第32話

 藤花が住むクリーム色のマンションは、自然豊かな場所にあるわけではない。細く伸びたビルや横へ広がるマンションの中に埋もれるように建っている。それでも、夏になればどこからか蝉の声が聞こえ、ベランダや廊下にその死骸が転がっていることがあった。九月に入ってもそれは変わらず、藤花がリビングからベランダへ出ると蝉がひっくり返っていた。


 死んでいるものだと思って近づいて、飛び立つ蝉に何度も驚かされてきた藤花は、近づかずに転がった蝉を見る。


「開いてる」


 足を閉じている蝉は死んでいる。

 足を開いている蝉はまだ生きている。

 そんな風なことをどこかで見た記憶がある。


 君子危うきに近寄らず。

 藤花は蝉に背を向けて、リビングへと戻った。


 最近、菫の小言が多い。

 働きもせずに家にいる娘に対して、母親なりに心配しているということはわかる。だが、鬱陶しくもあった。気晴らしにどこかへ出かけようと思っても、遅めの昼食を胃に詰め込んだ体が重い。そして、外は相変わらず暑かった。


 九月に入って数日、前触れもなく秋がやってくるわけもなく夏は当然のように続いている。窓ガラス越しに見る空には、大きな雲が浮かび、やけに近くにあるように見えた。


 藤花は、昼休みに灰色のビルの屋上から眺める空が好きだった。しかし、今は空を見ても心が晴れない。体と同じように、気持ちも重かった。


 リビングに一人、藤花はソファーに沈み込む。

 照明を付けずとも明るい部屋で目を閉じる。


 無職の藤花には、時間がそれなりにあった。終わりかけの八月が予定で埋まっているなどということがあろうはずがなかった。だが、あれから菖子には会っていない。なんだかんだと理由を付けてメッセージのやりとりと電話で済ませていた。


 その間、藤花がしていたことと言えば、能力訓練の真似事だ。


 紙を浮かしたり、ペンを浮かせたり。

 ときには、十円玉を浮かせることもあった。


 続けていれば、いつか力が強くなるのかもしれないと愚直に能力を使い続けているが、今のところ変化はない。


「髪、もっと伸ばそうかな」


 初めて見た夢の中、菖蒲が髪には霊力が宿りやすく、伸ばせば能力が上がるかもしれないと言っていた。藤花は肩より長い程度の髪を腰まで伸ばせば力が強くなるかもしれないと、根拠のない言葉を信じてみたくなる。


 菖子の長い髪は能力を伸ばすためだろうかと考えて、藤花は頭の中から彼女の姿を消すように強く息を吐いた。

 九月になれば学校が始まり、会える機会が減る。それがわかっていて菖子を遠ざけた。


 近づいてみたり、離れたり。

 身勝手にも程があると思うが、自分の意思というものをしっかりと保つことができない。菖子のことを思えば、早く態度を決めた方が良い。想いに応えられないのなら、彼女との関係を断ち切るべきだ。


 しかし、藤花は風に流されるように、あちらこちらへふらふらしている。せめて、自分と淡藤を切り離せないものかともがいてはいるものの、現状を変えることができずにいた。


 結局、藤花が縋れるものは前世しかない。

 淡藤についてもっと知ることができれば、淡藤と自分が別の人間だと自信をもって考えられるのではないかと思っているが、夢を見ることができずにいる。


 淡藤のアカウントも変わりがない。

 黒紅たちのことも書き加えてあるが、誰からも連絡はなかった。


『淡藤のこと、何か教えて』


 遠ざけたはずの菖子に尋ねるのは、間違っている。そう思いながらも、藤花はメッセージを送る。しかし、学校で授業を受けているであろう女子高生からは返事がない。


 わかっている。

 それでも、返事が来ないことに落胆している。


 藤花はごろりと横になると、ままならない感情をソファーにぶつけるように行儀悪く肘掛けを蹴った。


『帰りにアイス買ってきて』


 いつ戻ってくるのかわからない柚葉にメッセージを送り、動画を見る。八月の終わりに、黒紅の動画を何本か見たがそれほど面白いものではなかった。二人に会ったことは、あまり良い思い出ではない。だが、黒紅の動画は一つのきっかけにはなった。


 彼の存在によって、SNSだけでなく配信されている動画の中に前世の仲間がいるかもしれないと、動画共有サービスもチェックするようになっている。


 一本、二本と動画を見て、三本目を見始めた頃、菖子からメッセージが届く。


『よく小さなぬいぐるみを動かして見せてくれた』

『苦い物が嫌いで、甘い物が好きだった』


 休み時間なのか、立て続けに聞いたことがあることもないこともメッセージとして送られてくる。そして、『藤花、本当は暇でしょ』と声色が想像できそうな言葉がスマートフォンの画面に表示された。


 距離を置く。

 それは、菖子の配慮によって成り立っている。藤花もそれはよくわかっている。だからこそ、苛立ちを隠せない。くしゃくしゃと髪をかき上げ、ため息をつく。なんと返事をすればいいかと考えて、スマートフォンを放り出した。


 深い森の中を彷徨っているようだと藤花は思う。空は生い茂った木々に隠され、足元は暗くてよく見えない。どこにいるのかもわからず、ただただ歩き続けている。


 目指すところはどこなのか。

 問いかけても、答えは返ってこない。


 藤花は、なかなか過ぎない時間をどうにか過ごす。

 早く誰かが帰って来ないかと願いながらベランダに視線をやれば、いつの間にか日が陰っていた。それでも、体を起こす気になれずごろごろとしていると、電話がかかってくる。投げ出したスマートフォンを手に取り、画面を見ると菖子の名前が表示されていた。


 藤花は、平然を装って電話に出る。

 話をすることがあるわけではない。

 しかし、話をしたくないわけではない。

 たわいもない会話を五分ほどして、電話が切れる。


 聞こえなくなった声に寂しいと感じて、藤花は脱力する。

 力の抜けた体でソファーに横になっていると、死んでいるのではないかと錯覚する。そして、このまま世界が終わってしまえば良いと思う。頭の片隅に残り続ける前世に囚われているよりは、すべて消えてなくなってしまった方がすっきりとする。


 だが、世界が唐突に終わることはない。

 蝉のようにソファーに転がっていていたところで、死ぬこともなかった。


「夕飯、用意しよ」


 藤花は今すぐに来ることのない終わりの日を待つよりも、菫に組まれた予定をこなすことにする。のろのろと立ち上がり、キッチンへ向かう。しかし、踵を返してリビングに戻ってくる。


 スマートフォンを手に取ってSNSをチェックすると、藤花自身のアカウントにメッセージが届いていた。


『お久しぶりです、蘇芳すおうです。覚えてますか?』


 藤花は、見覚えのない名前に首をひねる。

 学生時代。

 就職をしてから。

 どの記憶を辿っても、蘇芳という人物は見つからない。


『すみません。人違いじゃないですか?』


 返事を送らずに放っておくこともできるが、一応メッセージを返すとすぐに返事がやってくる。


『前世で同じ塔にいたと言えばわかりますか? 淡藤さんですよね』


 最初に浮かんだ言葉は“何故”だった。


 藤花のアカウントをどうやって探し出したのかわからない。前世について書いたアカウントは別にある。だから、前世に関連するアカウントを探していたのなら、淡藤のアカウントに辿り着くはずだ。


 蘇芳という人物には興味はあるが、不信感が拭えなかった。

 藤花は、当たり障りのない言葉を連ねて送る。


『どうしてこのアカウントに連絡してきたんですか?』

『淡藤さんのアカウントがあることは知っています。でも、個人的にお話がしたかったので、こちらに連絡しました』


 藤花も前世の仲間を求めている。

 でも、淡藤のアカウントを知っていながら、わざわざ藤花自身のアカウントを探し出してくるなど、どんな理由があっても釈然としない。


 やはり、藤花の頭には“何故”という文字しか浮かばなかった。

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