十五

「まさか、本当に運んでいらっしゃるとは思いませんでしたよ」


 日が昇ってしばらくした頃。

 右治代家の納屋で大八車を片付ける香流に、阿由利が呆れ果てた声をかけた。

 それに香流は、ふっと苦笑して答える。


「まぁ、それなりに苦労はしましたよ」


 順当な受け答え。

 しかし、その額には汗一つ浮いていないのであった。







 香流の新たな勤めは、まず三日を過ぎた。

 この時期、美弥の城下では夏の祭りが執り行われる。

 その祝いのために必要とされる氷を、香流は結局たった一人で山中の氷室から運んできた。

 すでに昨日宵宮は経て、この日は本宮。

 今日必要な氷は、もう屋敷地下の保存庫に搬入し終えている。


「氷の積み下ろしだけでも一苦労ですのに。 よくもまぁ、それを引いて山を下りてこられたものです」


「大した行程ではありませんでしたよ。 道も整っておりましたしね」


「だからといって、女人一人でよくやり通しましたよ」


「そう褒められると気恥しいです」


「褒めていません! 呆れているだけです!」


 明後日な取り方をする香流に、阿由利はぴしゃりと訂正を入れる。

 全く痛い思いをしていないのが逆に始末が悪い、とか。

 御身を案じている方の気持ちもおもんぱかってほしい、とか。

 言いたいことを言って口を尖らせる阿由利に、香流はふふと笑みをこぼす。

 その様子がまるっきり堪えたようでなくて、阿由利は一層憤慨する。

 完全に阿由利の独り相撲を演じながら、二人は朝の掃除仕事へ向かうため、片付けを終えた納屋を後にした。

 

 裏口は使わず、外を通って奥座敷へ向かう間も、阿由利の小言は治まらない。

 かっかと頬を茹らせながら香流へ向けられていた怒りの矛先は、ついにこの家の陰の権力者へ向かった。


「まったくもう! 本当に大奥様もひどい仕打ちをなさります。 いくら香流様が正式な嫁ではないとはいえ、こんな使いようはあんまりですっ」


「まぁまぁ、阿由利殿。 弓鶴様にも、何かお考えがおありなのですよ、きっと。 私は気にしておりません」


「そこは気にしてくださいまし! 香流様がそのようになんでも引き受けるから、話が大事になってゆくのです。 もっと御身を大切になさってですねっ」


「はいはい、分かっていますよ」


 憤慨する阿由利をなだめ、香流は苦笑して背後に追いつく。

 謎の赤ら顔の反応から一転。

 口うるさく香流をたしなめるようになった阿由利に、香流は以前より親しみが増していた。

 阿由利の方も随分遠慮がなくなって、真殿のほかに兄弟のいない香流は、妹がいればこんな感じだろうかとしみじみ思ったりする。

 そのためか、こうして心配をするが故の小言をもらっていると、ついその艶やかな黒髪の頭を撫でたくなるのだ。

 とはいえそんなことをすれば、なおさら小言が飛んできそうなものだ。

 つい伸ばしそうになる手を後ろ手に握って、機嫌を取ろうとした香流は「阿由利殿」と声をかける。

 それに、阿由利が「はい?」と答えそうになった時だった。




「ねぇ、あの娘様、まだあのお役目続けているの?」




 頭の上の格子窓から、ひそひそ声が降り落ちてきた。

 咄嗟に気配を殺した香流は、半開きになっていた阿由利の口を塞ぐ。

 伸ばした手の上でくりくりした目が見開かれ、香流はしーっと合図を送った。



「ええ、全く音をあげないそうよ。 一体、どんな育ちをなさったのか」


 声は、二人の頭上の格子窓から漏れ聞こえていた。

 目で示し合わせた二人は、そろそろと上を見上げる。


「秀峰の狩司衆一門の出身なのでしょう? それも頭領家の。 それなりにいい家の出でしょうに、よくやるわよねぇ」


 三つ目の声が相槌を打った。

 どうやら、下女らしき女たちが噂話に興じているらしい。

 動きを止めた香流と阿由利は、そろそろと視線を戻すと、そっと目配せしあった。

 その間にも、女たちの話し声は続く。


「侍女のように掃除仕事を与えたばかりか、氷運びなんて下男のする仕事を申しつけるなんて、奥方様もひどいことをなさるね。 やはり息子の嫁は敵なのかしら?」


「あら、違うわよ。 奥方様と御当主が不仲なのは、あなたも知ってるでしょう。 あれはきっと、なのよ」


「同族嫌悪?」


「そう」


 同族?

 腑に落ちない言葉に、香流は目をすがめる。


「なぁに? どういうことなの?」


 一人が先を促して、声は急に周囲をはばかるように小さくなった。


「それがよ。 以前、侍女の一人が教えてくれたのだけれど、実は奥方様も他所よその国から嫁いで来られた方なのですって」


「まぁ、そうなの?」


「ええ。 それでいらした当初は、随分苦労なさったらしいわ」


「どうして?」


「お亡くなりになった前々代御当主夫婦…… つまり舅夫婦と、あまり折り合いがよくなかったそうよ。 特に姑の吉の方様からは、ひどくきつい当たりを受けていたのですって」


 手の中で、阿由利が息を飲んだ気配がした。

 聞き手は「へぇ!」と驚いた声を上げ、したりとした調子で続けた。


「嫁姑のいさかいなんてよく聞く話だけれど、そういうものは、高貴な家でも変わらないのねぇ」


「それにねぇ? 奥方様は長らく子供ができなかったせいで、夫であった前当主様とも、仲がよろしくなかったのですって。 他国に嫁いで後ろ盾もない奥方様は、誰にも庇われることなく、ずっと一人で孤独に耐えていたそうよ」


「まぁ…… 御可哀そうな話ね」


 女たちの声が、足音とともに遠のく。

 それがすっかり消えてしまってから、香流はそっと体のこわばりを解き、気配を取り戻した。

 正面に目を遣れば、阿由利が難しい顔で固まっている。

 その手を取って、香流は「行きましょう」と歩みだした。

 屋敷を壁伝いに歩いて、しばらく。

 ぽつぽつと阿由利が言葉を零し始めた。



「大奥様も、他所からいらした方だったのですね……」


 香流と同じ、余所者の花嫁。

 それなのに、なぜ。


「ご自分も同じ身の上なのに、なぜ大奥様は香流様を目の敵にされるのでしょう」


 悩みを深くする呟きに、香流は少しの間考え、


「……あの方にも、人には零せぬ事情というものがあるのでしょう」


と、小さく返した。


 人のしてきた苦労など、同じものを知らない他者に、すべて共感することなどできはしない。

 今しがた聞いた話が真だとして、それから彼の御方の心中を勝手に推し量るなど、傲慢なことだ。

 過去の苦悩なんてものは、人によっては触れられたくないと隠す傷でもあるのかもしれないのだから。


「……でも、そうですね」


 歩みを止めて振り返った香流は、弱ったような阿由利の目を見つめて、柔らかく囁く。

 目の奥に、氷の黒い虚ろが香流を見ている。

 決して人を寄せ付けない目で見据えている。

 凍てついた視線を幻視して、香流は思った。

 

 もしも。


 もしも、によって、あの女性が苦しんでいるのなら。

 聞くことを、もし、あの人が許してくれるなら。 


「いつか、聞いてみたいですね。 あなた様の心は、何を望んでいるのですかと」


 あの氷の奥底に燃える炎が、焦がすもの。

 誰にも触らせぬところで燃え続けるあの人の願いを聞いてみたい。

 そしたら、あの人の目はどんなふうに溶けだすのだろう。


「そうすれば…… あの人の心を知ることができれば、このお役目の苦労も、報われるかもしれませんね」 


 優しげに笑う香流に、阿由利がぐっとつないだ手に力を籠める。

 それを握り返して、香流は再び歩みだした。

 そして青い晴れ空を見上げ、何かを吹き飛ばすように笑う。


「それに、あの御方が何事かを耐えて今日まで生きていらしたなら。 なおのこと、私は私の務めを、きっちりやりきらねばなりますまいよ」


 あの人に認めていただくためにも、ね。

 闊達かったつにそう言えば、こちらを見上げる阿由利が、ひどく困ったように顔をへしゃげた。

 それを安心させるように微笑んで、香流は前を向く。

 



 その先で、声が二人を呼んでいた。




「香流様、香流様!」


 進む先の広縁から、苑枝が二人を手招いている。

 筆頭女中は早くと急き立てるように二人を呼び、


「そろそろ当主様の準備のお時間ですよ! お早くお上がり下さいませ」


と、告げたのだった。





 *





 いつかと同じ、部屋の様相。

 控える侍女たちと、針のむしろな香流。

 一人分の狩衣装。


 唯一違うとすれば、狩衣装それが以前にも増して煌びやかさ甚だしいことくらいだ。


「当主様がいらっしゃいます」


 廊下を戻ってきた苑枝が、障子を開きながら知らせる。

 それから間を置かず、苑枝の背後から平素の着物を纏った銀正が配下を伴って入ってきた。


「お召し替えを」


 苑枝の声掛けで室内の全員が動き出す。

 衣装を渡された香流は、男たちが銀正の着物を脱がせるのを待った。

 薄手の布の上から見た銀正の体は、若い細さがありながらも、鍛え抜かれた筋の盛り上がりが見て取れて、香流はなるほどと感心していた。


「(前回は衣装にばかり気を取られていましたが、この体つき…… この方もやはり、狩士なのですね)」


 たった一年前から役目をいただいているとは、思えぬことだ。

 なにか寺でも武芸などなさっていたのだろうかと考えていたところで、男たちの手が止まった。

 ついに一番下の着物姿になった銀正に、香流は濃緑の衣装と銀鼠の袴を着付けてゆく。

 最後に金糸銀糸の縫い込まれた真っ白な羽織を後ろから着せてみれば、雅な祭り衣装が出来上がりだ。




「お似合いです」


 後ろから襟を整えながら、香流は細く囁いた。

 動き回る侍女や小姓たちには聴こえなかっただろうが、銀正には確実に届く大きさだ。

 白い肩は小さく反応を示したが、寄越された琥珀の目は少し考えた様子で揺れただけで隠れてしまった。

 おやと思い、目を瞬かせる香流。

 すると突然、


「すまない、皆。 少し外す」


と言って、銀正は廊下の方へ出た。

 廊下に立った麗しい見目の若者は、何かを言いた気に香流を見る。

 その意味を察しかねたために香流が突っ立っていると、苑枝が無言で背中を押してきた。


「??」


 押されるまま銀正の近くに寄れば、琥珀の目はうんと頷いて、香流を先へと導く。

 訳も分からぬままついていけば、背後で声のない悲鳴を聞いた気がした。

 二人は広縁をまっすぐ進んで、人気のない当たりまでやってきた。


「どうか、なさったのですか? 御当主」


 曲がり角で立ち止まった銀正に、香流が首を傾げれば、向こうは何かを言いにくそうにして視線を落とした。


「御当主?」


「……いや、その」


「はい」


「その、だな」


 随分歯切れが悪い銀正に辛抱強く待っていると、ちらりと寄越された視線が、諦めたように香流を見据えた。


「その、聞きたいんだ。 なにか、欲しいものはないかということを」


「……欲しいもの?」


 唐突な問いかけに、香流は無意識で言葉を繰り返した。

 いきなりなにをと、いろいろと湧き上がる疑問へ頭が飽和したが、黙っていても仕方がないと、香流は「なぜですか?」と訳を聞いた。

 それに銀正はぽつりと呟く。


「……今日は祭りだろう」


「はい、祭りですね」


 だから?

 もっとはっきりと言ってくださいと、ついに顔へ出だしてしまった香流に、とうとう銀正は諦めて目を覆った。


「あ…… なたが、欲しいものを買ってくると言いたいんだ。 その、これまで、きつい仕事ばかりを受けてきたのだから、せめてもの慰労に、な」


「え?」


 ぱちりとまぶたを上下する香流。

 そうして、言われたことをじっくり咀嚼する。

 一通り考えて、一度銀正を見て、二度見て、それから出てくるときの苑枝の訳知り顔を思い出した。

 それでやっと、察しをつけた。




「御当主…… 苑枝殿に、入れ知恵されましたか?」


「っ、」




 分かりやすく銀正が狼狽えたので、香流はやはりと頷いた。

 道理で、あの苑枝がついてこないわけである。(大抵、あの女中は銀正に付き従っている)


「それで、ご本意は?」


 欲しいものえさで釣って、その後の狙いは何です? と聞き返せば、銀正は困った顔で視線をさ迷わせた。


「いや、本意…… は、あるんだが」


 どうにも戸惑いが大きい様子の銀正に、香流もおや、深読みだったろうかと追及を緩める。


「……まぁ、いいのですが。 ――――本当に、土産をいただけるのですか?」


 幾分物腰柔らかく確認すれば、銀正はやっとこちらを見て首を縦に振った。


「あなたへの、せめてものねぎらいだ。 それくらいは、させてほしい。 庵の掃除も、していただいたことだしな」


「それは、」


 構いませんのにと続けようとしたが、それも遠慮が過ぎるかと香流は考えを改めた。

 では、どうしたものか。

 少しの間空を眺め、香流は模索した。

 そして、一つ決める。


「では、大変恐縮ですが、一つお願いしてもよろしいですか?」


「あ、ああ」


 ほっとして応じた銀正に、香流は微笑む。

 それから自分を指さして、屈託なく言った。


「それでしたら…… 何となくでいいんです。 御当主が、私が喜びそうだと思ったものを、買ってきてくださいませんか? 私は、それが何なのかを楽しみにして待っておりたいと存じます」


「あなたが…… 喜ぶもの、か?」


 曖昧な願いに、銀正は困惑して眉を下げた。


「それは、なかなか難しい話では……?」


 確かに、まだ共にある時間が短い自分たちだ。

 それで喜ぶものを選べと言うのも、無茶な話かもしれない。

 でも、だからこそ、香流は銀正が自分のことを考えて選んだものを見てみたいのだ。


「なんでもいいんです。 私は、御当主がどんなふうに考えて、何を選んでくださるのかに、興味があるのですから」


 お願いします。

 からりと笑って頼むと、なぜか銀正は途端に真顔になって黙り込む。

 その目がじいと見てくるので、香流は同じように黙り込んだ。

 そうやって小さな沈黙が落ちた後、銀正は重々しく口を開いた。


うけたまわった。 きっと、買ってくる。 …………だから一つだけ、あなたに約束してほしいことがあるんだ」


「はい、なんでしょう」


 返せば、琥珀の目は一瞬の躊躇ためらいの後に閉じられ、決然とした色を帯びて香流を再び見た。


「どうか理由は聞かず、今日だけは、この家から出ないでほしい」


 約束してもらえるだろうか?


「……祭りには、来るなと言うことですか?」


 確認するように聞くと、肯首が戻る。

 正直に言えば、なぜと問いたかった。

 だが、銀正はそれをしてくれるなと言った。

 なら、香流に出来る返事など、一つしかない。


「分かりました、屋敷からは出ません。 きっと、家でお待ち申しております」


 ですから、憂いなく行ってらっしゃいませ。

 腰を折った先で、送り出す言葉を舌に乗せる。

 何も聞かないし、何も言わない。

 銀正が待ってくれというのなら、香流の立場では、それに従うだけだ。





 しかし、ただ一つ。

 一つだけ。


 最後に見た淡い目が苦しげに揺れた理由を、香流は知りたいと思っていた。

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