その7 扉の向こうは不思議な世界
将を射んと欲すればまず馬を射よ。……そもそも馬を射殺せるんだったらさっさと人を射っちゃえばいいよね、って思うのは僕だけなんだろうか。別に馬は人より弱くはないだろう。むしろ強いのでは? それはともかく。
「足下ってことでもなくってな」
そう言う声が聞こえつつ、扉の下の隙間からカラになった羊羹の皿が返ってきた。
あいにくと、弱点を見つけた!というような単純なお話ではないらしい。
「写真で送った例の赤いブツ、ぐねぐねした気色悪い塊がいるだろう」
これといった名前がなくて、やや話しづらい。
「あれが空間を喰ってる捕食器官なわけだが、実はあいつの正体はあれだけじゃなくって、もっとさらにでかい」
5階建てビル並の塊よりもまだ大きいって、むしろ勝率が限りなくゼロになったような気がする。
「そのおっきいやつって、どこにどうなってんの?」
「うまいこと説明しようがないから、ざっくりとしたイメージで話すけどな。あの赤いのを中心に白い菌糸なんだかアメーバなんだかよく分からん器官が根のように広がってるんだ。なんだろうな、菌のコロニーみたいなもんなのかもな。けっこう気持ち悪いが写真見るか?」
「……ううん、いい。見たくない」
気持ち悪いなんて断りを入れられたら、そんなもの絶対見たくない。
「これがかなり広がってて、たぶん末端は四方数キロにまで行ってると思う」
「え、それって、もしかして、その根みたいなやつはおじいちゃんのいるところまで、来てたりするってこと?」
「うん。というか、よくよく見れば、もうここはコロニーの中だな」
聞くだけでなんだか悪心がこみ上げる。僕はそんなやつと断固として関わりたくない。
「でもそれ、まずいじゃん。なにか実害があったりとかしないの?」
「確かなことは分からないが、こっちの根の部分に加害能力はほぼないようだ。つつこうが焼こうが引き千切ろうが、全然まったく反撃がない」
突然なにしてるんだ。触ったのか? 得体のしれない物体を刺激したのか? もし空間を喰らうレベルの反撃が来てたらどうするつもりだったんだ。恐ろしい。
「そうすると不思議だろ? この白い部分は一体何のために広がってるのかって」
そう言われても、もう祖父のバイタリティのほうが不思議すぎて全く頭が働かない。なんで広がってるって、そんなもの怪生物の自由だろう。
「増殖のためか、栄養備蓄のためか、見てるだけじゃあ確かなことは言えないが。ひとつ思ったことがある」
「……なに?」
「この白い部分は
「ひきよせるって。いい匂いがするとか、おいしそうな疑似餌があるとか、そういう感じ?」
祖父が違う、と言う。
「メシが生き物ならそうだろうが。あいつの餌は空間だろ。空間を強引に引き寄せてるんだよ」
どういうことだかまったく想像できない。
「ほんとに? 嘘でしょ?」
「知らん。でもそうとでも考えないと説明できない現象が起きてるからな。かなり高い確率で合っていると思う」
直接それを見ることのできない僕にはなんとも判断がつけられない。それにしたっていいかげん常識がぶっ飛びすぎだろう。正直言って未だにじいちゃんのひきこもりだって半信半疑、なんかのいたずらなんじゃないかと思いたいのに。
「そうだとすれば、だ。この部屋の空間がおかしくなってるのは、白いのの影響ってことだ。ならばだ、この白いのをこの辺りから取り除いて影響下から脱出できれば、元に戻る、んじゃないか」
それゆえの、根っこ狙い発言。
「だが、いくら末端を切ってみても、細く網目状に絡まってるから意味がない。もっと中心に近い太いところを何本か切る必要がある。だから、飛び道具のコイルガン、だ」
果たして本当にそんな武器でそんな作戦がうまくいくのか。
僕の不安をよそに祖父はなんとも呑気な声で答えた。
「ま、大丈夫だろう。なんだかんだ言ってファンタジーな世界だからなんとかなる気がする」
ファンタジーをなんだと思ってる。てか、この人のメンタルはどうなってる。
「どっちにしろ、ぼうっと突っ立ってたって、そのうちに喰われて消えるだけなんだ。できそうなことは全部試してみるさ」
飄々としているけれど、僕が思う以上に祖父は追い詰められているのかもしれない。
そして、僕が扉のこちら側から祖父のためにできることは、ない。
「ねぇ、おじいちゃん。気をつけて、絶対、絶対帰ってきてよ」
年を経てつやを帯びた扉に手をあててみても、そこからなにかを送れるわけもない。ただ言葉だけは祖父に届くから、それが僕にできる精一杯だ。
「おう。しっかし、コイルを綺麗に巻くのがまず面倒なんだよなぁ」
……そんなの僕は絶対手伝わないからね?
それから数日後、祖父から僕のスマホへメッセージが届いた。
曰く、「コイルガン制作、調整完了。行ってくる」と。
その短い文面に僕はなんと返せば良いか分からず、手を振っているように見えなくもない変なスタンプを一個送っておいた。
しかし祖父は返事を待たずに外へ出てしまったのだろう、とうとう既読がつくことはなく、その日一日時間だけがぼんやりと過ぎていくかのようだった。まんじりともせず授業を受け、塾へ行き、帰って風呂に入り、それでもまだ特になんの連絡もなく、僕は大人しくベッドへ入る。
翌朝、父の携帯がけたたましく鳴り響いた。
「あー、もしもし。ああ、お袋? 朝っぱらからどうしたの?」
ひげを剃りかけていた父が出る。まだすっきり目が覚めていないのか、間延びした調子で応えていたが、急に「えっ」と声をあげた。
「や、ちょっと待って、お袋ちょっと落ち着けよ。……なんか、なんかの間違いじゃなくて? や、まず警察でしょ」
不穏な単語が飛び出して、僕と母は顔を見合わせる。あまり寝ていないらしい母の目には隈がういている。
焦ってなにかを捲し立てる父に母が腹パンを繰り出した。
「まず自分が落ち着いて! なに、どうしたの?」
父が電話から耳を離す。
「いや、なんかお袋が。親父がいなくなったって」
いなくなった。母が素早く父から携帯を奪い取る。
「もしもし、お義母さん?
母が祖母と話し出す。僕は呆然とする父の裾をひっぱった。
「いなくなったって、どういうこと?」
「え、いや、いないっていうか。なんか、昨日からあんまり返事がなくって、今朝になってもないから心配になったお袋が扉を開けてみたら、部屋に親父がいないって」
部屋にいない? それは赤いのと戦うために出てるから? え、扉を開けた? 扉を開けても部屋にいない?
気づいたときには家を飛び出していた。朝の混み合う駅を走り抜ける。
なにが起こった? おじいちゃんはどうなった?
すべては思い過ごしだと確認したくて僕は走り続けた。
おばあちゃんがインターホンに出るのを待つのももどかしく、勝手に玄関を開けて上がりこむ。
「おばあちゃん!」
奥から出てきたおばあちゃんは、僕を見て目を見開いた。
「漣ちゃん、」
祖母のスマホを握り締める手が、微かに震えている。
「おばあちゃん、おじいちゃんがいなくなったって、どういうこと?」
「え、ええ。ずっと声がしないから、心配になって。覗いたら部屋にいないの」
「扉、開いたの?」
「そう、試しに引いたら開いたの。だけどおじいちゃんがいなくて」
おろおろと話す祖母をその場に残し、僕は階段を駆け上がった。
「おじいちゃん!」
扉をノックしながら声をかけても祖父の返事はない。
僕はドアレバーに手を掛ける。そっと引くと、扉はなんの抵抗もなく、静かに開いた。
「じいちゃん……」
扉の向こうに在ったのは、整然と片付けられた見覚えのある祖父の部屋だった。
しかし、そこに祖父の姿は、ない。
部屋へ入ってみても、そこに常と変わったところはない。窓から外を見ても、いつも通りの庭とビル群が見えるだけだ。
あれは全て夢だったのか。いや。違う。違う。じゃあ。どうして部屋は戻ってきたのに、そこに祖父がいない?
扉を開け閉めしてみたり、手当たり次第にそこらを覗いてみたりするが、手がかりらしきものすらなにもない。
一体祖父はどうなったのだ。あの化け物に勝ったのか、負けたのか。生きているのか、死んでしまったのか。なにも分からない。
「―― クソがッ」
扉に打ちつけた拳はじくじくと痛かった。
結局。
祖父の行方は杳として知れない。
***
手記はそこで終わっている。
俺は古びた手帳をパタリと閉じた。
なるほど、おおよそ自分の置かれた状況は把握できた。
これを書いた“漣”は俺の祖父の名前だから、つまりこの消えた人は俺の祖父の祖父、ということになる。
そして今度は祖父の家を片付けに訪れた俺が、なんの因果か巻き込まれたのだろう。
窓から外を見れば朽ちて崩れた世界が広がり、扉から出ても現実とは似ても似つかない崩壊世界があるばかり。それはまさに手記の通りで、つまり俺は祖父の部屋ごと異世界へ飛ばされた、と考えるしかない。
この祖父の手帳は、祖父が必要になるまで絶対に開けるなと遺言した室内シェルターの中に封印されていた。そこに書かれている祖父は、俺の全く知らない祖父だった。
そもそもはっきり言えば、俺は祖父のことをあまりよく知らない。孫から見た祖父は、非難されようが罵倒されようが意に介さない厚顔な人物で、到底理解などできなかった。
あれだけの権力と財力を手にしながら多くの人から蛇蝎の如く忌み嫌われるそんな生き方を孫の俺自身が軽蔑していたし、だから特に知りたいと思ったこともなかった。
祖父の死後、そのほとんどの資産は問題なく親族によって分けられたが、祖父の私物とも言うべきこの古屋だけは誰も触れたがらず、貧乏くじを引かされた俺が処分の手続きのため訪れただけだったのだが。これは貧乏くじどころの話ではない。
しかし図らずも、祖父が晩年に至るまでこの家に固執したわけを俺は知ってしまった。
そして。彼の祖父が消えたあと、祖父がなにを思いどうしたのか。手記には一言も書き残されてはいないのだが。それでも、目の前のそれを見れば俺にはなにか分かる気がした。
シェルターの中に遺された夥しい数の小火器、火砲、擲弾。およそ個人の所有できるものではないそれが、うずたかく積み上げられている。
おそらく祖父はこの崩壊世界へ来たかったのだろう。その日を見越して武器を蓄えたのだろう。そして人生が終わるまで、この部屋でその時を待ち続けた。
しかしとうとう祖父がこの世界へ来ることは叶わなかった。皮肉なことに孫の俺がたまたま来てしまった。
外には崩壊世界が広がっている。窓からは見えないが、きっと空間を喰う化け物とやらもそこにいる。
俺はそっと冷たい銃把を握りこんだ。
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