第6話

 藤花はてっぺんまで上って、重い扉に手をかける。


 心臓がどくんと鳴る。

 この先は、昨日とは違う。

 心の中で呟く。


 扉をゆっくりと開けると、寂れた屋上は藤花だけのものだった。それでも、お弁当を片手に辺りを見回す。


「さすがに、お昼には来ないか」


 藤花は、行儀が悪いと思いながらも屋上の真ん中に腰を下ろした。

 この場所には、滅多に人が来ない。コンクリートの床の下、オフィスで働く人々は屋上が存在することを忘れたように働いている。


 藤花は誰もいないこの空間で、地上よりも少しだけ近くなった空を独り占めする瞬間が好きだった。晴れた空を、夕焼けの空を自分だけのものにする。そのために、鮮やかな空とはかけ離れた趣のない階段を上ってこの場所に来ていた。


「やっぱり、貸し切りはいいねえ」


 藤花は、菫が作ったお弁当の蓋を開ける。

 昨日と変わらず風が強いが、仕事中は髪を結んでいるから前髪がほんの少し鬱陶しいくらいで他は気にはならない。藤花はミートボールを口に運び、咀嚼する。


 屋上には、澄んだ空以外は何もない。背の高いビルが背くらべをしている手すりの向こう側には、菖子が通う学校が紛れている。

 藤花は昨日、この屋上であった出来事を思い出す。体のどこかに、頭の中に響いた声が残っていた。


 時間の隙間、何もしていないと夢の切れ端が藤花の心をちくちくと刺してくる。油断すると、切れ端どうしがくっつき、集まって大きな覆いとなって思考を包み込もうとしてくる。


 藤花は、なるべく、できるだけ、頭を空っぽにしてお弁当を胃の中に放り込んでいく。

 すべて食べ終えると、睡魔が瞼を押し下げてくる。


 眠い。

 うとうととしかけて、藤花は目を開く。


 また、あの夢を見たら?


 あの二人がまた出てくるとは限らない。だが、今朝と同じように夢に出てきてしまえば、菖子という少女を肯定してしまいそうで怖かった。前世というあやふやなものが現実を浸食していくことは、今の自分を否定することに似ている。


 しかし、菖子に惹かれている自分もどこかに存在していた。前世という言葉で藤花を別の世界へ連れ去る少女は、欲しかったものを持っていそうな気がする。川上藤花という人間が必ずしも必要ではない世界から、川上藤花という人間を必要とする世界へと変えてくれそうに思えた。


 だが、それが根拠のない想像であることを知っている。

 昨日会ったばかりの高校生に、できることではないことを知っている。


 藤花は、足早に職場へと戻る。先輩は、外で昼食をとっているのかまだ戻ってきていない。休憩時間はまだ残っているが、パソコンの電源を入れた。


 藤花はその日、就業後に屋上へは行かなかった。

 学生は昼は学校に閉じ込められていても、放課後には自由になる。菖子が屋上にいないとも限らない。だから、わずかな好奇心を箱の中に閉じ込め、家へと向かった。


 夜は眠いはずなのに、目を閉じてもなかなか眠れなかった。

 やっと訪れた浅い眠りの中には、菖蒲ではなく屋上の菖子がいた。


 夢を見たくない。


 そう思いながらも、朝が来ればたった一度だけ見た夢のことを考えた。


 屋上が悪い。


 藤花はそう決めつけて、五階から続く階段を上らないことにする。


 だが、それも長くは続かない。

 翌日、翌々日は空を独り占めすることを諦めたが、我慢は十日も続かなかった。今日、藤花は屋上へ向かっている。


 あれから、前世かもしれない夢は見ていない。

 菖子のことは気にしてなどいない。

 だから、大丈夫だとこじつける。


 制服からジーンズへ、パンプスからスニーカーへ。身軽になった藤花は、テンポ良く階段を上る。きっと、菖子ももう諦めているだろうと高をくくってギギギと開けた扉の先、そこには先客がいた。

 赤にも紫にも見える色をした髪が目に入る。


「淡藤なら、きっと来るって思ってた」


 滅多に人が来ないはずの屋上で菖子が笑う。あの日とは異なり結われていない髪は、ふわふわとしていて風に流されるまま揺れていた。


 藤花はコンクリートの床を踏む前に、重たい扉を閉めようとする。しかし、完全に屋上を切り離してしまう前に菖子の声が聞こえた。


「藤花。少し話そうよ」

「こっちには、話したいことなんかない」

「あたしにはあるから、こっちに来て」


 人の話を聞くという選択肢を持っていないのか、菖子が藤花の元へやってきて有無を言わさず手首を掴む。藤花は引きずられるように、初めて会った日に菖子に触れた場所へ連行される。


「話って?」


 藤花は冷たく言って、手すりに寄りかかる。

 視線を上げると、空は梅雨らしく雲に覆われていた。


「冷たいなあ。あれから、ずっと待ってたのに」

「あれからずっと?」

「そう。放課後、毎日ここに来てた。二週間近く待ってたんだから、褒めて欲しいくらい」


 菖子が口角を上げて、藤花を見る。整った顔は、灰色の雲を吹き飛ばすような鮮やかな笑顔を作っていた。


「知ってる? そういうのストーカーって言うの」


 吐き捨てた言葉は、コンクリートの上へ落ちる。藤花は、ひしゃげた言葉に止めを刺すように床を蹴った。だが、菖子は笑顔を崩さない。胸元では、紺色のスカーフが風に吹かれてはためいていた。


「ストーカーって言うほど、つきまとってないと思うけど。もし、ストーカーだったとしても、屋上にしかいないストーカーなんて可愛いものでしょ」

「毎日、屋上で待ち伏せしてたら、七割くらいストーカーだから。大体、仕事辞めたって言ったでしょ。なんでこんなところで、私のこと待ってるの」

「なんでって。藤花がここに来ると思ってから。藤花だって、あたしがここにいると思ってたでしょ」


 当たり前だという口調で言われて、藤花は口ごもる。


 やはり、屋上に来るべきではなかった。おおよそまともとは思えない菖子が、二週間程度で藤花のことを諦めるわけがないのだ。前世などという子どもの妄言のようなものを本気で信じているのだから、藤花の予想範囲内で行動するわけがない。


「あと、辞表って、出してもすぐに辞められないんでしょ? 働いたことがなくても、調べたらそれくらいわかる。女子高生、舐めてるとこういうことになるんだよ」


 藤花の隣で、菖子が手すりに背を預ける。

 身長は、少しだけ藤花の方が高かった。

 長い髪がふわりと藤花の肩に触れ、しまい込んだ記憶の中から夢で見た光景が浮かび上がる。


 赤みがかった紫色。

 菖蒲色の髪。

 夢とよく似た甘い香りがする。


 藤花は、気がつけば菖子の髪に触れていた。


「今日は、結んでないんだ」


 あの日、風に飛ばされかけたリボンを思い浮かべる。髪を結うためにリボンを使っている女子高生を見たことはほとんどなかったが、古風なセーラー服にはよく似合っていた。


「普段は結んでない。特別なときだけ」


 菖子が静かに答える。


「この髪、学校で怒られそう」


 ふわふわとした柔らかな髪が指先に纏わり付く。指を覆う菖蒲色に目を奪われていると菖子の手が重ねられ、藤花は慌てて髪を手放した。


「怒られてるけど、成績良いから退学になったりはしない。でも、退学になったとしても黒に戻すつもりはないよ」

「そんなにこの色が好きなの?」


 問いかけると、菖子が藤花を見た。

 手が伸びてきて、藤花の髪に触れる。

 藤花がしたように、菖子が指先に髪を絡めた。


「淡藤が似合ってるって言ってた。それに、目印のつもりだったから。でも、もう目的の人に会えたし、藤花が黒が良いって言うなら黒に戻していいよ」


 髪に触れていた手が藤花の耳に触れ、なぞるように耳の形を辿る。背筋にピリピリとした電気のようなものが走り、藤花は思わず足を一歩引く。だが、背後は手すりで塞がれていて下がることができなかった。


 耳の温度を確かめるように、指先が動く。

 菖子の体温が耳から伝わってくる。

 心音が早くなる。


 触れられた部分がぞわぞわとするが、不快ではない。不思議なほど、菖子の手が体に馴染んでいた。

 藤花は彼女の指を当たり前のように受け入れている自分に唇を噛み、耳を弄ぶ菖子の手を振り払う。


「近い」

「そうだろうね。近づいてるし」

「離れて」


 藤花はセーラー服を押して、二歩ほど横に動く。しかし、菖子も距離を詰めてくる。


「離れてって」

「どうして?」

「どうしても」


 強く告げると、菖子がほんの少しだけ二人の間に隙間を作った。風の通り道程度の距離に満足したわけではないが、これ以上の押し問答は無駄でしかない。藤花は早くこの場から立ち去るために、置き去りにしていた本題に入る。


「用件は? 話があるんでしょ。ないなら、帰る」

「用事は特にないよ」

「用もないのに、二週間近くも屋上で待ってるとか馬鹿じゃないの」

「何か用を作るんだったら、藤花と話がしたかった、って感じかな」

「もう話した」


 素っ気なく言って、藤花は一歩前へと足を踏み出した。だが、菖子に腕を掴まれ、それ以上先へ行くことができない。振り返ると、菖子がねだるように言った。


「もっと話そうよ」

「私は、これ以上話すことない」

「あるよ。そうだ、前世! 思い出した?」


 問いかけられて、髪の記憶だけではなく、夢の細部まで記憶の引き出しから溢れてくる。

 菖蒲の部屋。

 超能力。

 塔のこと。

 そして、ベッドでのできごと。


 折り畳み、頭の奥の方にしまっていた記憶が綺麗に広がり、藤花は菖子から目をそらす。


「顔、赤い。大丈夫?」


 腕を掴んでいた手が頬に触れ、ひやりとした指先の感触に自分の熱を自覚する。


「大丈夫」


 言い切って、菖子の肩を押す。だが、菖子は離れるどころか、藤花に近づいてくる。


「もしかして、あたしのこと思い出した? 前世、思い出したんだよね?」


 明るい声は、肯定を強要していた。

 表情は、否定されることを想定していなかった。

 星を映したような輝く瞳が藤花を射る。


「思い出さない。大体、夢とまったく違う」

「前世の夢、見たんだ」


 菖子が確信を持って呟き、藤花のブラウスを掴む。抵抗する間もなく、綺麗と言うよりは可愛いに分類される顔が間近に迫る。

 吐息が交じり、唇が触れそうになる。

 藤花は、互いのそれが触れ合う前に菖子の口を手で塞いだ。

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