董慶とうけいという僧侶は、香流の里の先達だった。

 三つになったばかりの香流が初めて出会ったとき、すでに齢五十を目前とした老境。

 頭髪はきれいに丸められ、伸ばされた髭も剛毛ながら、いつも丁寧にそろえられていた。

 隻眼隻腕の出で立ちは、かつて歴戦の雄であった狩司衆としての面影をまざまざと人に印象付ける。

 そんな、荒々しさと静謐せいひつさが合わさった、深い山のような人だった。



 あれは、香流が数え五つのときのこと。


 *




『おやおや。 まぁた、里の悪ガキどもとやりあったのかい?』


 里に一つある、古びた寺の境内。

 夕暮れ色に染まるそこで着物の汚れを払っていた香流に、どこからともなく表れた董慶が、声をかけてきた。

 全身砂まみれで髪の毛もぐじゃぐじゃだった香流は、むっつりとした様子でそっぽを向く。


女子おなごの分際で生意気だと言われました。 なので、あちらの言い分を、残らず全員、山の滝つぼに放り込んできました』


 今頃、れ鼠でべそをかいているはずですと澄まして言えば、


『……冷静なんだか苛烈なんだか、よくわからん子だね、まったく』


と、呆れ気味な目が返ってくる、

 しかし先に喧嘩を売ったのは向こうなので、香流にしてみれば非難されるのは心外だ。

 お小言でもあるだろうかと身構えたが、董慶はそれ以上何も言わず、どっこいしょと本堂の階段に腰掛けて香流を手招いた。


『ほら、そんな姿じゃぁ、胸張って家に帰れんだろう。 せめて髪を直してあげるよ』


 幼い香流は、まだうまく髪を結えない。

 なので董慶の提案は正直ありがたく、素直に従ってその隣に腰を落ち着けた。

 無言で背中を向けると、片方しかない手がするんと髪ひもを外して、ぼさぼさの髪をくしけずってくれる。


『しかし、相変わらず常勝なんだなぁ、香ちゃん。 流石、お館様と奥方の子だ。 だが、そんなに片っ端からひねりつぶしていたら、誰も遊んでくれなくなるだろう』


 心配そうというよりは、多分に愉快げに董慶はたずねる。

 それに香流は『構いません』と、きっぱり一刀両断した。


『里で、私に敵う子はいません。 木登りも、勉学も、同じだけできない子と遊んでも、楽しくありません』


 だから、一人でいいんだ。

 そう、つんとして言い放つ。

 それに。


『それにみな、私のことを『姫さま』といいます。 長の娘だから、そう呼びます。 それはいいんです。 でも、『姫さま』だからと遠慮をされるのは、我慢なりません』


 里長の娘。

 その肩書が、香流にもたらすもの。

 敬いという距離と、自分たちとは同じものではないという言外のね付け。

 そうやって誰もが、香流と自分の間に線を引く。


 それがひどくくやしくて、苦しくて、うとましくて。

 そんな思いがずっと香流の心を占めていて、だから思ったのだ。

 敵わないからとなじってくる手合いも、敬いの陰で香流を厄介に思う相手も、自分には必要ない。


 私を、




『私を女子だから、長の子だからと、遠巻きにする友など、いりません』


『私は、ずっと一人でいい』




 山の合間に暮れ行く日を遠く見つめ、香流は淡々と言った。

 いつの間にか髪をく手は止まっていて、暮れ時の鐘の音だけが、境内に落ちてゆく。

 

 そんな沈黙が少しばかり続いたあと、


『……まったく、豪気な子だねぇ』


 香流を包むような柔らかな声が、背中に落ちてきた。

 同じことを以前言い張ったことがある香流は、『……董慶さまも、母さまみたいに説教なさいますか』と、声を細くした。


『なんだ、もう絞られてるのか』


『…………』


 様子で察したといったような笑い声を、董慶が上げる。

 母の剣幕を思い出した香流は、しょんもりと小さく体を丸めた。

 母は、一人でいいなどとは思い上がりだと、香流を叱った。

 己の力を過信して、他を軽んじる、恥ずべきことだと。

 

 でも。

 でも、香流は言いたかった。

 本当は、母に言い返したかった。


 でも、でも。

 最初に香流を一人にしたのは、周りの方なのに。


 きっと母は、そんな反発を許してはくれなかっただろう。

 だからぐっと我慢して腹のうちに隠していたけれど。

 でも、本当は言いたかった。

 私は、






『わしは構わんと思うよ』


 そう、軽やかに言って、頭に落ちてきた手がぐわんぐわんと香流をかき混ぜて、ぐずぐずと考えていたことを、散り散りにしてしまった。

 驚いた香流は咄嗟とっさに振り返ろうとしたが、大きな手が『待て待て』とそれを止めて、もう一度前を向かせてきた。

『先にくくってしまおう』と、言い足して。

 董慶は片腕と口を器用に使って、あっという間に香流の髪を元通りにしてしまった。

 そうして香流の肩を叩いて振り向かせると、あっけらかんと笑って言った。



『さっきも言ったが、わしは香ちゃんが一人でいいと思うなら、それも構わんだろうなぁと思う。 向こうから距離を置いてくるんだ。 なにくそと香ちゃんが意地を通しても、ちっともおかしなことじゃない』


『きっと奥方は、人と付き合ってゆくすべを、香ちゃんに知ってほしいんだろう。 それも一つの学びだ。 ないがしろにしてはいかん、というのもある』


『だが一方で、おのが道を突き通す。 これもだ。 わしの保証付き』


『……けどな、香ちゃん。 先のことは分からんもんだ』


『いつか香ちゃんが、そばにいたい、そばにいてほしいと思える誰かが、香ちゃんの目の前に現れるやもしれぬ』


『そんな時、一人に慣れきってしまったがゆえに、その相手の手を取り損ねては大変だ』




『だから、なぁ、香ちゃん。 『、一人でいい』なんて、強く自分を縛るような事だけは、してくれるな』


『自分で自分を、小さく閉じ込めてしまうようなことは、しないでやってくれ』



 何よりも、自分自身のために。





 夕日の赤に染まる顔が。

 大切に大切に紡がれる言葉が。

 柔らかくほどけて行くのを、香流は黙然と見つめていた。

 そして、大きな手のひらに乗せてそっと差し出されたような願いの意味を、ぼんやりと考えていた。



 きっととてもやさしい思いを、この人は香流にくれたのだろうけれど、幼い香流の手は、すべてを受け取るには小さくて。

 でも、それでも、香流は手のひらに残ったものをじっと見つめて、口を開いた。



『董慶さま』



 呼びかけに、優しい顔が微笑む。

『ん?』と傾げられる様子に、香流はただ聞いてみたかった。



『董慶さまは、そんな誰かを知っていますか?』



 おのずから、存在を願う相手。

 まだ見ぬ

 あなたはそんな何かに、



『出会うことができましたか?』



 幼く、ひた向きな問いかけだった。

 それに、あの人はなお一層笑う。

 遠い目線は、いつかの過去へ。

 、董慶は頷いた。



『ああ、見つけたよ。 わしの、――――』




 *



 懐かしい声が、遠く残響しているのを聞きながら、目が覚めた。

 少し重たいまぶたを動かして、頭を覚醒させる。

 春の朝はまだ薄暗く、朝鳥の気配もない。

 薄い障子の向こうから忍んで来る夜明けの空気に、すっと布団の中で息を吸って、香流は身を起こした。

 くらりと揺れる頭を落ち着け、半身を布団に入れたまま、揃えた手に目を落とす。

 懐かしい人だ。

 懐かしい夢を見た。


「…………」


 いつかの、大切な記憶。

 年を重ねた今なら、自分のことしか見えていなかった幼い己を、静かに眺めることができる。

 何もかもが未熟だった里の子らに、身勝手な願望を押し付け、過度な期待をしていた。

 同じく未熟で、傲慢で、小さかった子供の自分。


「(董慶様、)」


 そんな自分の至らなさに気が付いていたはずなのに。

 香流の何かを否定せず、押し付けず。

 ただ幼い自分が自ら首にかけようとしていたかせを、手ずからほどいてくれた。

 あの頃から幾年月。


 未だ自分はその手を取りたいと願う者とは出会わず、遠い他国に孤立無援。


 再び瞼を閉じれば、その裏に、昨夜向けられた玻璃はりのような目がよみがえる。

 香流を、ここにいてはいけないと撥ね付ける、頑なな背中。

 本来なら、お互いに生涯を共にすると誓い合う相手であったはずなのに。

 あの背中は、只管ひたすらに香流を遠ざける。

 夢に思い出した、幼い頃の里の子らと同じ。

 また、香流は一人のままだ。


「(……董慶様。 まだ私は、あの時教えてもらったを、見つられずにいます)」


 もうすぐ、夜が明ける。

 里を遠く離れ、見知らぬ土地でたった一人、立たねばならない日々が始まる。

 その気配が静かに寄り来るのを、香流はただじいと見つめていた。

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