、




「香流様、香流様! 要事です!」


「苑枝殿?」




 廊下の角から、苑枝が急ぎ足でやってきた。


「どうかいたしましたか。 何か困りごとでも……」


 香流が立ち上がって迎えると、苑枝はずいと勢い込んで何かを目の前に突き付けてきた。


「当主様がこれをお忘れに」


「……たすき?」


 差し出されたのは、一本の襷だった。


「祭行列でお使いになる襷です。 狩司衆の行列では、皆襷を締めて列に加わるのです」


 白地のそれは色鮮やかな縫物がされ、とても上等な品に見えた。

 なるほど、これならあの濃色の衣装に映えるだろう。

 そう香流が見分していると、


「どうしましょう。 これがなければ、御当主は列に加われません」


「…………」


 困った、困ったと頬を撫でる苑枝。

 その目がちらちらと香流を見るので、なんとなく香流は察してしまった。

 一瞬銀正との約束がよぎり、「下男の方に頼まれればどうでしょう?」と言いかけたが、


「ちょうどよかった! 今、二人で祭りに行こうと話していたところなのですよ」


と、一瞬早く阿由利が手を打って喜色を浮かべた。

 おっと、まずい。

 焦った香流が口を挟もうとするが、香流を置き去りに、二人の話が盛り上がる。


「あらまぁ、そうでしたか! なら、二人でこれを届けてはくれませんか?」


「ええ、勿論! 行列を見物してくるつもりなので、その前に御当主までお渡ししますよ」


「それはよい。 では、頼みましたよ」


「はい!」


 あああ、と額を覆う香流。

 くるっと振り向いた二人の笑みに、目が焼かれた。


「ということで、行って参りましょうね、香流様!」


「頼みますよ、香流様」


「…………はい」


 すみません、御当主。

 心の中で明後日に拝んだ香流。

 苑枝が差し出した襷を受け取って、さてどう銀正に申し開こうかと遠くを見る。

 すると、


「では、香流様」


 いい笑みを浮かべた苑枝が、手のひらを向けて何事かを要求してきた。

 ぱちり。

 目を瞬かせれば、手は人差し指を立てて、背負ったハタキを示してくる。


「え、」


「え、ではありませんよ。 外に出るのに、流石にそれは駄目です」


 帰ってくるまで預かりますと、断固として宣言し、苑枝は一言。

 よくめかしこんで、いってらっしゃいませ。

 鷹揚に笑った。






 *






 本日晴天。

 青い空に舞うは、薄紅の紙吹雪。

 大道芸者が降り散らすそれに、道行く者は皆、満開の笑みで手を伸ばす。

 通りに連なる祭り提灯。

 客を呼び込む、露店主の声。

 遠く見晴るかす城は錦の旗がはためいて、大輪の花を装うように佇んでいた。


「これはすごい。 流石大国、圧倒されるほど華やかな祭りですね」


 人がひしめき合う道を進みながら、香流は驚嘆をつぶやいた。

 広い通りは人、人、人。

 城下中の人間が表に出てきたような人波に、山里育ちの香流は一瞬くらりとめまいを覚える。


「この祭りは美弥の開国祝いと、夏の無病息災を願う意味があるのです。 ですから今日ばかりは国主様もご城下に参られ、町人と一緒に祭りを見物するのですよ」


 はぐれないよう手をつないだ阿由利が、香流を導きながら説明をくれる。

 二人は外出用の華やかな小袖に身を包んで、苑枝の使いのために祭りへと繰り出していた。

 最初、急ぎの用なら自分一人でと香流は言ったのだが、苑枝と阿由利に反対されて二人で出てきたのだ。(『仮とはいえ右治代の嫁様を、お一人で市中に出すなど以ての外です!』『ひどいです香流様! 私を置いて行かれるつもりですか!?』)

 自分で言うのもなんだが、氷運びまでする女にそれほど過保護にならずとも、とは思った。

 しかし、先を行く阿由利が至極楽しげなので、口には出さない。

 香流だって、人と楽しみを共有するのは嬉しいのである。


「外出の許しが出たのですから、たくさん店を回りましょうね。 香流様はどんな店が見たいですか?」


「そうですね……」


「今日は芝居小屋も、特別な演目をするそうですよ!」


 目をきらきらさせる阿由利に、香流は「うーん、」と考える。

 そして、ふと一つ、思いついた。


「あの、店もよいのですが、一か所、見てみたいところがあります」


「見てみたい? どこですか?」


「ええっと、あるお寺に、ずっと行ってみたいと思っていまして」


「お寺? 折角の祭りですのに?」


 そんな勿体ないと、阿由利が呆れた顔をする。

 しかし、香流にとっては、美弥に来るなら必ず行こうと決めていたところでもあるのだ。


「お寺でしたら、次に外出ができる時でいいではありませんか」


「次は、いつになるか分かりませんから。 なるたけ早く見てみたいのですよ」


「なぜですか?」


 不思議そうな問いに、香流はひっそりと微笑む。


「ある方に、所縁ゆかりがあるお寺なので」


 それだけを答えて、あとは笑みの中に隠した。

 阿由利は「? そうですか」と半分分かっていない様子で納得して、また前を向いて歩きだした。


「それはそうと、阿由利殿。 私たちは今、どこへ向かっているのですか?」


 結局苑枝には阿由利に付いてゆくよう言われたきりなので、香流は目指す先を知らない。

 預かってきた襷を懐の上から押さえて訊くと、阿由利は城の東を指さして振り返った。


「城の東にある通用門ですよ。 狩士行列はそこから出発するのが通例なのです」


 そろそろ昼前になる。

 急ぎましょうと引っ張られ、香流はこくんと頷いた。






 *






 東の通用門から続く道には、多くの人だかりができていた。

 老いた者から幼子まで。

 皆が行列が出てくるのを、今か今かと待ちわびているのである。


「すごい人ですね…… どうやって御当主のところまで参りましょうか?」


「門のあたりにいる役人の方に取次ぎを頼みましょう。 用向きを伝えれば、通してくださいますよ」


 押し合いへし合いする人の後ろをかいくぐって、何とか香流たちは門の手前まで来た。

 人を規制している役人らしき男たちに声をかけて、事情を話す。

 男たちは二人を認めると、狩士を呼んでくると言って、一人が門の中に入って行った。

 行列は門の向こうの広場に待機しているらしく、すぐに狩士らしき青年が一人、役人に伴われてやってきた。


「あの、頭狩様に御用があるとうかがったのですが…… どちらの方でしょうか?」


 まだ年若そうな青年は、戸惑ったように二人を交互に見る。

 おそらく狩士でも若手だろう。

 香流が用向きを説明しようとして口を開いたが、その前に阿由利が一歩前に出た。


「右治代家当主様の身内です。 こちらは右治代忠守様の許嫁、香流様。 私は侍女の阿由利です。 忠守様に、届け物をしに参りました」


「え、え!? 頭狩様の? そ、それは失礼いたしました!」


 驚いて飛び上った青年は、ぺこぺこと頭を下げて詫びてきた。

 その間にちらちらと香流を見る目が『この人が頭狩様の許嫁様……』と語っているようで、むず痒い思いがする。

 視線を払うようにコホンと咳をした香流は、懐から包みを取り出した。


「家に忘れていらした、襷を持って参ったのです。 取次ぎいただけますか?」


 包みを示すと、青年はこくこく頷いて、二人を門へと誘った。

 十雪とゆきと名乗った青年は、至極人懐っこい若者だった。


「まさか、頭狩様の許嫁様にお会いできるとは思いませんでした!」


 振り返ってとても光栄ですとはにかむ顔は、人好きがする。

 香流は里の若手狩士を思い出しながら、ふふっと苦笑した。


「随分田舎臭い年増で驚かれたでしょう」


「い、いえ、とんでもない! とても、えと、凛とされていて……」


 こんなにお綺麗な方とは…… と十雪が頭をかいて顔を真っ赤にする。

 すると、なぜか横の阿由利が満足そうに胸を張った。


「そうでしょう、そうでしょう! 香流様はそんじょそこらの女人とは、佇まいが段違いなのですよ。 常にすっとした背筋、澄み渡った眼差し、余分のない所作。 お寺で作法を修めておられた銀正様と並べば、白銀と黒の御髪おぐしの流れる背が美しく、それはそれは似合いの立ち姿なのですから!」


「そ、そうですね、それは私も思います! きっと素敵な絵姿になるでしょうねぇ」


 なにやら陶酔の世界を作る二人に取り残され、香流は「えー…っと、」と遣るあてのない手をさ迷わせる。

 そう褒めていたただくほど、私は綺麗でもなんでもないですよ、とか。

 阿由利殿、そんなこと思ってらしたんですか、とか。

 言いたいことは二、三あったが、今の二人には届きそうにない。


「私は、実は頭狩様のことを、とても尊敬申し上げているんですよ」


 きらきらと金粉をまき散らして銀正を誇る十雪は、何事かを思い出すように空を見上げた。


「まだお若いのにとても謙虚で家柄を笠に着ず、狩場にあっても冷静で。 狩士になって一年とは思えぬほど、刀の技量も素晴らしい」


 以前、比肩を得るには実力不足だと銀正が言っていたのを知っていた香流は、おやっと眉を上げた。


「つかぬことを伺いますが、御当主はとてもお強いのですか?」


「ええ、それは勿論! なんでも幼少のみぎり、預けられてらした寺で高名な狩士に薫陶を受けられたそうで。 動きの素早い飢神相手でも、その腕はとても冴えておりましたよ!」


 興奮気味にこぶしを握った十雪はそう銀正を褒め称えると、「実は、」と言って恥ずかし気に顔を赤らめた。


「その、私、先の狩りで飢神に食われそうになったところを、頭狩様に助けていただきまして。 そのお姿がとても凛々しく、御立派でした。 それで、その折に言葉を頂いたのです。――――『何があっても、飢神から目を離すな。 確実に狩り取るまで目を背けるな』」


「!」


 言葉を聞いた途端だった。

 香流は張り飛ばされたような衝撃を受けて、立ち止まった。

 急速に視界が曖昧になって、頭の奥から遠い声が聞こえる。

 通り過ぎた十雪と阿由利が、不思議そうに振り返って香流を見る。

 どうして、とのどが干上がった。

 そんな、と信じられない思いが背を貫いた。

 まさか、とわななく心が苦しい。

 数瞬唇を震わせた香流は、「……それは確かに、御当主が?」と十雪に確かめた。


「え、ええ。 私が飢神に恐れをなして目を閉じたために、忠言として言って下さたのだと、」


 とてもありがたい言葉だと、思いまして。

 突然血相を変えた香流に戸惑った様子で、十雪は答える。

 その肯定に、香流はじっと目をつむる。

 ああ、と薄く開いた唇から、息が漏れ出でた。

 そうか。

 そうなのか。


 ――――なんということだろう。


 己の内側を満たす奇妙な感慨に、心が酔う。

 ともに庵で座したときに見た、あの秀麗な横顔が過った。



 御当主。


「(あなたが、そうだったのですね)」



 遠い残影が香流に手を振っている。

 それがだだただ懐かしくて、香流は束の間立ち尽くしていた。

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